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まよかげ/Mayokage ワーク・イン・プログレス公演&展示|田中 里奈

まよかげ/Mayokage ワーク・イン・プログレス公演&展示
京都芸術センター 制作室1
[公演]2023年2月10日~12日(鑑賞日:2月10日)
[展示]2023年2月16日~19日(訪問日:2月18日)

‟Mayokage” Work-in-progress, Performance and Exhibition
Studio 1, Kyoto Art Center
[Performance] February 10-12, 2023 (Date of visit: February 10)
[Exhibition] February 16-19, 2023 (Date of visit: February 18)
https://www.kac.or.jp/events/33074/

Text by 田中 里奈(Rina Tanaka)

→Creatives and Staffs in English

演出・語り:篠田千明
作・ダラン:ナナン・アナント・ウィチャクソノ
翻訳・演奏:西田有里
キャラクターデザイン:たかくらかずき
人形製作:たかくらかずき、ナナン・アナント・ウィチャクソノ

共同企画:Balai Budaya Minomartani
制作:山本佳奈子

主催:篠田千明、京都芸術センター(公益財団法人京都市芸術文化協会、Co-Program2022カテゴリーC「共同実験」採択企画)
助成:公益財団法人セゾン文化財団(国際プロジェクト支援「Ruwatanと魔除けのリサーチ・作品制作」)
リサーチ・WIP公演および展示制作:平居香子、谷竜一(京都芸術センター)

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ワヤン、ドット、アンビエント
旧・明倫小学校の校舎を再利用した京都芸術センターの校庭を抜けて、制作室1に向かう。外扉に付いている窓は目張りされていて、室内の様子を窺い知ることはできない。他の制作室に人の出入りがちらほらあるので、『まよかげ』のチラシが掲げられているのを何度か確認してから、恐る恐る扉を開ける。薄暗い部屋の中から、やわらかでアンビエントな演奏が波紋のように広がって聞こえてくる。演劇を観に来たことをすっかり失念して、ライブに来たようなモードになる。

制作室の中は黒いカーテンで区切られていて、壁際から幅1mくらいの部分だけが、私の立っている位置から、廊下みたいに奥に伸びている。日本の学校における文化祭で時々見られる、教室を使った肝試しの間取りに似ている。扉の裏側のあたりで受付を済ませると、こんな質問をされた。「北と南、どちらがいいですか」。私の前に受付を済ませた人が「南」にしたのを聞いていたので、ひん曲がった根性が働いて「北」と答える。観客たちは、答えた方角に応じて2組のグループに分けられ、眼前の仮設廊下の南端と北端から、カーテンの向こうに広がる上演空間の中へと案内されているようだ。

ワーク・イン・プログレス展示にて筆者撮影、2023年2月18日

ぴちょん、ぴちょんという水音が、受付と反対側の壁際に据え付けられた蛇口から響いてくる。水場にはイルカとサメのワヤン(影絵芝居用の平面的な操り人形)がある。その横にゲンデルほかの楽器群があり、その奥に奏者(西田有里)が座っている。さきほどから聞こえてきた音楽の出所だ、と気づく。縦長の上演空間をぐるりと一望すると、中央に置かれたスクリーン——垂れ幕は上がった状態だ——で空間が二分され、幕の南側には座席が、同じく北側には厚めの茣蓙が、それぞれ置かれている。室内のあちこちには動物のワヤンが置かれている。どことなく、子ども向けの人形芝居の始まりを連想させる。

コンクリートの床の中央には、ドット絵のグヌンガンが投射されている(キャラクターデザイン:たかくらかずき)。ファミコンのゲームに出てきそうな、デフォルメされてかわいさと得体のしれなさが混ざりあった人外のキャラクターたちが描かれている。一見すると曼荼羅のように配置されていて、『幻想水滸伝』を筆頭とした名作RPGゲームのパッケージに描かれたイラストのように見える。グヌンガンは、インドネシアのジャワ島における影絵人形芝居で、演目の世界観を表すために上演前に立てておくものなので、パッケージイラストという第一印象もあながち穿った見方ではないかもしれない。

