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坂本光太チューバリサイタルvol.4|西澤忠志

坂本光太チューバリサイタルvol.4|西澤忠志
KOTA SAKAMOTO Tuba Recital vol.4

2023年3月31日 京都コンサートホール ムラタホール
2023/3/31 Kyoto Concert Hall Murata Hall
Reviewed by 西澤忠志(Tadashi Nishizawa)
Photos by ©︎Toshiaki Nakatani

<演奏>        →foreign language
チューバ:坂本光太
ピアノ:杉山萌嘉
<出演>
音響、エレクトロニクス:甲田徹
照明:十河陽平
演出:和田ながら

<曲目>
池辺晋一郎《象的修辞法》
ロベルト・シューマン《三つのロマンス》Op.94
クララ・シューマン《三つのロマンス》Op.22
ヴィンコ・グロボカール《レス・アス・エクス・アンス・ピレ》
ヴィンコ・グロボカール《チューバ奏者の内省》(日本初演)

 

個人的経験だが、演奏するときは自分自身のからだに意識を向けざるを得ない。筋トレ、脱力、姿勢の矯正…。それによって、はじめて音楽をするための「からだ」となる。しかしその時、私の「からだ」は、楽器のために作り上げられているのか、からだに合わせて楽器を吹いているのか。この公演は、演奏する「からだ」を問い直す機会となった。

公演開始の時間になると、客席の照明が点灯したまま、スーツを着た演奏者が舞台に入る。前半で注目するのは、シューマン夫妻による《ロマンス》の演奏。ロベルトの《ロマンス》はオーボエとピアノ、クララの《ロマンス》はヴァイオリンとピアノのために作曲された作品である。今回は、チューバとピアノのために編曲された。オーボエとヴァイオリンによる演奏を聴き慣れているためか、今回のチューバでの演奏は、ロマンティックな細かいニュアンスが抜けたぎこちないものだったように感じた。しかし、そのぎこちなさが、後半のグロボカールの作品での自由闊達な演奏を際立たせたように思う。

後半の演奏からは、坂本だけが現れる。スーツからジャージに着替え、拍手を受ける間もなく中央の椅子に座る。前半とは異なり、舞台上のみが照明に照らされる。
今回の公演で最も注目したのは、日本初演されたグロボカール《チューバ奏者の内省》。「息」を無くした男を主人公とするポー『息の喪失』を題材にしたシアターピースである。舞台には、ホースにつながれたチューバ、丸椅子、舞台左手にはスピーカー、両側と正面に照明が置かれる。暗転後、丸く、青白い正面からのスポットライトに、上半身裸の演奏者が照らされる。肺の位置を示すかのように、音を出しながら肩で息を吸う。吸い込んだ息は、マウスピースを鳴らす要領で音を出しながら一気に吐く。呼吸を「可聴化」する過程を行った後、照明は消される。数回の呼吸の後に天井の照明が点灯し、舞台右手に置かれたチューバへと移動する。そのままチューバを持つのではなく、ベルを舞台に接するように置いたまま、マウスピースの接合部分に体を近づけて吹く。演奏者がチューバを吹くのではない。チューバの形状に合わせて演奏者が動く。楽器を吹く側から、楽器によって吹かされる側へと、立場が逆転する。
一通り吹き終えると、演奏者は中央の椅子に戻り、再びスポットライトに照らされる。「可聴化」された呼吸に加え、ホースを通じてチューバを吹く。その後は、楽器によって吹かされる側から吹く側へと逆転し、様々な吹き方が試される。演奏者は舞台に寝そべり、周囲の照明が点滅する中で、四方八方にチューバのベルを向けて音を出す。最後は中央に戻り、丸く青白い正面のスポットライトに上半身が裸の演奏者が照らされ、再び呼吸した直後、銃声によって終わる。
この作品と『息の喪失』との直接的関係は、明確ではない。しかし、動いているにもかかわらず「息」を無くしたことにより、誤って首を吊るされ、医者に解剖された挙句、埋葬されてしまったように、「息」を失った主人公の「男」は、生と死のはざまの中で揺れ動いている。
この作品での演奏者も、チューバを演奏する立場と、チューバによって演奏させられる立場とのはざまに立つ。このはざまの中での立場のゆらぎ。そのゆらぎの中で変幻自在に動く「からだ」と、そこから出される音に目を見張った。

前半と後半とでは、音楽から「からだ」へ、注目するポイントが変化した。これは、作品の性質にもよるが、聴くための環境、特に照明が大きな役割を果たしたと思われる。すなわち、前半の3作品では、作曲者が想定していたであろう「集中的聴取」の環境とは異なり、客席と舞台とで同じ光量の照明が点灯していたこと、その一方で、後半の2作品では舞台のみに照明が当てられていたためである。
周囲の人間関係や雑事を取り払い、作品に直に向き合う「集中的聴取」を促すための装置として舞台だけを照らす照明が用いられたこと*)を念頭に置くなら、前半はホール全体に音が響き渡るのに対し、演奏者はチューバとピアノという狭い空間の中で密なやり取りをしていることがわかる。この前半での演奏があってこそ、後半の演奏者の「からだ」だけに照明が当たる異様さに目を見張ることとなった。
「集中的聴取」とはおそらく、演奏者の「からだ」を忘れさせる、あるいは無視して「音楽」に集中させることにより成立するものなのだろう。
その「からだ」を今一度、思い起こさせる公演になった。

*)渡辺裕『聴衆の誕生』中央公論新社(2012)

(2023/4/15)

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西澤忠志(Tadashi Nishizawa)
長野県長野市出身。
現在、立命館文学先端総合学術研究科表象領域在籍。
日本における演奏批評の歴史を研究。
論文に「日本における「演奏批評」の誕生 : 第一高等学校『校友会雑誌』を例として」(『文芸学研究』22号掲載)がある。
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〈Program〉
Shinichiro IKEBE《Elephant Rhetoric》
Robert Schumann《3 Romanzen》Op. 94
Clara Schumann《3 Romanzen》Op. 22
Vinko Globokar《Res/As/Ex/Ins-pirer》
Vinko Globokar《Introspection d’un Tubiste》

〈Cast〉
Tuba:Kota SAKAMOTO
Piano:Moeka SUGIYAMA

Sound, electronics:Toru KODA
Lighting:Yohei SOGO
Direction:Nagara WADA