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ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集 第187回|藤原聡

ミューザ川崎シンフォニーホール&東京交響楽団 名曲全集 第187回
MUZA Kawasaki Symphony Hall&Tokyo symphony Orchestra  The Masterpiece Classics Series No.187

2023年5月21日 ミューザ川崎シンフォニーホール
2023/5/21 MUZA Kawasaki Symphony Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 池上直哉/写真提供:ミューザ川崎シンフォニーホール

(演奏)        →foreign language
指揮:ジョナサン・ノット
管弦楽:東京交響楽団
コンサートマスター:グレブ・ニキティン

(曲目)
リゲティ:ムジカ・リチェルカータ 第2番
  ピアノ・ソロ:小埜寺美樹
マーラー:交響曲第6番 イ短調 『悲劇的』

 

これまた凝ったプログラミングという他ない。それにしてもマーラーの交響曲第6番の前にリゲティのムジカ・リチェルカータ第2番を置くとは。当日のプログラムにはノットの意図するところの記載などはないが(それが敢えてのものなのかは分からない)、いざ開演のチャイムが鳴り楽員が聴衆の拍手と共にステージに現れ、最後にジョナサン・ノットその人が指揮台に立つと照明は右端に位置するピアノを除いてほぼ暗転、そこで小埜寺美樹がやおらあの奇妙な音楽を奏で始める。

まずステージに所狭しと並ぶオーケストラの楽員の誰一人楽器を演奏せず、自分たちが関わらないピアノ曲を聴いているという構図が特異であり(マーラーの交響曲第5番で最初はたった1人のトランペットの葬送行進曲から開始される奇妙な状況のエコー?)、それ自体が実にパフォーマティヴである。リゲティの音楽はミ♯、ファ♯、ソのたった3音で構成される不可思議さで聴き手は虚を突かれるが、八分音符による規則的な音楽の進行は次のマーラーの冒頭とリズム律動的に無理なく繋がり、かつ静謐でシュールなリゲティと威圧的なマーラーというコントラストも活きている。リゲティとマーラーの並列に聴き手が何を見出すか。別に正解があるわけではないだろうけど、ノットの謎かけにまんまと嵌る羽目になる。

さて、メインのマーラーもまた意表を突く。第1楽章冒頭から響きは軽めで重々しさはほとんどなく響きの重心は高く、テンポもかなり遅い。元々図太い音で勝負する東響ではないだけに、明らかに意図されたノットの音響設計と相まってその音楽は明晰さが前面に出る。作曲家の私生活的な物語にこだわることなく、この一見古典的なフォルムを持つ楽章の設計図をお見せしましょう、という感じ。面白くはあるが、マーラーにはもう少し「のめり込んだ」ものを期待するこちらの聴き方が悪いのか? 尚、展開部に登場するカウベル、あまり音が聴こえて来ず、かつその音源の位置が不思議だと思っていたらどうやら客席後方に配置していたようだ。これもまたパフォーマティヴな効果を生んでいたように思う(だって、カウベルの音自体を普通に聴かせたいならそんなところから演奏させないでしょう)。

ノットならばスケルツォとアンダンテを入れ替えるのでは? と想像していたらあに図らずや第2楽章はオーソドックスにスケルツォ、これは見事なものでノットらしい各楽器の音の出し入れ、バランスの変化の妙はこの楽章の面白さを十全に引き出す。ことにトリオの変拍子の扱いと細かいダイナミクスの調整が上手い。それでいて神経質な感じもない。ノットと東響のコンビネーションのひとつの究極か。繊細な音楽がことに良い。

過度な甘美さや濃厚な官能性を帯びることなく、清潔で透明な音響に基づく抒情性を表出したアンダンテも美しさの極みであり、これもまたノットの指向性が明確に表された演奏であっただろうが(ちなみにこの楽章のカウベルはステージ上から鳴らされたがやはりバランス的に全体に埋もれて浮き上がらない)、やはり問題含みなのは終楽章だろう。のっけから記せばハンマーストロークはなんと5回行われた(通例用いられる全集版では2回)。マーラーが最初の段階で構想していたアイデアを実際の演奏に取り入れたのだが、第4楽章が始まってからまもなく1発目のストロークがあったものだから大半の聴衆は驚愕したのでないか(もっとも初日のサントリーホール公演の情報はSNSで拡散されていたから「免疫」のあった方もそれなりにおられたとも思うが)。ハンマーストロークの問題に深入りすると話がややこしくなるし(そもそもそんな見識は筆者にはない)、この問題に興味のある方は金子建志氏の著作にでもあたって頂くとして、率直な意見としては5回も乱発されると楽曲構成上のドラマトゥルギーが曖昧になってしまうし安っぽくなるという印象しか残らない(なお、このハンマー5回についてもプログラムに記載はなく、ノットの真意は不明)。

ハンマー問題はひとまず措くとして演奏自体は第1楽章と同様に全体のバランスを重視したもので、クライマックスの箇所でのトランペットなども全く突出しない。響きが肥大化しないので構造や構成に聴き手の意識が向き、結果として後期ロマン派のなれの果て、肥大した自我のドラマが延々と開陳されるのを聴かされるのではなく、この後の新ウィーン楽派に繋がっていくような斬新な音響を感知させた、とすら言いうる(それはアルバン・ベルクに限った話ではない)。かように知的な好奇心という意味では聴き映え十分であったことは認めながらも、凡庸な物言いかも知れぬが精神的/感情的なカタルシスがない。もとよりノットはそんなことを求めてはいないのかも知れないが、そこに一抹の物足りなさがあったことは正直に告白しておく。また、この日の東響はホルンの強力さは特筆すべきながら他の金管群はいささか不調で、他にも指揮者とオケの呼吸に齟齬があった箇所も散見され、この辺りが改善されれば聴き手の好みなんぞは吹き飛ぶ説得性のある演奏が展開されていたかも知れない。
どうあれ、ノットの投げる球をどう打ち返すのか、これは大きな愉しみであることに疑う余地はなく、個々の演奏の出来不出来を超えたところでノット&東響の演奏の無二の価値は揺らぐまい。

(2023/6/15)

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〈Player〉
Conductor:Jonathan Nott
Orchestra:Tokyo Symphony Orchestra
Concertmaster:Gleb Nikitin

〈Program〉
György Ligeti:Musica Ricercata No.2
  Piano Solo:Miki Onodera
Gustav Mahler:Symphony No.6 in A minor,“Tragic”