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ひろしまオペラルネッサンス公演:モーツァルト『フィガロの結婚』|柿木伸之

ひろしまオペラルネッサンス公演:モーツァルト『フィガロの結婚』
The Annual Performance of Hiroshima Opera Renaissance: Wolfgang Amadeus Mozart’s “The Marriage of Figaro”

2023年8月26日(土)/JMSアステールプラザ大ホール(8月27日にも別キャストでの公演)
August 26, 2023 / The Large Hall of the JMS Aster Plaza, Hiroshima (Also on August 27 in Modified Casting)
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
Photos by 神明恒彦(Tsunehiko Shinmei)/写真提供:ひろしまオペラ・音楽推進委員会

〈スタッフ〉       → foreign language
芸術監督/演出:岩田達宗
指揮:柴田真耶
管弦楽:広島交響楽団
合唱:ひろしまオペラルネッサンス合唱団
副指揮/マエストロ・ソスティトゥート:平野満
合唱指導:寺沢希
美術デザイン:松生紘子
衣装デザイン:前田文子
照明デザイン:大島祐夫
舞台監督:飯田貴幸
〈キャスト〉
アルマヴィーヴァ伯爵:五島真澄
アルマヴィーヴァ伯爵夫人:原田幸子
スザンナ:田坂蘭子
フィガロ:芳賀健一
ケルビーノ:平岩蘭
マルチェッリーナ:大城薫
バルトロ:森本誠
バジリオ:升島唯博
ドン・クルツィオ:難波孝
バルバリーナ:藤田真帆
アントーニオ:木谷圭嗣
村の女性I:久保田里瑛子
村の女性II:川手響

 

モーツァルトの『フィガロの結婚』は、すでに30年を超えてJMSアステールプラザを拠点にオペラの公演と歌手などの研修を継続しているひろしまオペラルネッサンス(ひろしまオペラ・音楽推進委員会の事業の一つ)が広く知られる契機をもたらした。この作品の2006年のプロダクション(公演は10月7、8日に開催)は、その年の10月15日に新国立劇場の地域招聘公演として、この劇場のオペラ・パレスでも上演されている。その舞台を手がけたのが岩田達宗だった。岩田は、2015年の『フィガロの結婚』の公演の演出も担当している。
2023年に「アンサンブルシアター」シリーズの芸術監督として岩田が演出した舞台は、前二回のそれとは趣を異にしている。そのことを強く印象づけるのが、舞台に据えられた銀色に輝く建物である。この骨組みだけの建築物は、一方ではスザンナとフィガロに与えられた宮殿の一室、伯爵夫人の居室、そして結婚式場ともなる広間といったドラマの展開の場所を具象的に表わしている。しかし、それは同時に女性が、歴史的に規定された意味で「女性」であることに閉じこめられ、家政を担うことを強いられる場所であることも象徴している。

『フィガロの結婚』では、そのように女性が男性による支配の対象になる場所のただなかで、女性たちの叛乱が起こる。舞台上に建築物を設けた今回の岩田の演出は、このことに光を当てるものと言える。それは逢い引きの手紙の取り回しをはじめとするドラマの展開の鍵となるふるまいを明確に可視化する一方、女性を焦点に、作品の大胆な読み替えを示している。それを象徴するのが、第1幕における村の女性の合唱だろう。自分たちがこれまで弄ばれてきたことへの恨みを込め、女たちは花を、果たし状として伯爵の前に叩きつける。
フィガロに扇動されたこれらの人々ほど怒りを誇示することはないとしても、スザンナもまた、自分に言い寄ってくる伯爵が体現している、そして夫になるフィガロにも内在している、支配と被支配の関係に貫かれた社会の主体としての男性であり続けようとする欲望と対決しようとしている。そのために彼女は、身分の壁を越えて伯爵夫人と手を結ぶのだ。女性を支配しようとする欲望とは別の愛へ伯爵を目覚めさせようとする夫人の企てに乗ってスザンナは、結婚式で伯爵に偽の恋文を渡し、夫人に変装して夜の闇のなかへ入っていく。

