評論|西村朗 考・覚書(27)『大悲心陀羅尼』から『両界真言』まで(Ⅰ)陀羅尼と真言|丘山万里子
西村朗 考・覚書(27)『大悲心陀羅尼』から『両界真言』まで(Ⅰ)陀羅尼と真言
Notes on Akira Nishimura (27) ” DAI-HI- SHIN-DHARANI” 〜” RYOKAI-SHINGON”(Ⅰ)
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
今回触れたいのは、『大悲心陀羅尼』『光のマントラ』(1993)その9年後の『両界真言』(2002)の3作。まずは合唱の『大悲心陀羅尼』『両界真言』の2作における言葉と声(言霊)、すなわち読経とは何か、を考える。『大悲心陀羅尼』は特異作『式子内親王の七つの歌』『炎(かげろい)の孤悲歌』と同じ1999年の作である(特異2作については第7回既述)。
経典をテキストに用いた作品には『大悲心陀羅尼』の4年後に『水の祈禱』(混声合唱とピアノのための)がある。これは『十甘露咒』をテキストとする第1の祈禱と『六度陀羅尼』による第2の祈禱という2楽章の作品だがピアノが入る。ゆえ、ここではまず無伴奏作品『大悲心陀羅尼』『両界真言』を見たい。
そもそも、陀羅尼あるいは真言とは何か、だが、その前に密教について大雑把に触れよう。
ゴータマ・ブッダが説いた仏教が初期小乗(個人の解脱)から大乗(人々の解脱・救済)が興起したように、大乗にも様々な部派が派生した。紀元4~6世紀にかけ、人々の現実的な悩みに応えるためヒンドゥー教など多様な民族宗教の要素を採り入れる過程で形成されたのがインド初期密教(雑密)で、陀羅尼を中心とする未体系なものであった。現世御利益が主目的で、仏性を開悟し成仏する(解脱)路線は未整備。密教の三密、つまり身密(印相を結ぶ)、口密(陀羅尼、真言を唱える)、意密(心に瞑想する)の中では口密のみの確立にとどまる。
7世紀に入っての中期に『大日経』『金剛頂経』の密教経典が成立、三密を総合的に駆使する全身的行法が体系化された。当時入唐した最澄、空海がこれを日本にもたらす(純密:天台、真言)。ということで、陀羅尼、真言とは密教の要諦、口密の一つなのである。
さて、陀羅尼とは梵語「धारणी dhāraṇī(ダーラニー)」の音訳で、保つ・保持するの意を持つ語「dhāraṇā(ダーラナー)」を起源とする。古代インド、バラモン教聖典『ヴェーダ』第18回での神インドラは空海の『声字実相義』(『大日経』の空海解釈論)で「因陀羅」(漢訳:天帝はたまた天皇。日本語訳:帝釈天)という名で出てくる。つまりはインドラ神の言葉でもあるわけで、このあたりにも多要素採り入れのインド的風土がうかがえよう。
おそろしく大まかに言うなら、インドラ〜ブッダ(釈迦如来)〜大日如来という風に、東アジアの神仏は何千年の時空を自在に飛翔するのであって、この「〜」の間には種々雑多な神々が入り乱れ、それぞれ専用の呪(陀羅尼)を保持している、とでも考えれば良いのではないか。全くもって、西村的壮大混沌、汎アジア世界というべきか。
『仏教語大辞典』によれば、陀羅尼とは仏の教えの精要、神秘的な力を持つと信ぜられる呪文で、比較的長句の呪をいう。総持などとも漢訳され、法を心にとどめて忘れないこと、優れた記憶力という意味を持つ。また、多くの善を保つという意味にも解せられる。1)
日本各地にある総持寺とは、人々の願いを総て持ち備えた神仏のいるお寺の意で、観音をはじめ、薬師如来、地蔵菩薩、不動明王、弘法大師、稲荷大明神、如来荒神などなど雑多に祀っている。まさに「総持」寺なのだ。
