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カデンツァ|5月の歌声〜傷みの泉から祈りの声を〜|丘山万里子

5月の歌声〜傷みの泉から祈りの声を〜

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

今年の花粉は凄まじく、薬が全く効かず全身症状へと悪化し、4月のコンサートは全滅した。
5月初旬、1年前から監修を依頼されていた三善晃合唱作品展(Tokyo Cantat 2023《やまとうたの血脈Ⅻ》「地球へのバラード〜傷みの泉から祈りの声を〜」(2023/5/4@すみだトリフォニー)のリハーサルと本番だけはなんとか、と必死だったが、心身の毒素を洗い流し、元気の素みたいなのを注入してくれる歌声に、ああ、やっぱり音楽ってすごい、三善晃はすごい、と心底思う特別な2日間になった。

Tokyo Cantatというのは、合唱人集団「音楽樹」主催のゴールデンウィーク4日間にわたる大規模な合唱イベントである。三善氏(以下敬称略)は1997年初回開催の講演で『合唱界への新しい提言』として21世紀の合唱を考えるにあたっての4項目を述べている。
1) プロフェッショナルとアマチュアリズムの融合、融和について。プロを超える技術と実力をめざす指向と、アマチュアリズムの原点、出会い、一緒に歌うことを重視、楽しむ方向が分離傾向にある問題をどう解決してゆくか。
2) おかあさんコーラス、シルバーコーラス、学生、職場といったカテゴライズの問題。これらの仕分けにどんな意味があるのか。
3) 社会、政治、経済など外的状況による人々の生活の疲弊にあって、合唱活動もまたそうした問題を自分のものとすること。
4) 世界の合唱文化に比して、日本語という宿命的なハンディを持つ我々は、日本語の心を原点として、一人ひとりの音の言葉をそこから紡ぎ出すことを真剣に考えるべきこと。
「音楽樹」はこの提言を指針として活動する集団で、多様な合唱団、合唱人の集合体であり、三善は合唱界の今後をそこに見ていたのだと思う。

私は2008年10月、2夜にわたる『三善晃作品展』@東京オペラシティに企画から関わったが、それはそれぞれに病を抱えることになった夫妻をなんとか元気付けたいというごくごく私的な感情が動機で、コンサートのコの字も知らず、合唱分野に興味もなかった。『三善晃論〜生と死と創造と』は私の評論デビュー作であったが、氏と話したこともなく、せいぜい大学でのアナリーゼ・クラスの師であったくらい。したがって「私的な感情」など持つほどの関わりもない。ただ病を得られる寸前の2005年に、再度、三善論を書くのでなく、対談でもできれば、と思い立ち、お願いしてみたところ許諾くださり、その時初めて面と向かってお話を聞く幸運を得た。
あの時、どうして自分があれほど「三善作品を集めてコンサートをしよう」と激しく思ったか。私にしてみれば、夫妻に来ていただき、夫妻が聞きたい作品を、弾きたい(弾いてくれる)演奏家たちに弾いてもらう、そんな小さなコンサートをいくつか開けたら、と考えたのだが、そりゃ駄目だ、と周囲のすべての人々が激しく言うのに、本当に驚いた。今から思えば、余計なことをするんじゃない、というのが世の見識というものだったのだろう。ドアを開ける間もなく、「協力してもらうべき力ある人々」の扉はパタパタ閉じられた。それから私が経験したさまざまについては言わない。ただ、相談・報告に行った遠山一行氏が無謀な私を見かねての助言と共に最後まで見守ってくれたのは(一切手は出さなかった)、「丘山さん。私は批評家よ、と客席でひとり怖い顔しているだけじゃなく、あなたも一度は舞台裏を知った方が良いですよ」という学びだったのだと、成功裡に終わってずいぶん年月が経ってから気づいた。そう、あの時、全てを終えての受付で、氏はそっと私に「赤字があるなら言ってください」と質されたのだった。私にお金のことは全くわからなかったけれど。
私は確かに学んだが、もう2度と嫌だ、と固く思った。