庭園で独りになったスザンナが歌うアリア「さあ早く来て、悦びの一瞬よ」は、彼女に象徴される『フィガロの結婚』における女性たちの叛乱が、けっして支配する主体性を獲得しようとするものではないことを示している。スザンナのセレナードは、男たちのそれのように「もの」にしたい相手に宛てられたものではない。むしろそれは、自身の性を歌のうちに解き放ちながら、愛を響かせるものであろう。このようなアリアを田坂蘭子は、夜の空気に染み透るような柔らかさと願いの強さを兼ね備えた声で、この上なく美しく歌った。
今回の舞台で田坂は、スザンナの機知に富んだ面と激しやすい面の双方を演じながら、行動の端々に表われる彼女の身体を、見事に歌に響かせていた。五島真澄が演じた伯爵との二重唱における歌は魅惑的ですらあったし、原田幸子が演じた伯爵夫人との「手紙の二重唱」で響かせた澄んだ声も忘れがたい。田坂蘭子の歌唱と並んで感銘深かったのが、マルチェッリーナの役を歌った大城薫の声である。それは、スザンナと手を結んだ夫人の行動や、村の女性たちの態度の背景にあるものを噛みしめながら、聴き手の心に沁み入る声で語りかける。

舞台に据えられた建物の内部空間が象徴する、男性が支配的な社会における女性の苦境を見通すとともに、真の平和にもとづく自由を求める第4幕でのマルチェッリーナのアリアは、そのような社会の問題が積み重なっている現在に生きる自分を静かにふり返らせる説得力に満ちたものだった。大城も田坂も、広島県内を拠点に活動を継続している歌手である。この二人のほかにとくに印象に残ったのは、ケルビーノの役を歌った平岩蘭である。泉のように湧き出る彼女の声は、『フィガロの結婚』におけるこの人物の清新な像を伝えていた。
将校に任じられるとはいえ、ケルビーノは未だ「男」ではない。それゆえ、いくつもの欲望をさまざまな相手に対してふり向けられる。だからこそ彼は、伯爵にとっても、フィガロにとってもいまいましい。そのようなケルビーノを美への憧れが貫いていることも、平岩の若々しくも艶やかな声はいかんなく伝えていた。今回の『フィガロの結婚』の公演では、彼女をはじめとする若手の歌手が、伯爵、フィガロといった重要な役どころを担って意欲的に演じていたのも印象に残る。とくに伯爵の役を歌った五島の歌唱と演技は際立っていた。

このように歌手たちの歌唱が、自発的な演技と相まって新鮮な人物像を提示していた一方、それを支える管弦楽の演奏は、こと8月26日の公演に関しては物足りなかったと言わざるをえない。柴田真郁の指揮は、特定の箇所を歌わせることへのこだわりを示していたが、それは全体を貫く音楽の脈動があってこそ生きてくるはずだ。指揮者の意図がオーケストラに浸透していないからか、音楽の運びがもどかしく感じられる場面が散見された。とはいえ各奏者と各歌手の力演は、時を追うにつれて充実した響きを織りなしていた。
とくに作品の核心とも言うべき第4幕の赦しと和解の場面の響きの広がりは印象に残る。全体として2023年の『フィガロの結婚』の公演は、現代の社会において上演されるべき清新な作品像を示していた。主催者側にはその意義を広く伝える努力を求めたい。今回は「アンサンブルシアター」シリーズの第二回公演とのことだが、そのシリーズをどのような趣旨で継続しているかを、30年を超えたひろしまオペラルネッサンスの成果を踏まえて伝える文章は、上演作品の基本情報を伝える解説とともにプログラムに欠かせないはずである。

(2023/9/15)

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[Staff]
Artistic/Stage Director: Tatsuji Iwata
Conductor: Maiku Shibata
Orchestra: Hiroshima Symphony Orchestra
Chorus: Hiroshima Opera Renaissance Chorus
Assistant Conductor / Maestro Sostituto: Mitsuru Hirano
Chorus Master: Nozomi Terasawa
Set Design: Hiroko Matsuo
Costume Design: Fumiko Maeda
Lighting Design: Masao Oshima
Stage Master: Takayuki Iida
[Cast]
Il Conte di Almaviva: Masumi Goto
La Contessa di Almaviva: Sachiko Harada
Susanna: Ranko Tasaka
Figaro: Kenichi Haga
Cherubino: Ran Hiraiwa
Marcellina: Kaoru Oshiro
Bartolo: Makoto Morimoto
Basilio: Tadahiro Masujima
Don Curzio: Takashi Nanba
Barbarina: Maho Fujita
Antonio: Keiji Kitani
Due Donne I: Rieko Kubo
Due Donne II: Hibiki Kawate