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パリ・東京雑感|予防注射に熱心なフランス / ガン検診に熱心な日本|松浦茂長

予防注射に熱心なフランス / ガン検診に熱心な日本
Japan: Insufficient Vaccination / France: Selective Cancer Screening

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

 

ルイ=レオポルド・ボワイー『天然痘の予防接種』

ギメ東洋美術館で、「アジアの医学」という展覧会をやっていた。江戸時代の経絡の図やら、漢方医が患者の脈を取っている風俗画やら……フランス人はずいぶん昔から東洋の薬草と鍼灸を本気で研究していたのがよく分かった。フランスで鍼灸師になるには医者の資格がないといけない。アパルトマンの隣人の医者アニーは、定年前に中国にまで渡って鍼灸師の資格を取り、病院でボランティア的に鍼を打っている。僕は5年ほど前、帯状疱疹にかかったとき、アニーさんに診てもらったら、ブツブツの周りに鍼を打ってくれたので、痛い思いをせずに治ってしまった。
パリにいて東洋医学の恩恵にあずかれるとは! 医学の世界の国際化は大したものだ。それでも、フランスで医者にかかると、「こんなに違うの?」と、びっくりすることが意外に多い。

1960年代にフランス人に柔道を教えたYさんが胃がんになった。日本だったら、5-6人の患者がいる病室にお見舞いに行き、周りを気にしながらちょっと挨拶するのがせいぜいだが、Yさんとは自宅でゆっくりお話しできた。
はじめのころ2-3日ほどの入院が3回あったけれど、あとは自宅から週4回2ヶ月ほど放射線治療に通ったそうだ。「寒い季節なのに救急車がなかなか来てくれなくて40分も1時間も待たされましたよ」――救急車といっても、消防署のホンモノの救急車の他に、病人用タクシーみたいな民間救急車がたくさん走っている。ガンの治療は一切タダなので、救急車も無料。負担がないかわりにサービスに問題あり?
味覚がなくなり口から食べ物が入らないので、鼻から胃に流動食を送り込む。そのために毎日看護師さんが来てくれるシステムで、Yさんは「彼女たち本当に親切ですよ」と感謝していた。もちろん出張看護師もタダ。
無料といえば、入院費も個室なのに差額ベッド料などとられず一切請求なし。
高齢の患者に負担をかけないようにと、手術しないで放射線治療だけだったせいか、体重が1ヶ月で10キロ増えてお元気に見えたが、10月12日に亡くなった。
訪問する側にとって自宅で会えるのはありがたかった。古い写真を見せてもらったり、息子さんやお孫さんも交えておしゃべりしたり、型破りなYさんの人生を知る素敵な機会になったのだけれど、入院日数が少ないのは病院側の事情もある。Yさんは入院中にコロナにかかりふらふらするし、フランス人の奥様も一緒にコロナに感染してしまったから、「退院できない」とねばったそうだが、「食事の配達を頼みなさい。自宅で治療できます。」とすげなく拒否されたそうだ。

フランスの病院はベッドが足りない、医者が足りない、看護師がやめてしまった……足りないづくしに腹を立てた医師や看護師が時々ストをする。
医者不足は地方に行くほど深刻らしく、友人のジルは9月に南仏の別荘近くで歯医者に診てもらおうとしたら、一番早くて3月の予約しかとれない。彼の場合パリに帰ればすぐ診てもらえるけれど、村民は悲惨だ。