陀羅尼に「陀羅尼呪」という総持の真言の句があるように、長句を陀羅尼、短句を真言、と考えればよいとされる。ちなみに「陀羅尼助」という、僧侶が陀羅尼読誦の最中、眠くなるのを防ぐため口に含んだ薬があり、聞く方だけでなく唱える方も睡魔に襲われたことを物語り、なかなか可笑しい。だけでなく、「眠くなる」という生理が実は読経の本質(眠りとは死の擬似体験、あるいはエクスタシー)を示していることにも留意しておきたい。
西村の『大悲心陀羅尼』とは、『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』という経典での千手観音の陀羅尼だが、詳細は後述とする。
一方、真言は梵語マントラ(मन्त्र mantra)の訳語で、仏の真実の言葉、秘密の言葉の意。漢訳は真言、密言、呪、明呪など。『大日経』などにある真実絶対の言葉、呪術的な語句を言う。2)仏尊ごとに真言は異なり、それぞれ出典となる経典がある。同じ仏尊でも成立過程が異なる『大日経』(胎蔵界)と『金剛頂経』 (金剛界) では真言も異なる。西村の『両界真言』とは、その両者をテキストとした作品ということだ。
真言でよく知られるのは般若心経の最後の句「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶([tadyathā] gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā)」(ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそうぎゃーてーぼーじーそわかー)。 これは筆者、目黒不動の護摩祈禱でしかと経験。
なお、本稿第1回『高畑への道』執筆にあたり訪ねた新薬師寺で、薬師如来御真言「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」を口中に転がしていたが、「おまじない」(咒:じゅ)程度の意識しかなく、その字義も意も理解はしていない。
陀羅尼にしろ真言(マントラ)にしろ、何がし怪しさ危うさが漂うし、そもそも密語、密教などという言葉からして筆者など後ずさってしまうのだが、まずはこうした言葉に込められた意味、人々(衆生)の願いを真摯に汲み取ることから始めねばなるまい。
なお、マントラはこちらも『ヴェーダ』での神々への讃歌、祈願、帰依として唱えられた「聖句」のことで、反復を含む読唱であったものが流用、広まった。これが民族、宗教、文化などを超え用いられてゆく。仏教でもブッダの言葉(金言)はパーリ、サンスクリット、漢語、そして日本へ「経典」として流れてゆくが、密教における「真言」はそれら経典を拠としつつ、常に梵語音写の短句、咒で伝えられる。先走るなら古代インドの聖句から始まる「咒」が保持する不可思議力を、日本における「言霊」さらには「歌霊」と言い換えても良かろうと筆者は考える。
前回述べたようにブッダの語った言葉は地方語(マガダ語もしくは東部インド俗語)だったが、当時の彼が生きた世界(行動範囲)では多様な言語が行き交っていた。古代インドはいわゆる中央王国がなく、したがって宗教を含む儀礼中心の文化が中央王権に支配されることはなかった。いわば宗教多元社会であったのだ。人々は自分たちの地方語をぞれぞれに話しており、サンスクリット語を「神々の言葉」とする後代に至っても、そこに正統異端、正教邪教という弁別意識はなかったと言っていい。正統性と普遍的教義を定める、という発想を元来彼らは持たなかったのだ。これは宗の正邪、あるいは原理、教義の普遍を唱える世界とは決定的に異なろう。
仏教集団( saṃghaサンガ)はブッダに倣い、定住することなく、各地を遍歴しながらその地の自治組織に属し、出家者は遊動性を前提とした無数の中心なきネットワークだったとされる。3)
