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バッハ・コレギウム・ジャパン マタイ受難曲|齋藤俊夫

バッハ・コレギウム・ジャパン 受難節コンサート2023 第154回定期演奏会 マタイ受難曲
Bach Collegium Japan Passion Concert 2023 154th Subscription Concert Matthäus Passion BWV 244

2023年4月7日 東京オペラシティコンサートホール
2023/4/7 Tokyo Opera City Concert Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by K.Miura

<出演>        →foreign language
指揮:鈴木雅明

ソプラノ・イン・リピエーノ:東京少年少女合唱隊
(第I群)
ソプラノ:ルビー・ヒューズ(ソプラノI)、澤江衣里(女中II)、望月万里亜(女中I)
アルト:久保法之(アルトI)、高橋ちはる、中村裕美
テノール:トマス・ホッブス(テノールI/エヴァンゲリスト)、石川洋人、中嶋克彦、沼田臣矢
バス:マーティン・ヘスラー(バスI/イエス)、小池優介(ペテロ)、山本悠尋(祭司長I)
フラウト・トラヴェルソ/リコーダー*:菅きよみ、前田りり子
オーボエ/オーボエ・ダモーレ/オーボエ・ダ・カッチャ:三宮正満、荒井豪
ヴァイオリンI:寺神戸亮(コンサートマスター)、廣海史帆、山内彩香
ヴァイオリンII:髙田あずみ、池田梨枝子、丸山韶
ヴィオラ:成田寛、秋葉美佳
チェロ:山本徹
ヴィオローネ:今野京
オルガン:大塚直哉
(第II群)
ソプラノ:松井亜希(ソプラノII)、清水梢、藤崎美苗(ピラトの妻)
アルト:青木洋也(アルトII/証人I)、鈴木環、布施奈緒子
テノール:谷口洋介(テノールII)、鏡貴之(証人II)、水越啓
バス:加耒徹(バスII)浦野智行(大祭司カヤパ/祭司長II)、加藤宏隆(ユダ/ピラト)
フラウト・トラヴェルソ/リコーダー:岩井春菜、野崎真弥
オーボエ/オーボエ・ダモーレ/オーボエ・ダ・カッチャ:小花恭佳、森綾香
ヴァイオリンI:若松夏美(コンサートマスター)、寺内詩織、堀内由紀
ヴァイオリンII:荒木優子、遠藤結子、高田はるみ
ヴィオラ:原田陽、深沢美奈
チェロ:上村文乃
ヴィオローネ:長谷川順子
オルガン:流尾真衣

ファゴット:河村有紀
ヴィオラ・ダ・ガンバ:福澤宏

 

「祈る」とはどんな行為だろうか?
例えば宝くじに当たるのを「祈る」のと、交通事故にあった息子の無事を「祈る」のは同じ行為だろうか?
信仰のない筆者のような人間が何かを「祈る」ことは、神への信仰ある人間が何かを「祈る」ことと同じ行為だろうか?
神が存在するから祈るのではなく、祈る対象を求めて人間が神を想像したのではないか?
神が人間を創造したのではなく、人間が神を想像したのではないか?
では、宗教オラトリオたる『マタイ受難曲』は一種の錯誤的仮象たる神への偽りの祈りに基づくものだろうか?

いや、人ならぬ存在では為すことのありえない、人間ならではの本当の「祈り」が本作品内には内在している。序:シオンの娘の対話のソプラノ・イン・リピエーノの合唱部分の歌詞を挙げよう。

おお神の小羊、汚れなき
十字架の上に屠られた、
すべての時に耐え抜かれた
裏切られたにもかかわらず。
すべての罪をあなたが担われた、
さもなくば我らが恐れ
おののかねばならなかったものを。
我らを憐れみたまえ、おおイエスよ!1)

人間の罪を担っての刑死を遂げるイエスへの「祈り」がここには現れている。弟子に裏切られ、全ての人間の罪を身代わりに担って死んでいったイエス、その惨たらしき亡骸に対して自らの穢れを憐れんでくれと祈る――筆者にはその「祈り」とは何ものか未だ判明しないが、ここに人間の真なる心、ただひたすらに真であろうとする心が現れていることは感じられる。弱いがゆえに罪を犯し、弱いがゆえに請いわびて神に祈る、そのような弱い人間の姿が筆者には見えてくる。

神ならぬ人間の力で創り上げられたものとは思えないほど美しい本作だが、筆者にはその神表象において下記に示す作中最後の歌に最も共感する。

さあ、ひざまずきましょう、涙を流しつつ、
そして呼びかけましょう、墓の中のあなたに。
憩いたまえ、安らかに、安らかに、憩いたまえ。
憩いたまえ、疲れ果てた御体よ、
憩いたまえ、安らかに、憩いたまえ、緩やかに。
あなたの墓と墓石は
不安に満ちた良心の心地よい憩いの枕、
そして魂の逃れ場となるのです。
憩いたまえ、安らかに、憩いたまえ、緩やかに。
この目はそこで、至福に満ち足りて、眠りにつくことでしょう。2)

