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注目の1枚|藍川由美『古代からの声《伊福部昭の歌曲作品》』|齋藤俊夫

藍川由美『古代からの声《伊福部昭の歌曲作品》』
カメラータ・トウキョウ 2023年5月31日発売 CMBK-30006

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

<演奏>
ヴォーカル:藍川由美
ピアノ:蓼沼明美
ヴィオラ:百武由紀(*)
オーボエ:神農広樹(**)
コントラバス:竹田勉(**)
<曲目>
(全て伊福部昭作品)
『平安朝の秋に寄する三つの詩』
『ギリヤーク族の古き吟誦歌』
  アイ アイ ゴムテイラ
  苔桃の果(み)拾ふ女の唄
  彼方(あなた)の河び
  熊祭に行く人を送る歌
『サハリン島先住民の三つの揺籃歌』
  『ブールー ブールー』
  『ブップン ルー』
  『ウムプリ ヤーヤー』
『摩周湖』(更科源蔵 詩)(*)
『蒼鷺』(更科源蔵 詩)(**)

伊福部音楽界隈にこの人あり、とも言うべきソプラノ歌手・藍川由美、だがここまでの高みに至るというか、前人未到、誰も想像しなかった伊福部歌曲を実現してくれるとは思わなかった。
今回の『古代からの声《伊福部昭の歌曲作品》』で藍川はなんとソプラノの通常の音域から全編1オクターヴ下げたテノールの音域で歌ったのである。それにより全曲に渡って古寂びた、かつ力強い声が響き渡る。音域を下げても歌声がこちらに訴えてくる強い力は今までの藍川のソプラノによる歌唱と同じく1)、されどしばしば藍川が陥っていた絶叫的な高音フォルテシモ――正直、筆者はこれが苦手であった――はどこにも現れない。

CDの第1曲、作曲者青年時代に楽譜の所在がわからなくなり初演されたかどうかも不明だった幻の伊福部作品『平安朝の秋に寄する三つの詩』、極めて遅いテンポで--楽譜が確認できないので作曲者の指示通りか、藍川の解釈によるか定かではない--しずしずと、訥々と、藍川が見出した古代日本的歌唱法・神楽歌の歌唱法での歌に内在するエネルギーは音の高低、強弱に関わらずこちらの心臓を掴んで放さない。

『ギリヤーク族の古き吟誦歌』は第1曲「アイ アイ ゴムテイラ」の滑稽、第2曲「苔桃の果(み)拾ふ女の唄」の悲しみを押し殺した憂愁、第3曲「彼方(あなた)の河び」の気高くも喜びと期待に満ちた詩情、第4曲「熊祭に行く人を送る歌」の猛々しき気迫の張り詰めた唄、どれも本来のソプラノとは異なる音楽であるが、伊福部音楽として見事に完成されている。これまでの藍川のソプラノのベル・カント唱法からは聴こえなかった伊福部昭だ。

『サハリン島先住民の三つの揺籃歌』、第1曲「ブールー ブールー」、女の子を寝かしつけるこの上なく優しい唄。なるほど、子供を寝かしつけるのにソプラノ声を張り上げることはない。第2曲「ブップン ルー」、男の子に強く育てと歌いかける、やや暗い曲調の唄。ソプラノ歌手とは思えないほどの低い音高が荘重に響く。第3曲「ウムプリ ヤーヤー」、女の子を寝かしつけるリズミカルでやや滑稽な、だが優しい唄。

『摩周湖』前半、鬱勃たる藍川の低声に身が引き締まる思いがする。そこから「まこと怒れる太古の神の血と涙は岩となつたか」と憤りを込めた楽想へ。此処こそ、これまでの藍川のベル・カント唱法での絶叫的高音で筆者が最も違和感を覚えていた箇所である。1オクターヴ音高を下げるという荒技でかくも心に響き渡る歌声となるとは。最後の「無量の風は天表を過ぎ行く」の低音の極みに悲しみと無常感を漂わせて了。

伊福部最後の作品『蒼鷺』、全編に怒りにも似た暗い思いが張り詰めている。この作品でも「それとも胸にどよめく蒼空への熱情か」という従来ならば高音で絶叫的に歌われてきた力強い部分が、声の訴求力はそのままにずっと自然に聴こえてくる。「凍つた青い影となり 動かぬ」と蒼鷺の自分の意志を悲しいまでに貫き通す姿――それは伊福部の姿に重なる――がぼそりとうたわれ、この歌曲とCDは終わる。

ソプラノを1オクターヴ下げて歌う、というのは邪道であろうか? あるいは確かに邪道なのかもしれない。だがこのCDを一聴してみよ。全く新しく、藍川由美でなければ不可能な、されど伊福部昭作品としての自己同一性は揺るぐことのない歌曲集ではないか。筆者は「畏るべき古さ」とでも言うべき力のこもったこのCDを新たな名盤として俄然推す。

 

1)ただし藍川がソプラノから音高を下げて歌ったのは『神楽歌と伊福部昭《いまヴェールをぬぐ伊福部昭の音楽》』カメラータ・トウキョウ、CMBK-30003、が録音では初めてである。さらに付け加えるとこのCDで音高を下げて歌われたのは伊福部作品ではなかった。

(2023/7/15)

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