譬えて言えば、ポリフォニー、モノフォニー、ヘテロフォニーの概念あるいは弁別(平均律的思考)、あるいは優性種が劣性種を駆逐したという種交代説(サピエンス純粋種説)的思考ではなく、異種交雑の共生社会であり流動性と寛容を持つ緩やかな多元世界であったということだ。
ヴェーダの「聖句」から密教の「真言」への展開の背景には、こうした言語・宗教・文化多元世界だからこそ「意味はよくわからないけどご利益がある」という「咒」への人々(衆生)の心持ちがあろうと筆者は推測する。
儀礼とはむろん権力と同期するが、強大であれ弱小であれ、人が集まる場には必ずそれが付いて行く。それを司るシャーマンにしろ、出家者にしろ、修行僧にしろ、首長にしろ、第一結集でのアーナンダと五百出家者の唱和をそこに重ねるなら、一字一句違えぬ厳密さの一方で(モノかポリか云々の響きの問題はさておき)、誰もが口にできる簡易咒が保持されるのは自然なことだろう。それは宗教の大衆化などといったものではなく、いつの時代にもある大衆の願望の一つの形であって、その種の神秘主義的傾向はどの宗教にも必ずある一面と筆者は思う。
「わからなくても唱えれば、何かいいことあるかも」。
現世の人々が求める雑多かつ切実な幸や願いとはそういうもので、それこそが真言の姿ではないか。
私たちは知らぬ間に「ちちんぷいぷい」(これもおまじない)とか言っているのだから。
そのことの深さ、広さ。
さて、『紫苑物語』終幕読経シーンに使用される『大日経』がらみで、空海の「真言」観もしくは論を『声字実相義』に見ておく。
第21回『尺八と雅楽』の『アワの歌』(1989) で筆者は五十音の元となる神代文字 ヲシデ(縄文中葉〜弥生、古墳前期)で書かれた古文書『ホツマツタヱ』(真の中の真の言い伝え、すなわち正史の意で天地開闢からの神代代々を描く)に触れた。その稿でも『声字実相義』2節を引いたが、ここで再び、彼の「真言」についての記述を拾っておこう。
まず、
「真言」とは則ち是れ声(しょう)なり。声は、則ち語密なり。次に「言名」(ごんみょう)とは、即ち是れ字なり。言に因って名顕わる。名は、即ち字なるが故に。是れすなわち一偈(げ)の中の声字実相なりまくのみ。4)
つまり「真言」とは仏の真実の言葉。ここで仏、とは空海の場合「大日如来」。『大日経』では「大毘盧遮那(だいびるしゃな)仏」がそれ。だが、これらの仏は遡ればインドラだのヴィシュヌだのヴェーダの古代神であることはすでに述べた。古代の神々は多様であるからどの神にフォーカスするかは解釈者(日本密教であれば空海とか最澄)の好みによって異なり、共感する経典も本尊も違うということになる。
ここで大事なのは、真言は仏の声で、声は字であり言葉に顕われ、これを偈(詩句)といい、そこに真実の姿が顕われる、と言っていること。だからこの偈を唱えれば即身成仏(この世で如来と一体化する)できますよ、という話。
「字」については、以下の記述がある。
「金剛頂」および「大日経」所説の字輪字母等これなり。かの字母とは梵書の阿字等乃至呵字等これなり。この阿字等はすなわち法身如釆の一一の名字密号なり。乃至天竜鬼等もまたこの名を具せり。名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍く転じて世流布の言となるのみ。もし実義を知るをばすなわち真言と名づけ、根源を知らざるをば妄語と名づく。妄語はすなわち長夜に苦を受け、真言はすなわち苦を抜き楽を与う。譬えば薬毒の迷悟に損益不同なるがごとし。5)
呵字とは「阿毘羅吽欠」(サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃ/ア・バ・ラ・カ・キャ)5字の音写の最初の文字のこと。この5音綴は、それぞれ万有の構成要素である地、水、火、風、空を表わし,大日如来の内面の悟りを顕すとされ、万事達成の一種の呪文として用いられる。これらの字は大日如来のそれぞれの名前あるいは秘密の称号であり、さらに諸天や竜神や鬼などなどすべての名のもとは法身であるから、あらゆる言は大日如来より流れでて、世間に流布しているだけなのだ、という話。