フランスの健康保険証は、マイナンバーカードのようなICカードだ。このカードは厖大な個人情報につながっているらしく、あるとき、薬局で処方箋を見せたら、「あなたはまだ前の薬が残っています。3日後に来て下さい」と売ってくれない。「医者が計算を間違えたのです」とか「旅行に行くから今日でないと困る」とか抗弁したけれど、頑としてゆずらなかった。こんな石頭の薬剤師は問題外だが、良心的な薬剤師なら、処方箋の履歴を見て、別の医者が出した薬と重複していたり、一緒に飲んではいけない薬が処方されていたりしたとき、リスクを避けるにはどうしたら良いか考えてくれるだろう。
薬局と病院は完全にデジタル化され、保険でカバーされない3割分だけ払えばすむけれど、開業医には全額払わなければいけない。もちろん7割が健保から戻る仕組みだが、なぜ初めから3割払えばすむようにしないのだろう? それでもIC保険証の威力は大きく、3-4日後に患者の口座に7割相当が入金する。ところが、デジタル化を拒否する先生が結構多くて、昔ながらに治療票と称する紙切れに手書きで記入しサインして渡してくれる。患者は治療票に自分のサインを入れて、健保事務所に郵送。この古き良きローテク方式だと、7割分が戻るまで3-4週間待たなければならない。
(IC保険証ができて25年もたつのに、あいかわらず小切手で支払い治療票を郵送するローテクも健在。マイナンバーもフランスに見習って、ゆったり構えた方が良いのかもしれない。)

天然痘撲滅30周年を記念し、2010年、ジュネーブのWHO世界保健機関本部に建てられた予防接種像

僕は血圧計を見ただけでドキドキするから、めったに医者に行かないのだが、パリでは小切手の金額が正しく書けないという妻の診察に付き合って(なぜか医者には現金でなく小切手で支払う。金額はアラビア数字の他にフランス語で書かなければならず、これがこみいっていて僕もしばしば書き損じる)、5年ぶりにかかりつけ医に会った。先生は、妻の心電図や血圧を測り、古いカルテを丁寧に読み直し、「10年以上4種混合ワクチンを打っていません」と言って、処方箋を書いてくれた。
やおら、付き添いの僕の顔をじっと見て「ムッシュもワクチン接種しますか?」――どうやら血圧など測らずに処方箋を書いてくれそうな気配なので、「お願いします」と笑顔で答えた。健康診断は嫌いだが、ワクチンは大好き。さっそく処方箋を持って薬局に行くと、その場で薬剤師が注射してくれて、無料だった。フランスではおとなになってからも20年おき、65歳を過ぎると10年おきにジフテリア、破傷風、百日咳、ポリオの4種混合を打つことになっている。日本の伝染病専門家に聞いたら「欧米ではおおむね成人も接種する。日本もした方が良い」と解説してくれた。そう言えば5年前、隣人のアニーさんが百日咳にかかってひどく苦しんでいたっけ。大人もかかるのだ。

フランスは予防注射については日本より熱心だけれど、ガン検診については日本の方が熱心だ。会社勤めをしている間、毎年人間ドックを受ける決まりになっていたが、外国だと日本の人間ドックと同じ検査をしてもらうのは一苦労だった。ヨーロッパでは胃がんの早期発見という考え方がないらしいから、ロンドンでは「胃が痛い」と訴えてX線検査をしてもらった。アムステルダムでは、正直に「検査のため」と言ったけれど、しぶしぶ胃カメラをやってくれた。パリでは外人患者が多いアメリカン・ホスピタルに行ったのに、「症状がない人に胃カメラを入れるわけには行かない」と断られた。
フランスのガン検診は、国から手紙が届く。「検査しなさい」と書かれているのは、女性が乳ガン、子宮ガン、大腸ガンの3つ。男は大腸ガンだけ。15年ほど前は前立腺ガンも入っていたが、いつの間にか外された。欧米では、検診したグループと検診しないグループをそれぞれ何十年かフォローし、各グループの死者数に差が出るかどうか調べて、検診の有効性をみる。前立腺ガンの検診は効果なしの結果が出たわけだ。

日本より検査の種類が少ないとはいえ、テレビで「乳がん検診を受けましょう」という国のCMを見かけるし、ガン検診が大いに奨励されていることは日本と変わりない。ただ、検診でガンが早く見つけられるため、放っておいても害のないガン手術をしてしまう過剰治療のリスクを指摘する声が日本より強いかもしれない。
『ル・モンド』に「ガンとの戦い:しかし敵は誰か?」というタイトルのいかにもフランスらしい、ちょっと哲学的な投稿が載っていたのでご紹介しよう。著者は科学史研究者のイラナ・レーヴィ。

