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野村萬斎~狂言への誘い~|齋藤俊夫

野村萬斎~狂言への誘い~

2023年6月14日 すみだトリフォニーホール 大ホール
2023/6/14 SUMIDA Triphony Hall Main Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by K.Miura/写真提供:すみだトリフォニーホール

<演目、演者>
解説:野村萬斎
相撲甚句
  甚句:春日山親方、北大地、勇輝
  太鼓、呼び出し:利樹之丞

狂言『文相撲(ふみずもう)』
  大名:野村萬斎
  太郎冠者:高野和憲
  新参の者:野村太一郎
   後見:内藤連

狂言『茸(くさびら)』
  山伏:野村裕基
  何某:石田幸雄
  茸:金沢桂舟
  茸:飯田豪
  茸:中村修一
  茸:内藤連
  茸:三藤なつ葉
  茸:岡聡史
  茸:月崎晴夫
  茸:深田博治
   後見:福田成生

 

「面白い」が「新しい」とほとんど同じように重なる意味領域を持ったのは何時頃からであろうか。こんなことを歴史的に厳密に考えると一生ものの研究になりかねないので筆者は手を引くが、筆者の見る所では現代において――あるいは少なくとも筆者にとって――この2語は重なっていると感じられる。個人的には最近ヴァントの前期ロマン派交響曲がえらく面白くて斬新な解釈だと感じられたり、ケージのCDがひたすら前世紀的古臭さが聴こえて全く面白くなかったり、と、時間・時代とそれが面白いかどうかは錯綜した様をなす。

さて、今回の『野村萬斎~狂言への誘い~』は面白かったか新しかったか、と問われれば、すこぶる面白く大変斬新な舞台であったと全面的に褒めるしかない。

まず呼び出し:利樹之丞による櫓太鼓(だと思う)での呼び出しの太鼓(寄せ太鼓だったかどうかはわからない)が高らかに鳴らされる。
次に野村萬斎による狂言レクチャー。野村萬斎ってこんなに低く太い声だったのか。実に渋くて良い。
少々レクチャーが長かった感はあるが、次に春日山親方、北大地、勇輝(この2人は力士)による『相撲甚句 すみだと大相撲』(作:利樹之丞)。記号化された我々現代日本人の日本語からは忘却され失われていた肉体性と、それと相即の関係にある言語的詩情に驚き感嘆した。力士たちが甚句の発声の型にはまることにより逆に美的自由を得た、ということなのか、我々の通常の発声というものが自由なようでいて我々を縛り付ける桎梏に他ならないということなのか? 考えは色々尽きないが、得難く清新な体験であった。

狂言の前に利樹之丞による北の湖と千代の富士の呼び出し、そして櫓太鼓による「寄せ太鼓」「一番太鼓」「跳ね太鼓」の披露。高速変拍子の目まぐるしい運動に夢中になる。

さて、ここからが狂言(正確には本狂言)『文相撲』である。
大名(野村萬斎)が、太郎冠者(高野和憲)に、家来を召し抱えるので連れてこいと命令する。太郎冠者が連れてきた新参の者(しんざのもの、野村太一郎)は相撲が得意と聞いた大名は、一つ手合わせをと自ら取り組む。だが新参の者の「マガクシ」なる技で呆気なく負ける大名。2番目は秘伝の「相撲の書」を読んで見事新参の者に勝つ大名。だが3番目で新参の者の返し技で大名は負けてしまい、「勝ったぞ勝ったぞ勝ったぞ……」と喜びつつ去っていく新参の者。悔しい大名は無理矢理に太郎冠者と相撲を取って投げ飛ばし、「勝ったぞ勝ったぞ勝ったぞ……」と舞台から去っていく。
こう粗筋を書いてみるとそんなに特別な劇とは思われないかもしれない。しかし実演に接してみると、あにはからんや、抱腹絶倒。
まず登場人物たちの頭にお花が咲いているような能天気ぶり。大名(と言ってもレクチャーによると、戦国時代のような大権力者ではなく、領地を持った侍のこと)は家来を召し抱えようと太郎冠者に言うが、初めは「8000人」を雇って、場所がないなら山の中で暮らさせれば良く、飯がないなら水を飲ませておけば良いとのたまう。新参の者の必殺の「マガクシ」は高速猫騙しとでも言うべき、「はっけよい、のこった」と同時にパチパチパチパチと手を打ちながら突っ込んでいくと相手(大名)がひっくり返る技(?)。大名と新参の者の2番目では大名は秘伝の書を読みながら、太郎冠者と話し合いながら相撲を取り、相手を殴り倒す。3番目ではこの殴り技にまた新参の者が返し技を放って去っていくが……召し抱えの話はどこへ行ったのだろうか? そして2段オチの太郎冠者の受難で終わる。喜劇として結構無理矢理に笑わせているようだが、無理矢理感というよりはおおらかな感触を抱いた。
また発声についても特記すべきであろう。喉を潰して押し殺す発声法だが、実に強く、かつ可笑しい。特に妙なことは言っていなくとも発声に笑わせる何かの要素が含まれていて、聴くだけで笑ってしまう。
そして最後に所作。一瞬一瞬の姿が可笑しい。筆者は能を想起したが、そのように抽象化された全ての所作が完全な「絵」となっているのに、そこに「間抜け」な何かが潜んでいて、笑いを誘う。実に完成された劇だと感服した。さらに、少なくとも筆者は新しいものと出会えたと感じた。

最後は狂言「茸(くさびら)」。これは斬新すぎる! 他に類を見ないおそろしくナンセンスでシュールで、それだからこそよく考えると様々なアレゴリーが潜んでいる怪作であった。
話はおそろしく単純である。屋敷に茸が増えてどうしようもないと何某(石田幸雄)が山伏(野村裕基)に茸退治を依頼する。山伏は勿体ぶって、心得たと「ぼおろん ぼおろん ぼおろん」と祈祷を始めるが、祈祷をすればするほど茸が増えていってどうしようもない。結局は増えすぎた茸に何某も山伏も「ゆるしてくれ ゆるしてくれ」と家を引き渡して逃げ出すのであった。
ごく表層的に見て楽しむならば、なにより茸8人(子供含む)の高速しゃがみ歩きの可愛い怖さに尽きるだろう。笠を被ってしゃがんだ姿が茸になり、その茸が増殖していく、もしかするとさらに歩行するのを表現するためにしゃがんだ姿勢のまま舞台上をシャカシャカと高速で歩くのだ。
劇を深読みするならば、山伏というヒエラルキー上位存在の口だけの無能ぶりを暴露した、とも見えるし、人間という存在に対する自然の力たる茸の優越を戒めた、とも読める。さらには先の表層的見方から発展させると、茸という人間ならざる謎の存在に人間が駆逐されるというストーリーに、怪獣映画で街が破壊されるのを見る快感と同類のものを認めることもできよう。
ユーモラスでチャーミングな異形の劇、これは決して古びることがない演目であろう。

古式に習う、でも、新しき視点を加える、のどちらでも、「新しいもの」は「今、ここにしかいない自分」をスタートかつゴールとしなければ創り上げられないのであろう。野村萬斎たちが自分たちをスタートかつゴールとしての舞台、実に斬新な古きものであった。

(2023/7/15)