ものごとの真実を知るのが真言、知らないのは妄語、だから真言を唱えなさい。
そんな感じだが、筆者がこの部分を拾ったのは、「字母」「呵字」という理解、表現が気になったから。「ア」が最初の文字、字母(ヒトがこの世に生まれでて初めて発する声音「ア」字を万象を語るすべての言葉の母とする)で、そこに意識を集めていること。5字の一つ一つに法身、万有の構成要素がある、という思考は、まさに神代文字 ヲシデ、さらに『ホツマツタヱ』(真の中の真の言い伝え)と重なる。一音一音が神(一音成仏)と考えられ祀られていた日本古代における『アワの歌』すなわち言霊歌もまた、真言と同じ発想、あるいは思惟、あるいは想いを抱くものではないか。
それは古来、人間の抱く願いの究極の形なのかもしれない。
人類の種としてのステージ変容も人類史規模の尺で見るなら同時多発的であったように、言葉にしろ字にしろ、人間が捉まえる意識のステージもまた、いわば世界の「根流」から浮かび上がる泡のように形をとり、どこかで誰かに掬われ、こうした意識、思考、想いとなってそれぞれに現れ出るのではなかろうか。
したがって、原初の水脈地脈は同一で、そこには変わらぬ流れ(根源音響)があり、梵語「a」にしろヲシデの 「ア」にしろ、言ってしまえば西村の井戸水もまたそこから汲むもので、だからこそ「陀羅尼」「真言」となって彼の中で音像化された....。
西村に限らず、古今東西を超え声楽・合唱作品で多用されるヴォカリーズを思えば、そして人類初発の呼びかけとしての声を思えば、時空を超え、人は全く変わらない。
もちろん、すでにここまでで考察したように西村のアジア開眼は高校時代の「ヘテロフォニーという手もある」という恩師の一言から、藝大での小泉文夫の民族音楽、さらに杉浦康平の図像世界と、大きな出合いを重ねてのこと。1980年代は密教が注目を浴びた時期で、日本各地での密教美術の展示も盛んだった。その空気に反応し、ちょいとつまんで作ってみました的創作であれば、『汨羅の淵より』(1978) から『紫苑物語』(2019)『華界世界』(2020)まで続く宗教的色彩をそれこそ保持・総持することはできなかったろう。
空海における「声」「字」のクローズアップが真言密教のマントラ、曼陀羅世界になり、杉浦康平のアジアの図像ともなり、はたまた西村のマントラ、曼陀羅作品へとなってくるわけだが、西村世界がそこに引き寄せられたのは、もともとそういう気質だったと筆者、今にして思う。
しつこいが、西村の母の信心、金光教の教え「あいよかけよ(へいさほらさ)」(人は神に助けられ、神もまた人を助けることで神としての働きが出来る)や、祖父の信心日蓮宗「南無妙法蓮華経」(お題目)に加え、母は毎朝仏壇にお光とお香、お茶、果物類を捧げお経を唱え、お仏花も絶やさず、その隣には神棚でご神体の札を祀り、ご神器に水と炊きたてご飯を供え、榊を立てて恭しく祝詞を奏上、朝の出勤前に欠かさず続けたわけだから、「賑やかな始まり」は今なおそのまま続いていると言っても過言ではあるまい。
「唱える、祀る」行為の持つ「不可思議力」を、それは確実に幼い西村に植え付けたと思う。
ちなみに『紫苑物語』で何度も出てくる「とうとうたらり あがりはたらり ちりやたらり あがりはとうとう」は、法華経経典にある句で陀羅尼の一種と先日知った。これについては、機を改める。覚書第3回でさらに筆者は以下の記述をしている。
うつろ姫の「もっともっと手数をかけて もっともっと」に「あいよかけよ へいさほらさ」(お唱えではないのだが)がなにやら浮かんでしまい、さらに「この世で あたしがしびれさえすれば すべての男はどうなってもいい」と傲然歌い放つ姫の衣下に首をつっこむ男どもに、お泊まり宴会を彷彿してしまったのである。
