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小人閑居為不善日記|《君たちはどう生きるか》は宮崎駿の自伝ではない |noirse

《君たちはどう生きるか》は宮崎駿の自伝ではない
“The Boy and the Heron” is not Hayao Miyazaki’s Autobiography

Text by noirse:Guest

※《君たちはどう生きるか》、《風立ちぬ》の内容に触れています

 

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事前に一切の宣伝を行わず公開した宮崎駿最新作《君たちはどう生きるか》は、初週(4日間)の興行収入が《千と千尋の神隠し》を越えるという結果を収めた。またその謎めいた世界観や物語により、SNSやネットで多くの感想や考察を呼んだ。

さてその感想だが、主人公・眞人のモデルが宮崎駿自身という解釈で始まるものが大半だ。たしかに自身の境遇や体験を元にしたと思しき点は散見されるのだが、解釈の出発点が同じだと着地点も似通ってしまう。

《君たちはどう生きるか》はファンタジーで、それも諸要素を一元化せず、観客それぞれの解釈を促すように企図されている。宮崎の思いが主人公に投影されていないとは言わないが、そこのみにこだわってしまうと、かえって作品の幅を狭めてしまう。

わたしは初見時から、主人公のモデルは宮崎のみでなく、もうひとり存在すると思っていた。そこで本稿では「もうひとりの眞人」の存在を起点に、この作品を見直してみたい。そもそもモデル探しという行為自体ファンタジーにはそぐわない無粋な趣向ではあるが、そこはご容赦頂きたい。

 

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などともったいぶってみてもしかたないので話を進めると、眞人のもうひとりのモデルは、宮崎駿の実兄だと考えている。

宮崎は四兄弟のうち二番目の生まれで、長男は1939年生、宮崎駿より2歳上。作品の舞台は1944年。眞人は十代前半と思われるゆえ、それよりは年下だが、駿よりは近い。宮崎も戦前の記憶が残っているようだが、終戦時4歳と6歳では大きく違う。1944年だと宮崎駿はまだ3歳で、なのに主人公というのも、少々強引ではある。

小さい頃の宮崎駿は内向的だった。一方長兄は勉強ができてスポーツ万能、ケンカが強くリーダーシップがあり、小学校から高校まで番長で、大学ではラグビー部で活躍した。『天空の城ラピュタ』の主人公の親方のモデルは実兄だったと言われている。眞人は(少なくとも作品後半では)コミュニケーションスキルも行動力もあり運動神経も抜群だったが、その点でも駿よりも実兄のほうが近い。

ではその上で、クライマックスについて検討していきたい。あらすじも省略するが、現実世界を支えるという「下の世界」に眞人が迷い込んだことのみ踏まえていれば問題ない。

眞人は下の世界を統べる大叔父から、世界を支える役目を引き継いでほしいと頼まれる。だがその使命に応える資格がないと考え、元の世界へ戻ると告げる。下の世界は崩壊し、眞人は元の世界へ帰還。下の世界の記憶もそのうち失われていくだろうと告げられ、映画は幕を閉じる。

この物語、多くの人が下の世界をアニメーションの世界、またはジブリスタジオを指すと受け取ったようだ。ジブリの後継者問題はよく取り沙汰されるもので、結局高畑勲や宮崎の後に続く監督が見つからず、制作部門を解散することになった。

つまり、東映アニメーションに入社し、高畑の右腕として彼を支え、ジブリを立ち上げ数々のヒット作を放ってきた宮崎が、そのキャリアの終わりをファンタジー世界に見立てたという解釈だ。妥当な読みだと思うが、眞人を宮崎駿自身と考えると、継承を拒否するのは意味が通らない。眞人も大叔父も宮崎自身という読解もあり、それはそれでいいとは思うが、どうもすっきりしない。

では眞人を実兄と考えてみればどうか。実兄はいわゆる(好きな言いかたではないが)一般人だ。下の世界をアニメの世界と考えるなら、眞人を実兄と見たほうが座りがいい。

もうひとつ捕捉もある。後継者には大叔父の血縁者という条件もあるのだが、それには最後少しだけ登場する眞人の弟にも当てはまる。眞人が宮崎駿の実兄なら、この弟こそ宮崎駿だろう。実際に宮崎駿は宮崎家の次男なのだから、そう考えたほうが自然ではないか。

つまりこういうことだ。大叔父の世界の継承を眞人=実兄は断り、その世界は崩壊したに見えた。しかししばらく経って眞人の弟が、何らかのかたちで大叔父の意志を引き継いでいく。こう考えることも可能なのではないか。

 

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「眞人=実兄」という見かたもひとつの解釈で、これが正しいと考えているわけではない。このような解釈を施すことで、マルチエンディングものとして本作を捉え、そのポテンシャルを広げられると思うのだ。

