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ニコラ・アルトシュテットーー無伴奏|丘山万里子

ニコラ・アルトシュテットーー無伴奏
Nicolas Altstaedt(vc) -Solo

2023年2月21日 トッパン・ホール
2023/2/21 TOPPAN HALL

Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by ヒダキトモコ/写真提供:トッパン・ホール

<曲目>        →foreign language
デュティユー:ザッハーの名による3つのストロフ
ガブリエッリ:無伴奏チェロのためのリチェルカーレ第2番
〜〜〜〜
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番 ハ短調 BWV1011
ヴィトマン:メロディ
コダーイ:無伴奏チェロ・ソナタ Op.8
(アンコール)
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007よりサラバンド

 

衝撃だった。
1760年頃ローマで製作のジューリオ・チェーザレ・ジーリ・チェロが宇宙の中心にある。
一見、その存在は揺らがない。
抱きかかえるアルトシュテットはその周囲をめぐる惑星のようで、そのボウイングはまさに宇宙に美しい軌道を描くのだが、と言って、楽器と奏者に何か内外主従のような関係性はなく、一つのエネルギーそのものとなって絶えず搏動する。だから、楽器に取りついた奏者が音楽するのか、あるいは奏者に取りつかれた楽器が音楽するのか、そういう境界がなく混然と息づく動体が眼前にある。
宿ると宿られる、でなく、互いにその出入を絶え間なく交錯交感する混沌の目眩く渦巻き。
なのに、大宇宙の中心線で不動のチェロ。
人為のテクニックなど、何ほどでもない。
一方で、人体の関与によりどこまでもひらかれてゆく楽器の無限の可能性。

ニコラ・アルトシュテットvcについては本誌『撮っておきの音楽家たち』(林喜代種)が2018年に紹介している。
トッパン・ホールには初登場だが、クレーメルからロッケンハウス室内音楽祭を引き継ぐなど、目覚ましい活躍ぶりの実力派チェリスト。
楽器を持ちステージに現れると客席を見回し、当夜の意図をおもむろに語り始める。
要は「スコルダトゥーラ(変則チューニング)」で弾きます、ということ。
たとえば、と言って弦をつまびく。通常はCGDAだが、前半ガブリエッリ、バッハは CGDG(イタリアン・チューニング)。デュティユーにはパウル・ザッハー (SACHER)の名が音名象徴(eSACHER)として使われているからよくお聴きください、とぼろろん。
後半ヴィトマンとコダーイはCGDGの低弦を半音下げた調弦とプログラムにある。

デュティユーの3つのストロフには現代奏法が盛られ、幽けき不穏と抉るような尖鋭を示す。ハーモニクス、ピチカート、トレモロ、地底からの野太い低声、脳髄を刺激する高圧電流のごとき高声、あるいは昆虫の震える羽音といったように。デュティユーの友人だったドラクロワの『ショパンの肖像』の筆致を筆者は想起、これはザッハーの肖像かも、と思った。
ガブリエッリはヴィオラ・ダ・ガンバでなくヴァイオリン族のチェロ独奏として最初の作品に位置付けられる。ラプソディック、かつポリフォニックな書法だが、膝に挟んでの演奏であれば音色もガラリと変わり軽やかで雅な、でなく、むしろその軽みがふわふわと無重力世界を遊び流れてゆくようなのだ。しかも、ただ流れるのでなくさまざまな仕掛けがあり、ちょっとした渦や飛沫、はたまた一瞬の急流となって表情を変えるから、そのたびに筆者は「おっ」とか思ってしまう。バロックを歪な真珠ということの正否は別として、その遊び方にバロックを感じるわけだ。
さらにバッハに至って、バロックというよりこれは「ロックrock」じゃないか?と。
昔、ビートルズのことを考えていた時「ロックは川を転がる小石」と誰かが書いているのを、なるほど、と読んだのを思い出す。どの曲もテンポは速く、あるいは超高速で滑走し、ここぞ、というときにグッとギアが入る、あるいはディナミークを極端につけるので、宇宙テーマパークで色々な遊具を次々こなす、みたいな感じになる。絶叫マシーンのような瞬間もあり、しかも絶対に重力を感じさせず滑空。あるいは飛翔。あるいは舞踏。フレーズ中の強音アクセントで一瞬地を蹴ってもすぐさま宙にゆるい円弧でバウンドする、そんな軌道によって成立する音楽。ものすごく解像度が高いのにさらっと上撫でで駆け抜けてゆき、要所だけ鮮明にギラッと光らせる。その点滅具合もまた何やら未来図的不思議感…。
したがって筆者は、近未来テーマパーク遊覧ゾーンに脳内突入してしまった。
それはなんとわくわく驚きに満ちた世界だったろう。
これがあの聴き慣れたバッハ?
戸惑う人もいたろうし、細部すっ飛ばしとも聴こえるが、いや、尋常でない細部(ビット)がそこにはあった、と筆者は聴く。

後半、ヴィトマンのアラビックな旋法も交えた多様な音の古今モザイク模様は、だが前半の宇宙的無重力世界とは異なり人間臭い。それは言葉以前の発声で、コマの下を擦るわボディをパタパタ叩くわ、それなりに知る特殊奏法てんこ盛りなのだが、それが確かな音楽表現となるあたり、まさにヴィトマン職人芸。ステージは人と楽器のハイブリッド半神半人演舞みたいな様相を呈する。
さらにコダーイは、樹上生活だった人類が地上に降りて初めて二足歩行をした時の接地感覚がそこに宿っているようで、筆者の五感を揺さぶってくる。建築には「光」と「接地」という原理があるが、それは人間の生存原理でもあり、要は自分の身体と地面の繋がりの設計。地面に降りた時ヒトはヒトという種になったが、その接地の足裏から響いてくるような音。チェロのエンドピンを伸ばすって、そういうことか…。奏者の2本足とピンで盤石の三角錐がそそり立ち、楽器は轟然たる底鳴りで響き上がってくる。第2楽章の歌に挟まれるピチカートの一つ一つの雫がやけに生温かく胸に落ちる。第3楽章の目眩く舞踏、野生味たっぷりバグパイプと吹きおこる風。時々奏者はぐっと袖をたくし上げるのだが、それすら音楽の一部。原始の息吹きがそこここに谺し、筆者は「すげぇー!」(下品という勿れ)と息を詰める。
チェロってこんなに色んな声を持っていたんだ。吐息囁きから大音声喚声まで。f字孔から飛び出す音の多彩多様多面多層多相多岐乱舞に幻惑されつつ、これは原始シャーマン世界そのものではないか、と思った。

デュティユーが全き現代なら、ガブリエッリ、バッハはむしろ近未来。筆者はその浮遊感にふとアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂のジョットのフレスコ画を想起した(これはジョット作ではないという話もあるが)。眼にした時の不思議なふわふわ感に筆者はこれって現代絵画だよね、と思ったのだが、それと同じ。そうしてヴィトマン、コダーイは原始シャーマン。
人も楽器も一つの塊たる生命体。
それが現代〜近未来(中世)〜太古、と時空を自在に遊泳する、なんて不可思議なスリルに満ちた旅だったろう!

(2023/3/15)

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Nicolas Altstaedt(vc) -Solo

<Program>
Dutilleux:3 Strophes sur le nom de SACHER
Gabrielli:Ricercare for Violoncello Solo No.2
J.S.Bach:Suite for Violoncello Solo No.5 in C minor BWV1011
Widmann:Melodie
Kodály:Sonata for Violoncello Solo Op.8
(encore)
J.S.Bach:Suite for Violoncello Solo No.1 in G major BWV1017 “Sarabande”