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神奈川フィルハーモニー管弦楽団第385回定期演奏会|加納遥香

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第385回定期演奏会
ショスタコーヴィチ 交響曲第7番ハ長調Op.60「レニングラード」
Kanagawa Philharmonic Orchestra, 385th Subscription Concert
Shostakovich / Symphony No.7 in C major, Op.60 “Leningrad”

2023年4月15日 横浜みなとみらいホール
April 15, 2023, Minato Mirai Hall
Reviewed by 加納遥香(Haruka Kanoh)
Photos by 藤本史昭/写真提供:神奈川フィルハーモニー管弦楽団

〈演奏〉        →foreign language
神奈川フィルハーモニー管弦楽団
指揮 沼尻竜典(音楽監督)

〈曲目〉
ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調Op.60「レニングラード」

 

雨が降りしきる4月の土曜日、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴きに行くため、横浜みなとみらいホールに向かった。演奏曲目はショスタコーヴィチ交響曲第7番《レニングラード》の一曲のみ。指揮を務める同楽団音楽監督の沼尻竜典氏による10分ほどのプレトークのあと、開演した。
やや抑え気味な弦楽器の音色をもって第一楽章がはじまる。奏でられる音楽は、牧歌的で幸福感すら感じさせる。そのあとの展開を知っているからだろうか、嵐のまえの静寂さのようにも聴こえてくる。
作品の世界にすっかり引き込まれ、穏やかな気持ちに心が落ち着いたころ、「侵入のエピソード」が彼方から無邪気に聞こえてくる。音はゆるやかに、しかし確実に、意気揚々と、一方通行で歩みを進める。丁寧に音を手繰りよせてまとめあげるような誠実な指揮者の姿は、一転して、まるで増幅する音を統率する権力者のようにも映る。だんだんと巨大化する音の連なりが頂点を迎えたとき、私の目に自然と涙があふれてきた。おそらく恐怖ゆえである(これについては後述する)。ここでの音の爆発が戦争を表象しているとすれば、あとに残るのは死、悲しみ、苦しみである。再来した静寂のなかで、それらを鎮魂し、癒すための音楽が続けられる。
第二楽章は、ショスタコーヴィチによれば「愉快なできごとや人生の喜ばしいエピソードについての思い出」を綴った章であるというが(プログラムノートより)、私には明るさというよりも憂愁ただよう音楽に聴こえた。続く第三楽章は讃美歌のような演奏とともにはじまる。管楽器の音色がみなとみらいホールの舞台正面にそびえたつパイプオルガンの光景と共鳴し、祈りの空間を生みだしているようであった。
第四楽章はいつもそうなのだが、どうも冗長に感じられてしまう。軽い疲労感に苛まれはじめたころ、それまでの時間を一気にエネルギーに転化するかのようにファンファーレが訪れる。この楽章は「きたるべき勝利」を表す楽章といわれ、狭義にはドイツのナチズムに対する勝利を高らかに謳いあげていると捉えることも可能だが、今この時代に、日本でこの音楽を聴くにあたって、もっと根本的で同時代的なメッセージが伝わってくるように思われた。

***

 亀山郁夫氏はこの交響曲の意味について、「何度聴きなおしてもおそらく正答と呼びうるものはでてこないだろう」(亀山 2018: 186)と述べている。実際にすでにさまざまな解釈がなされており、それと重なるところも異なるところもあるだろうが、以下では、今回の演奏会の経験を踏まえた私の解釈を提示したい。
第一の視点として、第一楽章で私が感じた恐怖の正体とはなんであったかという点に着目する。聴いている最中にははっきりわからなかったが、ふりかえってみると、それは第二次世界大戦期の「レニングラード包囲戦」という固有の歴史的出来事、あるいはより一般的に戦争というものに対する恐怖というより、人間が自らのうちに秘めている、破壊的、絶望的な状況をつくりだしてしまう狂気といえるものであったように思う。
第一楽章の展開部で繰り返されるこの主題は、それがドイツ軍の「侵入のエピソード」なのだとすれば「たしかに『ソフト』すぎる」(亀山 2018: 192)とか、あまりにも「かわいい」「親しみのある」ものだとか(沼尻氏、プレトークにて)いわれる響きをもっている。それが表しているのは、戦争にせよ、その他の物理的・非物理的な暴力にせよ、それは静かに、陽気にはじまるということであろう。あらゆる狂気は、はじめは平凡な顔をして、社会に、あるいは私たちの心に、忍びこむ。それは徐々に膨張し、集団的な熱狂となり、爆発するのである。
いったん狂気の歯車が動きだしたら、止まることは容易ではない。コンサートでも、演奏者はいったん聴衆の前で演奏をはじめたら前進あるのみ、やめることは許されない。聴衆も椅子にじっと座り、よほどのことがない限り席を立つことなく最後まで聴きつづけるのが常識である。つまりコンサートという場で聴衆は、悲劇にたどりつくことを予想できていながらも、徐々に増幅する「侵入のエピソード」をじっと聴きつづけなければならないのだ。この交響曲は、好意に満ちた囁きが巨大な破壊装置へと変貌する様相をただ描写するだけではなく、音楽の時空間において聴衆を美しい音色で魅了し、大編成のオーケストラがつくる音の渦のなかに次第に巻き込んでいくことで、変貌の過程とその恐ろしさを聴衆に体験させるのである。

