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小人閑居為不善日記|英雄たちの撤退戦――インディ・ジョーンズ、フラッシュ、スパイダーマン|noirse

英雄たちの撤退戦――インディ・ジョーンズ、フラッシュ、スパイダーマン
The Battle of the Heroes’ Retreat

Text by noirse

※《インディ・ジョーンズと運命のダイヤル》、《ザ・フラッシュ》、《スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース》、《天気の子》の内容に触れています

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《インディ・ジョーンズと運命のダイヤル》を見た。1980年代に一世を風靡した黄金コンビ、スピルバーグとジョージ・ルーカスが生んだ、人気シリーズ最新作にして最後の作品だ。

ストーリー自体はシンプルなもの。ナチスの残党、フォラー博士が狙う秘宝「アンティキティラのダイヤル」を巡る冒険だ。ただし今回のインディはすっかり年を取っていて、彼の人生がもたらす重さに本作の特徴がある。

1969年。インディの息子は(おそらくベトナムで)戦死、そのせいで傷心の妻とうまくいかなくなり離婚協議中。たったひとりのアパート住まい、彼を慕う教え子もおらず、時代の変化についていけないインディ。

ダイヤルには時空を行き来する力があって、フォラー博士はそれを使って過去に戻り、ナチスドイツを勝利に導こうと画策している。だが目論見は失敗、ダイヤルを発明したアルキメデスの生きた古代ギリシャに辿り着いてしまう。人生のすべてを捧げてきた時代を目の前にしたインディは感動に打ち震える。

フォラーたちとの戦いも決着し、あとは現代に帰るのみとなるが、インディは帰還を拒否。残りの人生をこの時代で過ごしたいと訴える。彼は大怪我を負っており、治療を受けなければ命に関わるかもしれない。インディはここで死ぬ気なのだ。

このシリーズ、もともとはルーカスのアイデアだったが、留守がちだった父親と不和となってしまうインディの設定はスピルバーグの人生と重なる。よく知られている通りスピルバーグの両親は離婚しており、それが彼を映画の道へ促した一因と見做されている。

インディ・ジョーンズの発想元は、シリアルと呼ばれる連続活劇。つまりこのシリーズ、父親の不在に悩んだスピルバーグがその空白を埋めるため連続活劇の世界に飛び込んだと見立てることもできる。《E.T.》(1982)も母子家庭の子供たちと宇宙人のふれあいを描いていて、構造としては同じ。《未知との遭遇》(1977)の主人公は、家族を置いて、宇宙への旅立ちを選んだ男。かようにかつてのスピルバーグの作品は虚構を賛美し、夢を追うことを全肯定していた。

しかし近年、スピルバーグ作品に変化が訪れている。《レディ・プレイヤー1》(2018)の舞台はVRなのだが、最終的に現実と虚構、バランスよく付き合うのがよいと結論付ける。今まで散々虚構を肯定してきたにもかかわらず、いざ歳を取ったらネットやヴァーチャルリアリティに耽溺せず現実に還れと一方的に諭す、これはあまり感心しなかった。

ただ自伝的作品《フェイブルマンズ》(2022)は、そこを慎重かつ内省的に描いていた。スピルバーグ自身を投影した主人公の撮った作品が母親を傷つけてしまうのだが、一方で父親との和解も実現する。虚構への没入が周囲に及ぼしてしまう影響を見つめ直し、その上で家族を傷つけてきた父親と自分を重ね合わせていく。そもそもスピルバーグ自身の企画ではなかった《レディ・プレイヤー1》と異なり実感がこもっていて、これを見ると大味だった《レディ・プレイヤー1》で言いたかったことも分かってくる気がする。

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さて《運命のダイヤル》だが、もともとはもちろんスピルバーグが監督を務める予定だった。しかし企画が難航し降板、彼の指名により《フォードvsフェラーリ》(2019)などで知られるベテラン監督ジェームズ・マンゴールドがバトンを受け取っている。その期待を受けたマンゴールドと脚本チームは、かえってスピルバーグらしい作品を送り出した。

過去をやり直したいというフォラー博士の欲望は、古代ギリシャの地で一生を終えたいと願うインディの鏡像でもある。今までの人生は偽りで、本来の自分の場所が何処かにあるのではないか。「何を信じるかは重要ではない、どれだけ強く信じるかだ」というインディの言葉は、インディの――ひいては虚構にのめり込んできたスピルバーグの――危うさを、的確に言語化している。

そもそもインディ・ジョーンズシリーズは、聖杯やクリスタルスカルなど、毎回オーパーツを取り扱ってきた。オーパーツでナチス復活を目論むという《運命のダイヤル》は、トランプ以降の陰謀論の時代にマッチしている。《E.T.》や《未知との遭遇》も宇宙人やUFOをモチーフにしているわけで、言ってしまえばオカルトだ。

スピルバーグが娯楽映画の監督として輝いていた80年代なら、オーパーツやUFOにロマンや夢を託せたかもしれない。しかしそれから幾年月が経過し、経済の見通しは厳しく政情も不安定、SNSで陰謀論が跋扈する時代となると、様相は変わってくる。わたしも《E.T.》や《未知との遭遇》に魅せられてきた世代だが、もうそういう時代は終わったのだ。