だのに監修(が何をするかは知らないが)を引き受けたのは、これも私的な事情だ。昨年5月初旬に打診の電話があったとき、私は京都に長く単身赴任の夫の急逝で、ぐちゃぐちゃの中に居た。Tokyo Cantatの長、合唱指揮者栗山文昭氏(以下、栗山さん)は言った。「三善晃の死生観、ということでお願いできませんか」。
私の頭に浮かんだのは、2008年作品展企画時に、たった1人、扉を開け、迎え入れてくれたのが、栗山さんであったこと。「来秋のオペラシティを2日間、おさえています。それをお使いください」と。アマチュアに過ぎない合唱人へのクラシックのプロたちの目線は冷ややかだった。大作曲家三善晃の作品展に、合唱などおまけのようなものだ(私だってそれくらいの認識しかなかった)、素人同好会と組むなんて、とそんな顔すらあった。それでも眉一つ動かさず、テキパキ実務をこなす大勢の合唱人たちに、私は自分の不遜を恥じた。彼らの支えがなかったら、公演は成り立たなかったろう。さまざまな団体のさまざまな年代の数百の合唱団員が2日間客席にへばりつき、喜びを持って歌ってくれた。2日目合唱開演前、ロビーを幾重にも巻く長蛇の列を、私は忘れない。だが、彼らへの感謝の言葉を、公演に関わったクラシック界の誰からも、聞くことはなかった。あの時の唯一の恩人が、しかも「死生観で」と言う。たった今、人を喪ったばかりで訳わからない私に。
「お引き受けします」と即答、実は数日前が夫の告別式でした、と告げると、栗山さんは絶句した。
巡り合わせなんだろう、と私は思ったのである。

三善の晩年は合唱作品が多く並ぶ。最後のそれは『その日―August 6』(2007/谷川俊太郎詩)だ。没後10年を迎えての「三善晃の死生観」を考えるのは、それほど難しいことではない。
最初の打ち合わせで、私はありきたりな発想しか持たなかった。『レクイエム』はピアノ版もあるから可能かも、とか、要するに「生死」なんだから戦争をめぐる氏の音楽の軌跡を追えば良かろう。でも、中堅、若手2人を従えた合唱界の帝王栗山さん(と私は氏を呼んで呆れられた)に、若い世代が何を考えているか、まず知りたい、と言った。氏は三善より9歳年下だが、戦時の記憶を持つ。だが、「あの戦争」を知らぬ彼ら(私も含め)が、そこにどんな「生死」を実感できようか。私だって『レクイエム』初演を知らない。戦後高度成長からバブル崩壊の後くらいに生まれた世代、あるいはステージで歌う多様な合唱団員、聞きに来る聴衆に、三善の死生観を自分ごととして受け止めてもらうに何が必要か。
安直プランをすぐさま引っ込め、寡黙な帝王のもと、私たちは頭を絞った。
パンデミック、環境汚染、ウクライナ(だけでない各地での争い・流血・殺人)、核戦争、AI支配社会の到来に、先の見えない不安を募らせる次世代に、今、何を伝えるか。
三善&丘山対話本出版(2006)のち、私は氏から新作オペラ『カチカチ山』の台本初稿に近いものを手渡された。
自分たちの住む森林を破壊する街の人々へ抗議しようと、主人公のタヌキが自爆テロを決行する話で、背景には2001年NYテロの衝撃と人類の地球破壊への告発がある。圧倒的に力のあるものに立ち向かう唯一の手段として、自爆テロに走る若い命。その心情がタヌキに託されていた。
台本の返却とともに幾つかの気づきを氏に伝えたが、長い闘病にあって、作品は未完に終わった。
ただ、巨大な暴力暴虐の告発の中に、虐げられるものの声が響き続けていたことは、私の胸に刻まれている。第1幕には「樹木の声が聴こえる」(ケモノたちのソロ&合唱)、「俺たちゃまったくあてどなし」(ケモノたちのソロ&合唱)、「ころしはやめて」(老婆のソロ)といった曲が並んでいた。
氏が手渡そうとしていたメッセージ。
世界と人間のこれから。
今、何を考え、なすべきか。
軸は『地球へのバラード』(谷川俊太郎詩)、と一致のあとは早かった。
『クレーの絵本 第1集』で三善が谷川に寄せた文章「傷みの泉から祈りの声を」をテーマに『地球へのバラード』をバラして、その間をつなぐ選曲と配列を考える。
中堅若手の2人と頭を寄せ、あれこれ言い合いながら、私はわくわくした。
帝王は腕組みしつつ、たまに口を挟む程度。立派だ。