乳ガン検診

――ガンの治療は、陰険で残酷で猛烈な敵との戦争にたとえられる。「脳出血との戦い」とか「糖尿病との戦い」とか、他の病気を戦争にたとえることはないのに、ガンについては「ガンとの壮絶な戦い」、とか「勇気をもってガンと戦った英雄」といった戦争の比喩が当たり前に使われる。それというのも、19世紀までガンは必ず死ぬ病気として恐れられてきた。19世紀末にガンの手術が始められると、悪辣極まりないガンをやっつけるためには苛酷な手術も正当化されるとみなされ、悪をもって悪を制する戦争の比喩が重みをもった。
昔の手術は、進んだガンの苦痛を和らげるためだったが、やがて、ガンが小さいうちに切り取れば、(転移しない)ガンは完治することが分かった。そこで医者は、できるだけ早く、何の苦痛もなく生活に支障もないうちから手術しようとする。自覚症状さえない腫瘍のために、体にメスを入れて切り取る危険・恐怖・苦痛を受け入れさせるためには、早期治療がいかに大事かを理解させなければならない。ガン検診国民教育。ガンは怖いですよ!早く見つけて手術しましょう!一刻を争うガンとの戦い:命を賭けた戦争なのです!
ところで、いま発見されたガンは、出来たばかりで急速に増殖中の腫瘍かもしれない。だとすれば直ちに除去すべきだ。あるいは、そのガンは、何年もかかってゆっくり成長し、ようやくいま発見される大きさになったのかもしれない。だとすれば、除去しなくても、患者の命を脅かすまでには、まだ長い年月がかかる。いや多くの場合、患者の命を縮める可能性は全くないのである。
それでも、念のため見つかったらすぐ手術した方が安心だと考えるかもしれない。問題は、多くの場合治療の害の方が病気の害よりはるかに大きいことだ。――

レーヴィ先生に言わせれば、ガンとの戦争の本当の敵は、早期発見普及のためにガンの恐怖をあおった医師たちなのかもしれない。実際、アメリカで7万人の前立腺ガン患者について調査したところ、3分の1はリスクが小さく、治療するより様子見した方が良い患者だった。ところがそのうち55パーセントは、直ちに手術か放射線の治療を受けていることが分かった。
患者としては、「ガンは早く見つけて早く治療するほど死なない可能性が高まる」、と耳にたこができるくらい聞かされているのだから、いまさら医者に「様子を見ましょう」と言われても、恐怖が先に来る。ガンを抱えて生きるのは怖い。ガンは一刻も早く戦うべき敵ではなかったのか?
(日本では、前立腺ガンだけれど何も治療を受けていませんという知人もいるし、医者に「様子見」と言われれば、患者は素直に従うのかもしれない)

ガンに対する戦闘的姿勢をあらためるため、アメリカの乳がん専門家は、リスクの低いガンには別の名前を付けようと提案している。

リスクの非常に低いガンを別の病名で呼ぶようにすれば、患者に「あなたの場合、治療せずに様子を見ましょう」と説得しやすくなる。顕微鏡を通して見ればたしかにガンに分類される形をしていても、臨床的にガン(=成長し、様々の症状があらわれ、生命を脅かす)の定義に当てはまらないものは、IDLE不活性上皮病変とか前腫瘍形成とか名付けてはどうか。ともかく、ガンと呼ばないことだ。(カリフォルニア大学、ローラ・エサーマン、シカゴ大学、スコット・エゲナー『私たちがガンと呼ぶもの なにもかもがガンと呼ばれるべきではない』ニューヨーク・タイムズ2023年8月30日)

そういえば日本にはずっと前から近藤誠氏が命名した「ガンもどき」というのがあった。洒落た呼び名だけれど、「もどき」がついても、「ガン」という響きはやっぱり怖い。のらくらした響きのIDLEなら患者をほっとさせるかもしれない。

(2023/10/15)