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プロムナード|『書かれた顔』あるいはその物質と記憶|藤原聡

『書かれた顔』あるいはその物質と記憶
The written face

Text by 藤原聡 (Satoshi Fujiwara)

何月だったかまでは覚えていないけれども、ダニエル・シュミットが監督した1995年制作の映画『書かれた顔』を今や半ば伝説化しているミニシアターのシネ・ヴィヴァン六本木で観たのが1996年だったことは恐らく間違いなく、それまでにも『今宵かぎりは…』や『ラ・パロマ』で初めて経験するような独特の妖しさ、キッチュさに当惑しつつ、しかしそれでも-それゆえに-強烈に引き寄せられていたダニエル・シュミットという異形の映画監督の作り出す「いかがわしい」世界に再び驚愕させられたものだ。そんな『書かれた顔』がこの3月に4Kレストア版としてリヴァイヴァル上映されると聞き渋谷のユーロスペースに向かう。実に27年ぶりの再見。

これは94分の作品なのだが、わたしがずっと強烈な記憶とイメージを抱き続けているのは大野一雄が東京湾を背にしてその前にしつらえられた人工池で踊るシーンである。東京湾と人工池は画面上でほとんど境目なくシームレスに合致し、それゆえ当時齢90に届かんとしていた大野はまるでパオラの聖フランチェスコとしか見えない風情で水面を舞う。全く奇跡的というよりない瞬間。

ここに流される音楽はリストのコンソレーション第3番。左手のアルペッジョを背に右手がいかにも甘美な旋律を奏でるあれである。この曲と東京湾での大野一雄の舞踏はこれ以来分かちがたく結びつき、その視覚イメージはある種の感傷を折りに触れ呼び起こす。それを久方ぶりに現実のスクリーンで確かめたいがためにユーロスペースに赴いたと言ってもよいのだが、果たしてそのシーンで流されたピアノ曲はリストではあったがコンソレーション第3番ではなかった。

なんということだ。

もちろん夕刻の細やかに変化する光の相貌を繊細に画面に定着させるレナート・ベルタのカメラにはうっとりするし、その中での東京湾と大野一雄のコラボレーションは今観ても疑いなく素晴らしいものではあったが、何かが違う。繰り返すけれども、コンソレーション第3番がない。となると、同曲がなぜわたしの耳朶と脳裏にこびりついたのか。今となってはその原因は分かるはずもないし、分かっても意味がない、どうなるものでもない。

いや、分かるはずもないとは書いたがこういうことか、人はある事象を自分の見たいように、あるいはこうあって欲しいと思うように認識する。となれば、あのいささか通俗的かつ陶酔的なリストのコンソレーション第3番が体現するような世界にわたしは憧れていたのか。これは常日頃自分がアートにせよ何にせよ意識して努めているようなものの見方、つまり覚醒的、理性的、自律的、メタ認知的、異化的な方向性とは相容れない。この記憶違いは、それ自体取るに足らないといえばその通りながら、自身が孕むアンビバレントな「二重性」を改めて気付かせた、というわけだ。

事実と真実は異なる、とはしばしば言われる常套句。その伝で言えば、コンソレーション第3番のない大野一雄の舞踏が事実、しかし30年近くも桃源郷のように完璧なイメージの元に収まっていた「わたしの大野一雄」ではコンソレーション第3番こそが真実で、それはたまに想いを馳せたなら現実世界の胸糞悪さを綺麗さっぱりと忘却させるほどのものだった。芸術とは? それを言葉でなかなか定義できるはずもなかろうが、今回の27年ぶりの『書かれた顔』での記憶違いから逆説的にそれを体感した、あるいは芸術を「生きた」、と思った。

(2023/4/15)