周囲に置かれた精緻なワヤンと、レトロゲームのようなドット絵と、アンビエントなサウンド。私の知っている既存の組み合わせに何一つ合致しない、これらの要素が重なり合って、奇妙だがどこか懐かしくて親しげな雰囲気を醸し出している。

『まよかげ/Mayokage』 ワーク・イン・プログレス公演の初日はそんなふうに始まった。このあたりから、不安よりもワクワクがまさり、これから何が起こっても「ま、いいか」と思える心構えができたことを覚えている。開場と開演を厳密に区切りがちな劇場での公演とは異なり、日常と地続きなのに夢見心地な感覚がずっと続く。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(1979)を筆頭とする、ダーク・ファンタジーをつい連想したのはそのせいかもしれない。内容的には、『ワンダと巨像』(2005、PlayStation 2)を巨像が幇助してくれる話に転じた形に近いと思うが。


災厄の象徴〈カラ〉の誕生を物語る——ダランと語り
ジョグジャカルタおよび京都でのリサーチを経て創作の途上にあるパフォーマンス作品『まよかげ/Mayokage』は、演目『ムルワ・カラ(Murwa Kala)』に登場する災厄の象徴・カラ(Batara Kala)に着想を得てはいるが、上演中に語られるのは、カラが生まれてから人を喰うに至るまでの物語だ。

海の底で独り生まれたカラは、突然いなくなってしまった友達のクジラ(Ikan Paus)を探して、海を泳ぎ、陸に上がり、山を登り、宇宙の果てへと飛んでいく。カラの行く先々に神々が現れ、この世のことをまだ何も知らない彼に、言葉を、感情を、空を飛ぶ力を与えていく。このワーク・イン・プログレス公演で、主人公のカラは牛の皮を彫って製作した本作オリジナルのワヤンで、四柱の神々や動物は既存のワヤンを用いて(神々は初出時、たかくらのキャラクターデザインがスクリーンに投射される)、オリジナルキャラクターのクジラはフリップに印刷されたイラストとして、それぞれ登場する。

ワーク・イン・プログレス展示にて筆者撮影、2023年2月18日

ひときわ目を引くのが、ダラン(人形遣い)のウィチャクソノによる卓越した人形操りである。ひとたび彼が人形を手に持つと、それがフリップ上のドット絵であっても、あるいは、自分が今見ているのが人形自体かその影絵かのいずれかにかかわらず、キャラクターたちが生き生きと魅力的に動き出す。冒頭の場面を除いて、観客はそれぞれに座った位置に応じて、人形とそれを操るウィチャクソノを直に見るか、あるいはスクリーンに映った人形の影のみを見ることになる。

各場面では、ウィチャクソノがジャワ語で語って聞かせてから、今さっきウィチャクソノが語った部分を、今度は篠田千明が日本語で再度語るという、ことばの反復によって進んでいく。毎度同じセリフを二度聞くことになるため、一見すると冗長に思えるかもしれない。だが、本作が字幕による同時翻訳をあえて行わなかったのはまったく正しい選択だった。ウィチャクソノの人形捌きと巧みな語り、それを支える西田有里による音楽から生み出される豊かな世界観を十全に感じ取るには、字幕を目で追う行為は余計だったに違いない。

この作品の土台を形作っている篠田の語りにも触れておきたい。ウィチャクソノの語りの翻訳というには、ダランのそれと明らかに異なった話術での語り直しや、上演の冒頭や場面のつなぎにおける解説といった彼女の役目は、能狂言のアイや歌舞伎の道化方をつい連想してしまうのだが、それよりも、ワヤンにおける道化のパナカワン(Panakawan)に近いのだろう。古典ジャワ語で行われることの多いダランのパフォーマンスを、インドネシア語で観客にわかりやすく、時にユーモラスに伝える役割だ1

演者たちの役割という点で言うと、カラが最後に現れた神々の神バタラ・グルと相対する場面はとりわけ印象に残った。ウィチャクソノのことばの一つひとつを、篠田が日本語で追いかけ、西田が旋律に載せる。一つ一つのことばがスタイルの異なるやまびこになって、波紋のように広がっていく。カラがバタラ・グルの似姿であることを示しているのだが、分業的に動いていた演者たちもまた、あたかも最初から一者の分身であったかのように見えてくる、と言ったら穿ちすぎだろうか。


ワヤンの上演形態の試行(なのだろうか?)