お唱え、とはやはり不可思議力なのだ、と改めて思いつつ、そこに衆生の乱痴気に湧き立つエロスとタナトスの匂いまで嗅ぐ気になってくるのであった。
では『大悲心陀羅尼』にゆく。
大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)は大悲円満無礙神呪(だいひえんまんむげじんしゅ、だいひえんもんぶかいじんしゅ)または大悲呪(だいひじゅ)等ともいう。『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』に含まれ千手観音の陀羅尼として知られるが、元々は青頸観音(しょうきょうかんのん)という変化観音のもの。ゆえ青頸陀羅尼(梵語:Nīlakaṇṭha Dhāraṇī、ニーラカンタ・ダーラニー)、青頸大悲心陀羅尼等とも呼ばれる。
このニーラカンタ(青い首を持つ者の意)はヒンドゥー教のシヴァの異名で、シヴァとヴィシュヌのハイブリッド神 ハリハラのこと。青頸陀羅尼が千手観音の経典に導入され、大悲心陀羅尼となった。ちなみに西村の弦楽四重奏曲第4番『ヌルシンハ』(2007)のヌルシンハは人獅子だが、この陀羅尼でも出てくる「那羅謹墀」(ニーラカンタ:のらきんじー)がそれ。つまり、背後にあるのはヴィシュヌ世界なのである。
西村がどの程度こうした経典に詳らかか知らないが、古代インドからの流れはそこここに見えるということだ。
この陀羅尼は「なむからたんのーとらやーやー。なむおりやーぼりょきーちーしふらーやー」で知られ、筆者は永平寺(第11回)でこれを聴き深い感銘を覚えた。何がといって、音の帯、その響きの荘厳。
その音の実際は、以下で味わえる。倍音、ヘテロフォニーも実感できよう。
『大悲心陀羅尼』
大悲心陀羅尼(大悲咒)~ 甘露門 曹洞宗のお経 2 of 4 永平寺
西村はこれを何かの法要で聴き、その時の感動が本作を生んだとのこと。
冒頭の続きは以下(一部のみ、あとは割愛)。漢文もきりなくずらずら続き、どこが節なのか一見不明だが、原意に沿って区切るならこんな感じ。
ふじさとぼーやーもこさとぼーやー。もーこーきゃーるにきゃーやー
えん。さーはらはーえいしゅーたんのーとんしゃー。
なむしきりーといもーおりやー。ぼりょきーちーしふらーりんとーぼー。なむのーらー。きんじーきーりー。もーこーほーどー。しゃーみーさーぼー。
おーとーじょーしゅーべん。おーしゅーいん。さーぼーさーとーのーもーぼーぎゃー。もーはーてーちょー。とじとーえん
意は以下。
仏法僧の三宝に帰依し奉る。
大悲者なる聖観自在菩薩に帰依し奉る。
おお、一切の恐怖を除去し給う者に帰依し奉る。
已に聖観自在菩薩に帰依し終わり、
私はまさにこの光輝ある観音の真言を宣説す。
この真言は、一切の願いを満足させ、
一切の鬼神も打ち勝つことが出来ない。
迷える衆生が清浄になる真言である。
オーン
このオーン(漢字「唵」えん)というのは最も短いマントラ「om」でこれを唱えると心身が浄化されると言われる聖音、宇宙音。オウム真理教のオウムもこれに由来だろう。聖音、宇宙音、とは筆者にすれば根源音響。それが「a」「ア」はたまた「o」「オ」、あるいは「 エン(もしくはアン)」なのか、西村合唱作品のヴォカリーズ、胎内音響 「G」、ジョルダーニア見解「 A」と頭を巡らせると、これ、と決めつける必要などないと思えてくる。まさに「一即多」ではないか、と。アイウエオにこれらが全て含まれるというのも興味深い。
いずれにしてもそれは泡を掬いとるそれぞれの掌によるのでは? 何せ汎アジアは千手観音....。神の手もいろいろなのだ。
さて、スコアに入るにあたり、そもそもこの呪の目指すものは何か、大枠だけ知っておきたい。6)