第二の解釈の視点として、第一楽章の再現部から第四楽章までの長い道のりに注目してみたい。第一楽章の展開部はラヴェルの《ボレロ》と類似性が認められてきたが、作品全体での位置づけを考慮すると大きな違いが見いだせる。一楽章形式の《ボレロ》では、熱狂が最高潮に達して演奏が終わるとき、聴衆は拍手でその熱狂に参加する。それは同時に音楽中心の世界から日常の世界へと立ち戻る瞬間でもあるため、音楽がつくりだした熱狂は現実世界に引き継がれ、その一部になると考えられる。一方《レニングラード》は、作品の内部で破壊的頂点からその終結、そしてレクイエムへとつないでいく。そうすることで、聴衆に、熱狂の挙句の果てを客観的に眺める視点を与える。
興味深いことに、ショスタコーヴィチは当初一楽章形式の交響曲を想定していたが、何らかの理由により四楽章形式にすることとなったという(亀山 2018: 180-181)。やや乱暴な解釈ではあるが、比較的穏やかに連なる第一楽章再現部から第四楽章の終盤までの音楽は、狂気の歯車が導いた悲劇による傷を癒し、そこから立ち上がるための旅路を体現している、と捉えられないだろうか。破壊は一瞬だが、回復には時間がかかる。負った傷の痛みに耐えながら、地道に、誠実に、したたかに、長い道のりを前進することでようやく、狂気がもたらす悲劇からの再生をとげた人間を祝福するファンファーレが鳴り響くのである。その祝福の音楽は、起こってしまった暴力を嘆くのではなく、過ちを繰りかえすことのない世界を今こそつくろうではないかという、未来志向的な力強いメッセージのように響きわたるのだ。

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 戦争、内戦といった場での暴力はもちろん、物理的・非物理的な暴力が、意識的あるいは無意識的に、日々いたるところで行使されている。そういう世界に私は生きているし、そういう世界を成す一員でもある。平和を希求することは大事だが、希求するだけでは世界は変わらない。この認識のもとで上述のように交響曲《レニングラード》を受けとめたとき、今回の演奏会は、私に次のことを教えてくれたように思う。
それは、暴力をうみだす狂気が、必ずしも牙をむいてやってくるとは限らず、心地よく肌をなでる春風のように、あるいは新緑の葉のすきまからのぞく木漏れ日のように、私のもとに訪れるかもしれないということである。そういうふうに装って、私の生きる社会に、あるいは私自身の内面に、何食わぬ顔をして、狂気—たとえば差別や偏見があげられるだろう―がひそんでいるかもしれないことである。それが暴力を導いてしまうかもしれないこと、だからそれに意識的になり、流れに身をまかせず、冷静さを保ち、内省的である勇気をもつこと、そうやって未来を考え、つくっていくことの大切さを、この演奏は、音の響きをもって体感させてくれたように感じられるのである。

(2023/5/15)

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〈Player〉
Kanagawa Philharmonic Orchestra
Conductor: Numajiri Ryusuke (Music Director)

〈 Program〉
Shostakovich: Symphony No.7 in C major, Op.60 “Leningrad”

参考文献
亀山郁夫. 2018.『ショスタコーヴィチ:引き裂かれた栄光』岩波書店.

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加納遥香(Haruka Kanoh)
一橋大学社会学研究科特別研究員。博士(社会学)。専門は地域研究、音楽文化研究、グローバル・スタディーズ等。主な地域はベトナム。修士課程、博士後期課程在籍時にはハノイに滞在し留学、調査研究を実施し、オペラをはじめとする「クラシック音楽」を中心に、芸術と政治経済の関係について領域横断的な研究に取り組んできた。