ところで、本作の上演中に観客は客席を〈北〉から〈南〉へ、あるいは〈南〉から〈北〉へと移動するタイミングを3度得る。この契機を作るのも篠田である。ガムランをベースにした音楽から一転し、レトロな8bitサウンドのトラックが流れ出すと、篠田が観客に質問を提示する。ストーリーの展開を予想するクイズ形式のものもあれば、なぞなぞのような問い(「目と口、山よりもおおきいのはどちらでしょう?」2)や、心理テストのような質問(「あなたにとって、どちらがより恐怖を感じますか?」——「一人ぼっちになることと」「いつも誰かに見られること」)もある。これらの問いに対する自分の答えによって、次の場面で座る席を決めてもいいし、単に自分の好みで移動しても構わない、と篠田は観客に伝える。ゲーム性を保持しつつ、禅問答のような内向きの対話性を見失わない構成である。

この音楽的な場面展開の妙は、本誌で過去に取り上げた『TERA เถระ』のグリッド・ルカクンや、『テラ 京都編』(チコーニャ・クリスティアンによる評拙記事をご参照頂きたい)における田中教順の音楽性に通じるところがある。ルカクンがタイの伝統楽器を用いて自然や民話といったサウンドスケープを作り出す一方で、田中は90年代後半のポップである種チープなサウンドを引用することで「死や滅びへの予感」を表している3

ここで確認しておきたいのは、スクリーンを隔てて〈こちら〉と〈あちら〉に座席をそれぞれ有した本作の空間設計も、ワヤンのそれに準拠しているという点だ。そう考えていくと、『まよかげ/Mayokage』は、ワヤンにインスピレーションを得た現代演劇として安易に括ってしまうよりも、ワヤンの上演形態が京都の観客に対してどのように機能し得るのかを、矯めつ眇めつ試しているようにも見えてくる。

この構造的模倣は、近年再び脚光を浴びつつある伝統芸能の現代化や翻案を考えるにあたって、重要な示唆を含んでいる。物語の形式的なエッセンスを抜き出して、今日の劇場の形で上演可能に多かれ少なかれ鋳直すパターンは多い。少し前の公演だが、銕仙会による『長崎の聖母』『ヤコブの井戸』(2021、座・高円寺)や、岡田利規の『未練の幽霊と怪物―「挫波」「敦賀」―』(KAAT、2021)が思い出される。これらの試みを評価する際、物語のテーマや演技面が主として注目されがちだが、能舞台を見下ろしたり、そもそも脇正面を作らなかったりする客席の変形によって、ワキやアイとともにシテに相対することになる観客の見方がどのように変化し、同時に何が失われたのかという問いが、しばしば宙に浮いたままになることも事実だ。アーティストが地域やジャンルを超えた多彩なリサーチを経て横断的な作品を活発に制作していく一方で、専門家たちは彼らにお呼びがかかるまで座して待っていて、私のような専門家もどきがしゃしゃり出てきてしゃべくる現状は、正直なところ見るに堪えない。


『まよかげ/Mayokage』における応報
話を戻そう。では、『まよかげ/Mayokage』の空間設計は結局どのような効果を生み出していたのだろうか。さて、観客は上演中に、没入感の強い〈北〉の影絵観覧席と、パフォーマンスする演者たちの身振りや他の観客の反応に注意を促す〈南〉の座席とを行き来することが推奨される。実際、先述した質問の場面で、篠田は「ぜひ一度は席を移ってほしい」という趣旨の発言をしていた。言い換えれば、『まよかげ/Mayokage』は一方向から鑑賞して済ませることを良しとせず、没入と対象化を行ったり来たりするものとして設計されていると言えよう。

