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プロムナード|真夏の花からの美学|柿木伸之

真夏の花からの美学
An Aesthetics from Midsummer Flowers

Text by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)

道すがら、花に目を留めることが多くなった。それはたいてい人が植えた草木の花だが、人間の手を離れて自生しているように見える草花もある。福岡の住まいの近くの線路沿いに咲き並び、朱や黄の妖しい光を放っているカンナがそうなのかもしれない。カンナと夾竹桃の花が咲いているのを見ると、真夏の到来を実感する。
これらが強い陽射しを受けながら咲き誇るのを、以前は鬱陶しく思っていた。それを見ると暑さが増し、水を含んだ空気がさらに重く感じられた。そうした感触がなくなったわけではないが、今はこれらの夏の花に惹かれる気持ちもある。すべてを枯らしそうな日照りのなか、他の生きものには毒にもなる力を吸い上げ、発散させるようにして咲き乱れる力強さに、微かな憧れを覚える。

鮮血のような赤を芯にして桃色に咲く夾竹桃を眺めていると、かつて見たその花の姿が汗とともに目に滲んでくる。幼い頃、毎日のように通った鹿児島の公園には、生け垣のように夾竹桃が植わっていた。夏に赤い花を咲かせる様子は、幼心には少し怖かった。長く住んだ広島の街を特徴づける川の岸にも夾竹桃が繁っていた。その紅白の花が咲くと、原爆忌が近いことを思う。
今年の8月6日は、ウクライナでの戦争が続くなかで、それとともに核による破滅の危機がかつてなく迫るなかで迎えることになった。この日が近づくと原民喜の「夏の花」三部作を読み返すことにしているが、今年はそこに至るまで、この詩人が朝鮮戦争における核兵器使用の危険が迫るなかで鉄道自殺を遂げたことに何度も立ち返らざるをえなかった。このことに深い思いを寄せた一人が、今年の3月3日に世を去った大江健三郎だったことも忘れられない。

そのような8月6日の午後、福山に降り立った。広島の出身で、ハノーファーとベルリンで研鑽を積んだ後、故郷を拠点に活動を展開している美術作家、福田惠との対話に臨むためである。この日は彼女の個展「一日は、朝陽と共に始まり、夕陽と共に終わる」の最終日にあたり、そのクロージングに際しては、原子爆弾の惨禍を体験した祖父の手記にもとづく映像作品も公開された。
福田の芸術は、ベルリンで師事したレベッカ・ホルン、あるいは同郷の殿敷侃──彼の芸術の一端は、拙著『燃エガラからの思考』(インパクト出版会)で論じた──の精神を受け継ぐかたちで、パフォーマンスを含んだインスタレーションを繰り広げるものと言えよう。それを貫くモティーフの一つに造花がある。「百円ショップ」でも簡単に手に入るプラスティック製の花を、福田は巧みに用いている。

個展の会場には、ベルリンの都市開発で生まれた空き地に、福田が赤いチューリップを挿した風景を写した写真が架かっていた。そこに今は店か集合住宅が建っているのだろうと思いながら風景を眺めていると、プラスティックの花が、街にぽっかりと空いた場所の記憶を吸い上げながら、何かを語りかけているように見えてきた。このとき、再び塞がれることになる空洞は、今も続く開発の歴史を宙吊りにしていた。
その歴史は、廃物を積み上げながら続いていく。核開発の歴史が産んだ廃棄物は、人間が処理しきれないまま積み重なって生存の環境を蝕んでいく。福田の芸術は、このことを生の有限性とともに見つめ直すきっかけをもたらす。かつて百貨店の一角だった展示空間には、福山の近代史の過程で棄てられてきたものが漂着していた。この漂着物を川の流れとそのほとりの新たな街をなすように配したインスタレーションは、新たな脈動を感じさせる。

福田の作品は、古い電灯に端切れなどを結わえ付けたオブジェによっても構成されているが、太陽光発電によってそれが点ると、インスタレーション全体が柔らかな響きを発していた。個展の最終日には、サッシャ・ヴァルツ・アンド・ゲスツの一員として細川俊夫のオペラ《松風》の日本初演(2018年2月)の舞台に立った畦地亜耶加のパフォーマンスも、作品のなかで繰り広げられた。彼女の身体の動きは、ある場所の生の記憶を、廃物のなかから鳴り響かせていた。
こうした芸術は、今も前に進みつつある開発の歴史を、廃物を残していくものとして捉え返す契機をもたらすと同時に、この歴史にただ巻き込まれていくのとは別の生がありうることを暗示している。その可能性は、棄てられ、忘れ去られたものの記憶にこそ潜む。このことを洞察した一人が、福田が空き地にチューリップを挿して回ったベルリンに生まれ育った思想家ヴァルター・ベンヤミンである。

ベンヤミンは芸術の可能性を、その技術との関係を見据えながら問うている。たしかに今日の技術とは、プラスティックの花を大量に生産するテクノロジーであり、それは人間をも使い捨てていく。しかし、技術は来たるべき芸術のなかで、造花のような人工物からも野生の力を引き出す技に転じうる。ベンヤミンの批評は、この地点を同時代の芸術の展開のうちに探っていた。批評を続けるとは、彼の問いを今に受け継ぐことでもある。
夾竹桃やカンナのような真夏の花々が妖しく表わしているのは、野生の命である。それが自身のなかで脈打っていることを感じながら、そのはかなさを顧みることは、すべてを資源として使い尽くしていく歴史が、生命そのものを危険にさらしている──このことを示すのが核開発の帰結であり、気候変動であることは言うまでもない──現在、やはり貴重だろう。美学の徒として、このような想像を媒介する芸術の可能性を、批評をつうじて探り続けたい。

(2023/8/15)