経典というのはまず、ブッダ(釈迦)の説法の舞台設定から始まる。この経典では、補陀洛山にある観自在菩薩の宮殿宝荘厳道場。ブッダの周りに無数の菩薩、僧侶、諸天等が集まり教えを聞く。そこで観自在菩薩の威神力・神通力が賞賛され、観自在菩薩とこのダラニとの関連、「大悲心陀羅尼」の功徳が説かれるというわけだ。つまりこのお経では「観自在菩薩」がスポットライトを浴び、千手千眼も授けられたことが語られている。
さらにこの陀羅尼を唱えれば十五種の善生を得て、十五種の悪死を免れ得ることも明記されている。どんな十五種かというと以下(衆生が何を願っていたかがわかる)。
[十五種の悪死]
一、其の人をして飢餓、困苦して死せず。
二、枷禁杖楚(かきんじょうそ)のために死せず。
三、怨家讐対(えんかしゅうたい)のために死せず。
四、軍陣に相殺するために死せず。
五、犲(虎)狼悪獣の残害のために死せず。
六、毒蛇蚖蠍(どくじゃがんかつ)にあてらるるがために死せず。
七、水火の焚漂(ふんひょう)するがために死せず。
八、毒薬にあてらるるがために死せず。
九、虫毒に害せらるるがために死せず。
十、狂乱に失念するがために死せず。
十一、山樹崖岸より墜落するがために死せず。
十二、悪人の厭魅するがために死せず。
十三、邪神悪鬼の便りを得るがために死せず。
十四、悪病の身に纏うがために死せず。
十五、非分の自害のために死せず。
[十五種の善生]
一、所生の処に常に善王に逢う。
二、常に善国に生ず。
三、常に好事に値う。
四、常に善友に逢う。
五、身根常に具足することを得る。
六、道心純熟する。
七、禁戒を犯さず。
八、所有の眷属恩義和順する。
九、資具財食常に豊足することを得る。
十、恒に他人の恭敬扶接(くぎょうふしょう)を得る。
十一、所有の財宝他に劫奪せらるることなし。
十二、意欲の求むる所皆悉く称遂する。
十三、龍天善神恒常に擁衛する。
十四、所生の処に仏を見る。
十五、所聞の正法の甚深の義を悟る。
善き生と悪しき死は、今もって変わらない。このうちのいくつかを、私たちは時代の「進化進歩進展」によって除去抹消できたろうか。と改めて考えるが、ここに宗教というものの意味があるのだろう。
こうした理解の上で、僧侶の唱える『大悲心陀羅尼』と、西村が女声3部合唱で唱えた『大悲心陀羅尼』を重ねるなら、何がそのスコアに読みとれようか。
次回としたい。
1)『仏教語大辞典 縮刷版』p.901 中村元著 東京書籍 1983年第4刷
2)同上、p.781
3)『仏教の正統と異端』p.29 馬場紀寿著 東京大学出版会
4)『空海コレクション2』p.150 宮坂宥勝監修 ちくま学芸文庫 2004
5)同上、p.160
6)『禅宗の陀羅尼』木村 俊彦/竹中 智泰 著 大東出版社 1998 参照
◆参考書籍
『仏教語大辞典 縮刷版』 中村元著 東京書籍 1983/4刷
『人間はなぜ歌うのか?』〜人類の進化における「うた」の起源 ジョーゼフ・ジョルダーニア著/森田稔訳 ARCアルク出版 2017
『情報の歴史21』 編集工学研究所 監修:松岡正剛 構成:編集工学研究所イシス編集学校 2021
『初期仏教〜ブッダの思想をたどる』馬場紀寿著 岩波新書1735 2018
『仏教の正統と異端』馬場紀寿著 東京大学出版会 2022
『ヒンドゥー教と叙事詩』中村元選集(決定版)第30巻 春秋社 1996
『大日経・金剛頂経』 大角修訳・解説 角川ソフィア文庫 2019
『密教の流伝』 講座密教文化 1 高井隆秀・鳥越正道・頼富本宏編 人文書院 1984
『 密教とは何か』宇宙と人間 松長有慶 著 中公文庫 2020
『仏教研究入門』 平川彰編 大蔵出版 1998/4刷
『禅宗の陀羅尼』木村俊彦/竹中智泰 著 大東出版社 1998
(2023/2/15)