ただし引っかかる点がある。宮崎は過去のエッセイや対談、インタビューなどで、繰り返し以下のように語っている。

《となりのトトロ》という映画を見た人から手紙をもらって、「うちの四歳の子どもがとても喜んで、三十回も四十回もビデオをかけて、そのあいだはおとなしく見てる」とか書いてあっても、じつはちっともうれしくないんです。

『折り返し点』という本に収録された村上龍との対談からなのだが、宮崎はこの種のことを幾度も口にしていて、同じ映画を見る時間があれば外に出て友達と遊びながら経験を積み重ねるべきという風に続く。

元の世界に戻ると宣言する眞人は、宮崎の理想の子供像だろう。宮崎は眞人の決意を肯定的に捉え、送り出していく。「きみたちはこう生きるべきだ」と言うわけだ。しかしそうすると、大叔父は眞人のような、まっとうな生きかたではなかったということになる。もうひとつ《折り返し点》から引用しよう。

子どもが成長してどうなるかといえば、ただのつまらない大人になるだけです。大人になってもたいていは、栄光もなければ、ハッピーエンドもない、悲劇すらあいまいな人生があるだけです。

宮崎は大人を「生きそこなった子供」と見做している。それが如実に現れているのが《風立ちぬ》(2013)だ。主人公・二郎は航空機に魅せられ、ゼロ戦開発のため病弱な新妻・菜穂子と離れて暮らす。ゼロ戦は完成するが、菜穂子は病死し、日本は敗戦を迎え、すべては灰燼に帰す。ところが最後、菜穂子の幻影が現れ、二郎に「生きて」と伝える。

公開当時、このラストは一部で批判された。二郎が戦争協力者の責任を果たしていないと言うわけだ。また、死が迫っている妻を置いて仕事に打ち込む二郎に対して、感心できない観客もいるだろう。

宮崎は二郎をつまらない大人だとは思ってはいないだろう。自分の仕事に打ち込み、非凡な才能を発揮し、すべてを失った男。『続・風の帰る場所』ではこのように述べている。

その男はその時の日本の、もっとも才能のあった男なんです。でも、ものすごく挫折した人間なんです。物造りを全うできなかったから、敗戦の中でね、ずたずたになっていったんですよ。でも僕は彼が『美しいものを作りたかった』ということをポツっと洩らしたということを聞いてね(中略)
その人は精いっぱいやったのに挫折してるんです。だから非常に無愛想な、嫌なじじいとして生涯を終えるんです(笑)。けんもほろろのクソじじいになって終わってるんですよ。

二郎の姿は大叔父に重なる。大叔父は本の虫で、館の中に引きこもり、やがて「下の世界」へと去っていったという人物だ。飛空艇の美しさに惹かれて妻を二の次とした二郎と、現実に背を向けて「下の世界」へ去っていった大叔父はよく似ている。

宮崎は明らかに二郎や大叔父に共感している。アニメーションに人生のすべてを捧げ、走り続けてきた。けれども師匠にして盟友だった高畑勲を失い、共に築き上げてきたスタジオジブリの制作部門も閉鎖。ファンは世界中にいるし、方々で高く評価されたものの、それもいずれ忘却の彼方へ消えていくだろう。風が吹くように、すべてが過ぎ去っていく。宮崎はそうした感慨の中にいるのだろう。

 

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宮崎のこうした人生観は、《君たちはどう生きるか》のマルチエンディングにも関係する。元の世界に帰還した眞人は、勉強に励み、まっすぐな道を歩み、まっとうな大人へと成長するだろう。しかしそれは多くの可能性を捨てていくのと同義であり、結局は「つまらない大人」となってしまうだろう。

眞人の弟は兄のような人生を歩まず、大叔父に似て、自分が夢中になれる何かに没入する人生を歩むかもしれない。けれどその終着も「つまらない大人」だったり、「けんもほろろのクソじじい」なのではないか。

宮崎はもともとペシミスティックな性格で、「人類なんて滅んでしまってもいい」などと口にするような人間だ。もちろん半ば冗談だろうが、人間がすべてつまらない存在と思っていても不思議ではない。にもかかわらず希望のある作品を送り出さなければいけないというジレンマが、《君たちはどう生きるか》のような、人を困惑させる映画を生むのだろう。

けれどもこのように悲観的な、どの道を選んでもビターなエンディングにしかならないという結末を、わたしは不思議と嫌いになれない。人間はどう生きたってくだらない、つまらない存在だ。けれどそれを分かった上で懸命に生きるからいいのだと、そう宮崎は言いたいのではないか。

つまらない人間というのはわたしのような者を指すのであって、宮崎のような非凡な存在とは違う。しかし宮崎ほどの天才でも、自分は生き損ねた、つまらない人間だと考えている、《君たちはどう生きるか》はそう訴えかけてくる。この映画を思い出すと、重い荷物を降ろしたような、不思議な共感を覚えるのだ。

(2023/8/15)

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noirse
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