この見世物的な構造は、本作の物語にも表れている。観客は、序盤の海の場面で、カラが眠っている間に、彼の友人であるクジラが槍に刺されて殺される——言うまでもなく捕鯨が連想される——状況を目の当たりにする。突然ひとりぼっちになって、友人を探してさまようカラの幼さを痛ましく感じていると、次の瞬間、直近のトルコ・シリア地震と思しきニュースを報じるラジオの音声が流れてくる。巨体のカラがひとたび行動を起こせば、その理由がいかにもっともであっても、人間には大災害として降りかかる。その事実が、現実の引用によって強調される。

『まよかげ/Mayokage』は、非常にオーソドックスな神話を模していながら、『スター・ウォーズ』のように類型的なナラティブだけを取り出して冒険活劇に仕立てるのではなく、あくまでも神話が不条理な現実の因果を補うために語られるものだとする姿勢を崩さない。『ギルガメッシュ叙事詩』におけるエンキドゥの死を例に挙げるまでもなく、神話とはもともとそういうものだろう。文化人類学者の小馬徹がディンカ族の昔話集に寄せた解題が端的に示している4

ディンカでは物語は軽いお話ではない。物語りを始める合図のお決まりの儀式は、一つには物語の中に居座る悪夢が聞き手に及ぶのを防ぐこと、もう一つは物語を妨害する者にはその悪夢が降り掛かるぞと警告することが目的だ。悪夢がその中に居座っている物語はとても怖い。でも、それこそ聞かずにはいられない物語なのだ。物語に託された二律背反が、誰にとっても等しく人生の真実なのだから。

会場販売のZINE(画像右)とステッカー(画像上と左)。ステッカーはカラ、四神、グヌンガンの3種。

神々の神であるバタラ・グルがカヤに人喰いを許し、彼が天から人間界に下りてきたところで、上演は終わる。「ほら、あなたの後ろに…」で終わる怪談話のような構成だ。終演後、受付でキャラクターのステッカーを購入しながら、なんとなく魔除けグッズっぽいなと考えてしまう。人喰いカラと、彼に力を与えた四神の描かれたステッカーを身に付けていたら、むしろ「食べてください」と彼らに言っているような気がしないでもない。

『まよかげ/Mayokage』は、今回のワーク・イン・プログレス公演および展示を経て、2023年11月にインドネシアで催されるワヤン・フェスティバルで本公演を予定している。本作がどのように変容するのか、目が離せない。

(2023/3/15)

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  1. Hedwig Ingrid Rigmodis Hinzler, Bima Swarga in Balinese Wayang. Leiden, 1981; 福岡まどか「インドネシアにおけるラーマーヤナ物語の再解釈:R.A. コサシのコミックを事例として」『東南アジア―歴史と文化―』2009年2009巻38号、pp. 106-140.
  2. 以下、テキストの抜粋はZINE『まよかげ/Mayokage』(2023年2月10日発行)に依る。
  3. ルカクンと田中による対話を参照。TERASIA テラジア|隔離の時代を旅する演劇「往復書簡:テラとTERAの音楽をめぐって②音楽と寺/仏教の関係」2021年11月23日;「往復書簡:テラとTERAの音楽をめぐって③(音源付き)田中教順より最後の手紙」2021年11月26日。
  4. ジェイコブ・J. アコル『ライオンの咆哮のとどろく夜の炉辺で―南スーダン、ディンカの昔話』クリスティーヌ・アブク絵、小馬徹訳、青蛾書房、2010年。

[Creatives and Staffs]

Direction & Narration: Chiaki Shinoda
Book & Dalang: Nanang Ananto Wicaksono
Translation & Music: Yuri Nishida
Character Design: Kazuki Takakura
Puppetry Creation: Kazuki Takakura, Nanang Ananto Wicaksono

Co-production: Balai Budaya Minomartani
Production: Kanako Yamamoto

Presented by Chiaki Shinoda, Kyoto Art Center (As part of the Co-Program 2022 Category C “Joint Experiment” by Kyoto Arts and Culture Foundation)
Supported by The Saison Foundation (International Project Support Program 2023)
Production of research, work-in-progress production, and exhibition: Kanoko Hirai, Ryuichi Tani (Kyoto Art Center)