インディは無理矢理現代に連れ戻され、妻との関係も回復、現実を受け入れていく。けれどきっと彼の心は、古代ギリシャに留まっているはずだ。わたしも《E.T.》や《未知との遭遇》が輝いていた時代に戻りたいと思うことはあるし、インディの気持ちは分かる。

現状肯定という意味では《レディ・プレイヤー1》と《運命のダイヤル》は同じなのだが、説得力は圧倒的に後者にあって、マンゴールドはスピルバーグ以上に彼を理解していると思ってしまう。長期間に渡って続いてきたシリーズならではの苦いラストで、若い観客にはピンとこないかもしれないが、ファンならしみじみと賛辞を贈るだろう。若い観客にはヒーロー映画やA24の作品など、今の世代に向けたコンテンツがあるのだから、たまには《運命のダイヤル》のような作品があってもいい。ところがそんなヒーロー映画にも、後味の苦い作品が混じっていたのである。

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《ザ・フラッシュ》と《スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース》、注目のヒーロ ー映画が同日に公開された。前者はスーパーマンやバットマンを擁するDCコミックス、後者はマーベルコミックスのヒーローだが、こちらはソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントが中心に製作したアニメ作品で、《スパイダーマン:スパイダーバース》(2018)に続くシリーズ2作目。同じ日に続けて見たのだが、驚いたのはこの2本、内容がほとんど同じなのだ。

《アクロス・ザ・スパイダーバース》ではそれぞれの宇宙に個々のスパイダーマンが存在しており、宇宙の均衡と平和を守るために結集、スパイダーソサエティと名乗って次元をまたぎ活動している。主人公マイルズは敵を追って彼らと接触するが、宇宙のバランスを保つため犠牲者を容認するというルールを受け入れられず、ソサエティと敵対してしまう。

《フラッシュ》の主人公バリーの母親は、彼が幼い頃に何者かに殺害され、父親は無実にもかかわらず容疑をかけられ投獄されてしまう。成人したバリーは超高速移動という能力を獲得、ふとしたきっかけでその力で過去に戻ることが可能だと気付く。バリーは時間を遡行し、母親を救うことに成功するが、それにより未来が改変、強力な敵の襲来を呼び込んでしまい、時を巻き戻して何度も挑戦するも、仲間が倒れていくのを阻止することができない。

このように両作ともマルチバースで、しかも何度繰り返しても悲劇を止めることができないという設定まで同じなのだ。もちろんマルチバースは今流行のジャンルだし、何度繰り返しても云々というのもテンプレ化した展開で、偶然というほどではないかもしれない。

ただこの二作で大きく異なるのは、絶望に向き合う主人公の姿勢だ。マイルズはそれを受け入れられず反発するが、バリーは違う。何度戦っても勝てず、災厄を喰い止められないと悟ったバリーは、母親の死を救うことを諦め現代へ戻るという道を選択する。母親の死によって災厄を止められるなら、そうすべきだと決断するのである。

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過去を変えることはできない。現実を前にして人はただ無力だ。だからこそ観客は、ヒーロー映画で留飲を下げ、マルチバースで現実が書き換わるのを見に行く。それなのにスーパーヒーローと言えども現実は変えられず、残酷な過去も受け入れるというのでは、人によっては評価できないだろう。

しかしこういうのもいいと思った。スーパーヒーローでさえ変えられない現実なら、普通の人間でどうにもならないのは当然のことだ。いや、超人なだけにバリーの絶望の方が深いかもしれない。バリーの真の戦いとは超人とのバトルではなく、現実を受け入れていくことなのだ。見る者によってはこちらのほうが、ヒーローが活躍する映画よりも共感できるのではないか。

たとえば新海誠の《天気の子》(2019)は、ひとりの少女のために災厄を許容するという、《フラッシュ》とは真逆の内容で、主人公のネオリベ的な決断は大きな議論を呼んだ。だが共感する声も多く、それゆえに「今」らしかった。

《フラッシュ》はその裏返しだろう。人種や環境など、変えようのない現実を受け入れろというと現状肯定的で、それはそれであまりよくない。それでもわたしたちにできるのは、現実を直視し、変えられるところから少しずつ、時間をかけて変えていくことだけだ。《フラッシュ》は興行面では苦戦しているものの、評価はけっして悪くはないのだが、それは現実の重さを誤魔化さず描いたことへの共感もあるのではないか。

フランスの暴動のニュースを見ていると、すべて破壊してしまいたいという衝動も理解できるが、結局は反感を買って極右に利用されかねず、もっと調整的な道がなかったのだろうかと思ってしまう。しかしこの極端さも、けっして対岸の火事ではない。最近日本でも、入管法に関して提出された現実的な修正案が野党側で拒否に遭い、結局は実質無修正で可決したという記事が話題になった。調整や妥協を許さない潔癖さは、かえって現実を強固にしてしまいかねない。許容や諦念こそが前進に繋がることもあるのだ。

とはいえ《スパイダーバース》のような、若い観客に向けた作品ならば、やはり夢や希望を諦めるなという作品を送るべきなのだろう。《フラッシュ》はいい作品だが、もしこれが若い観客にも共感されるのであれば、そんな社会はあまりに厳しすぎる。バリーやインディのように現実を受け入れていくのは、スピルバーグのように人生を見つめ直す年齢になってからでも遅くないはずだ。

(2023/7/15)

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noirse
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