全知全能の神はここには存在しない。いるのは「祈り」を捧げる女たちと、神を信じて死んだ男だけ。男はもちろん神の子イエス・キリストであり、この後の復活が約束されているはずだが、本作品では復活は描かれず、女たちのこの優しい歌で幕を迎える。復活の奇跡よりも死による安らぎを描く本作に、神を頂く権力者たちとは一線を画す、人間バッハの優しき真心を筆者は見る。同時に、e-mollで始まる序、d-mollで終わる終曲にバッハの人間的厳しさ、神をも殺す人間の愚かさへの怒りを感じる。短調であることはもちろんだが、序での低音声部の上行順次進行、終曲の低音声部の下行順次進行に、バッハの為した音楽の奇跡――だがそれはこちらの心臓をえぐり取るような――が筆者には聴き取れるのだ。

本作最後のバス(マーティン・ヘスラー)によるアリア、―わが心を墓として―が今回筆者としては最高の歌であった。

わが心よ、自らを潔めよ、
私は、わが心を墓として、自らイエスを葬るのだ。
今やイエスはわが内に
とこしなえに
安らかなる休息を得られるのだ。
世の思いよ、出てゆけ、イエスに入らしめよ。3)

なんと優しく温かい歌声であったことか。故礒山雅によると、この歌詞はルター正統派神学者ハインリヒ・ミュラーの教説に倣っているそうである4)。神をわが内に安らわせるというのは神を上に頂くカトリック的ヒエラルキーと真っ向から対立する思想であろう。最も安らかな歌声がその実極めてラディカルであるということ、そこにもバッハという人間の深さが見えてこよう。

神、信仰、奇跡、祈り、そういった宗教的な諸々に関するバッハのラディカリズムに対する筆者の認識の幼稚さ、それがバッハとキリスト教への懐疑と感動の同居という矛盾として現れているのではないだろうか。今回のマタイ受難曲の威容に圧倒されての、自分の思索の浅さに恥じ入るばかりである。

1)序:シオンの娘の対話、プログラム22頁。以下、訳詞はプログラム記載の鈴木雅明訳による。
2)―安らかに眠り給え―、プログラム53頁。
3)―わが心を墓として―、プログラム52頁。
4)礒山雅『マタイ受難曲』東京書籍、1994年、429-433頁。

(2023/5/15)

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<Players>
Conductor: Masaaki SUZUKI

Soprano in Ripieno: The Little Singers of Tokyo
(Chorus Primus)
Soprano: Ruby HUGHES(Soprano I), Eri SAWAE(Ancilla II), Maria MOCHIZUKI(Ancilla I)
Alto: Noriyuki KUBO(Alto II, Testis I), Chiharu TAKAHASHI, Yumi NAKAMURA
Tenore: Thomas HOBBS(Tenore I, EVANGELISTA), Hiroto ISHIKAWA, Katsuhiko NAKASHIMA, Shinya NUMATA
Basso: Martin HÄßLER(Basso I, JESUS),Yusuke KOIKE(Petrus), Yukihiro YAMAMOTO(Pontifex I)
Flauto traverso / Flauto dolce*: Kiyomi SUGA*, Liliko MAEDA*
Oboe / Oboe d’amore / Oboe da caccia*: Masamitsu SAN’NOMIYA*, Go ARAI*
Violino I: Ryo TERAKADO(Leader). Shiho HIROMI, Ayaka YAMAUCHI
Violino II:Azumi TAKADA, Rieko IKEDA, Sho MARUYAMA
Viola: Hiroshi NARITA, Mika AKIHA
Violoncello: Toru YAMAMOTO
Violone: Takashi KONNO
Organ: Naoya OTSUKA
(Chorus Secundus)
Soprano: Aki MATSUI(Soprano I), Kozue SHIMIZU, Minae FUJISAKI(Uxor Pilati)
Alto:Hiroya AOKI(Alto II / Testis I), Tamaki SUZUKI, Naoko FUSE
Tenore: Yosuke TANIGUCHI(Tenore II), Takayuki KAGAMI(Testis II),Satoshi MIZUKOSHI
Basso: Toru KAKU(Basso II), Chiyuki URANO(Pontifex, PontifexII), Hirotaka KATO(Judas / Pilatus)
Flauto traverso / Flauto dolce*: Haruna IWAI, Maya NOZAKI
Oboe / Oboe d’amore / Oboe da caccia*: Yasuka KOBANA, Ayaka MORI
Violino I: Natsumi WAKAMATSU(Leader), Shiori TERAUCHI, Yuki HORIUCHI
Violino II:Yuko ARAKI, Yukiko ENDO, Harumi TAKADA
Viola: Akira HARADA, Mina FUKAZAWA
Violoncello: Ayano KAMIMURA
Violone: Junko HASEGAWA
Organ: Mai NAGAREO

Bassono: Yuki KOFU
Viola da gamba: Hiroshi FUKAZAWA