私が考えたことはただ一つ。
みんなが、その日、その時、その音を、命を燃やして歌ってくれること。
作品への一人ひとりの「想いの丈」こそが、聞き手を動かし、同時に自分を燃やす力であること。
日々接するプロの舞台にその稀少を感じる私の願いは(パンデミックはずいぶん彼らを変えたが)ただそれだけだった。
歌うすべての人たちに「私がうたう理由(わけ)」(『地球へのバラード』第1曲、当日の幕開けがそれ)を考え、コメントを一つずつ書いて欲しい、と頼んだ。すぐさまそれは実行され、総勢272名の「わけ」が集まり、公演当日の別冊として配布された。「好きだから」「楽しいから」「生きている証」「愛」「仲間と一緒」「理由なんかない」.....。
上はシルバー(?)、下は小学生までを含むみんなの歌声は、もうその時から、私に響いてきたのだった。

実演の日。
作品がなければ、演奏する人がいなければ、聴く人がいなければ、音楽は生まれない。
そうして、合唱という「人間の声」の集積集合は、なんと美しく、逞しく、熱く、切々と、烈しく、私たちを撃ち抜き、くるみ込み、どこまでも高みへと、連れていってくれることだろう。オーケストラの比じゃない、とまで、思ってしまう。
歌われることの少ない『田園に死す』(寺山修司詩)は、三善作品の中でも異彩を放つ。『王孫不帰』(三好達治詩)は「ちょう、はたり」といった能楽的表現が独特の音景を広げ、『オデコのこいつ』(蓬莱泰三詩)には、子らが並んだ。帰らぬ人、ビアフラの餓死と、2作とも「死」を突きつける作品で、「ぼくが ころしたんだ ぼくが きっと」の終句が客席を静かに抉る。無伴奏チェロ『C6 H』の静謐な歌が生んだ長く深い沈黙。ステージとバルコニー(子どもたち)を埋めた全員が吠え続けた『波』の凄まじさに、これじゃ2台ピアノが聴こえない、と私は思わず笑ってしまったが、そのとどめようのないエネルギーの噴出、雄叫びは、これからを生きる彼らの想い、力の塊そのものだった。それを優しく鎮めた『唱歌の四季』の切々たる抒情と郷愁。アンコール、『地球へのバラード』第3曲『鳥』に響いたのは、「不意に銃声がする」から始まるナレーションの厳しくも透明な音調。歌声はやがて「空はただいつまでもひろがっているだけだ」に、高く吸い込まれていった。

人は皆、死ぬ。
死ぬまで、生きる。
このように、一刻一刻に命を燃え立たせ、生きること。
大空の自由、人間の愚かしさ。
でも、人は生きるに値する。
三善の歌は、みんなの声は、私に、そう言った。
ちょうど1年前のこの日、黒枠の遺影を重く抱えた私は告別の大勢の人々に見送られ、ぼんやり車窓から会釈し続けたのだった。
本当は、わからない。
死ぬことも、生きることも。
何が何だか、わからない。
だけどきっと。

私は、日本語という宿命的なハンディを負う私たち、とは、もう考えない。
ただ、一人ひとりの音の言葉を、一人ひとりが紡ぎ出す、そのことに一人ひとりが夢中になれば、それでいいと思う。
そこにこそ、確かな何かが宿り、伝わってゆくのだと思う。
プロだろうがアマだろうが、おかあさんだろうが子どもだろうが、世界だろうが日本だろうが、とどのつまりは、一人ひとりが、自分ごととして真摯に向き合い、そこから紡ぎ出す言葉、声しか、本当の力など持たないのだ。
数日後、2階に住む孫たちに「どうだった?」と聞いたら、小学3年男子は「すごかった!」と叫んだ。
すごかった。
それでいいではないか。
それがいいではないか。

音楽はいつでもそのように、人とは、生きるとは、を教え続けてくれる。

(2023/5/15)