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ベアータ・ムジカ・トキエンシス第12回公演 デマンティウス「ヨハネ受難曲」~ルター派に受け継がれるラッソの系譜~|大河内文恵

ベアータ・ムジカ・トキエンシス第12回公演 デマンティウス「ヨハネ受難曲」~ルター派に受け継がれるラッソの系譜~
Beata Musica Tokiensis 12th Concert Demantius Passion nach Evangelisten Johannes

2023年3月29日 日本福音ルーテル東京教会(1)
2023/3/29 Tokyo Lutheran Church
Reviewed by 大河内文恵 (Fumie Okouchi)
Photos by 沢井まみ

<出演>        →foreign language
ベアータ・ムジカ・トキエンシス:
望月万里亜(ソプラノ)
大田茉里(ソプラノ)(賛助)
長谷部千晶(ソプラノ)
及川豊(テノール)
田尻健(テノール)
小笠原美敬(バス)

斉藤基史(レクチャー)

<曲目>
ヨハン・クリストフ・デマンティウス:立ち上がりなさい
レオンハルト・レヒナー:主であるイエス・キリストよ、ただあなたにのみ
オルランド・ディ・ラッソ:私の魂は死ぬばかりに悲しい
L. レヒナー:生と死についてのドイツ語格言集

~休憩~

J. C. デマンティウス:ヨハネ受難曲

 

今年のイースターは4月9日で、2月22日からこの日までは四旬節にあたる。SNSなどでリアルタイムに垣間見える今日では、キリスト教徒の多い地域ではこの時期に受難曲が多く演奏されるということを、日本にいても知ることができる。従来、日本では季節を問わず演奏されていた受難曲も、この時期に演奏機会が多くなってきているように思われる。とはいえ、演奏されるのは、J.S.バッハの受難曲が圧倒的で、他の作曲家による受難曲が演奏されることはほとんどない。

そういったなか、2020年9月にスカンデッロのヨハネ受難曲を演奏したベアータ・ムジカ・トキエンシスによる今回のデマンティウスのヨハネ受難曲は、前回に続き大きなインパクトを残した。

恒例の演奏前レクチャーは、ベアータ・ムジカ・トキエンシスの企画アドバイザーをつとめる斉藤氏より。プログラム冊子とは別にレジュメが配布され、レヒナーとデマンティウスの生涯が時代背景を絡めながら説明された。レヒナーもデマンティウスのように馴染みの薄い作曲家でも、こうして事前に基礎知識が入ると親しみがわくだけでなく、演奏を聴く心の準備が整う。

前半は短めの曲が演奏された。1曲目の「立ちあがりなさい」は、前半と後半に分かれて作曲されているが、各声部が少しずつずれて混とんとしたテクスチャーが続くなか、後半の「彼らは死んでしまいました」という詩行の部分だけが縦が揃っていて歌詞がはっきり聞こえるのが印象的。

2曲目に歌われたレヒナーの「主であるイエス・・・」は望月・田尻・及川・小笠原の4人で歌われた。たゆたうようなぐるぐるする旋律のうねりを聞いているうちに、会場の上の方で大きな環がぐるぐると回っているような感覚になった。3曲目は本日唯一のラッソ。歌詞は悲愴な決意を歌っているのだが、ラテン語だからか曲想のゆえか、これまでの2曲よりも明るい心地がした。

前半の最後はレヒナーの格言集。畳みかけるように歌う第4部、半ばにあたる第7部は縦に揃った響きで始まり、2行目から4行目はあっという間に駆け抜ける。対位法的に歌われる第9部、フーガで書かれた第10部を経て、第13部はさっくり進み、第14部と第15部ではやはり縦に揃った部分が印象的。ルネサンス・ポリフォニー的な複雑な響きと縦に揃って歌詞が聞き取りやすい部分とが1つの曲の中にうまくブレンドされる具合が、この時代のルター派音楽の醍醐味なのかと納得した。聴きながら、いわゆる「音楽史」には出てこない、歴史の主流から零れ落ちたかもしれないものの中にこんなに愛すべき曲があるのかと思いを新たにした。

後半の始まる前に、受難曲全般とデマンティウスのヨハネ受難曲について斉藤氏からレクチャーがあった。受難曲は、テキストすべてが多声で作曲される通作受難曲と、多声ポリフォニー部分と単声の朗唱部分が交互に現れる応唱受難曲とに大きく分かれるが、デマンティウスのヨハネ受難曲は前者。J.S.バッハの受難曲で馴染みのある応唱受難曲と違い、すべてが多声で歌われる。

スカンデッロのヨハネ受難曲の場合には、福音史家の部分のみ1人で歌われていたので、まだわかりやすかったのだが、今回はすべてが多声で歌われているため、地の部分と台詞の部分との区別がつきにくい。そのなかで、イエスの述べた言葉だけは、低声部のみで歌われるため、そこだけがくっきりと浮かびあがる。

最初のクライマックスは「バラバを」の部分で、ああたしかにと思う。その後、静かに次の部分が始まるのだが、「鞭」という歌詞のところでとんでもない不協和音が響く。そこから先は、重要な歌詞のところが必ず3回繰り返されたり、第3部の開始の「ピラト」のところは一斉に始まったりと、多声で進んでいても物語性は失われない。いやむしろ、1人1人が誰かの役を演じていないからこそ、逆説的にナラティブが際立つように感じられる。

そして、最後のアーメン合唱が終わったとき、音楽の充実度と1つの宗教劇を見たような満たされた気持ちとで胸が一杯になった。”ドラマ”なるものが、舞台上の演劇という形ではなく、映像という形で作られるようになって以来、「リアリティ」が追求され、CGに代表されるような映像技術が進歩して、さらに「リアル」が進む風潮をみて、実はリアルでない形にこそ本当の「リアル」が宿るのではないかと薄々感じている。その直観があまり間違っていないのではないかとこの公演を通して思えてきた。「一番大切なことは、目には見えないんだよ」という星の王子様の言葉を思い出した。

(2023/4/15)

(1) 本演奏会は、3月25日に聖グレゴリオの家聖堂でもおこなわれました。筆者はこちらは聴けていませんが、記録としてお寄せいただいた写真を掲載します。
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<performers>
Beata Musica Tokiensis:
Maria MOCHIZUKI
Mari Ohta
Chiaki HASEBE
Yutaka OIKAWA
Takeshi TAJIRI
Yoshitaka OGASAWARA

lecture: Motofumi Saito

<program>
Johann Christoph Demantius: Steh auf
Leonhard Lechner: Allein zu dir, Herr Jesu Christ
Orlando di Lasso: Tristis est anima mea

L. Lechner: Deutsche Sprüche von Leben und Tod

–intermission–

J.C. Demantius: Passion nach dem Evangelisten Johannes