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カデンツァ|高崎で群馬交響楽団を聴いたときの話|丘山万里子

高崎で群馬交響楽団を聴いたときの話

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:群馬交響楽団

高崎芸術劇場(2019年開館)での群馬交響楽団1月定期公演に足を運んだのは、本誌で2年半連載中の『西村朗 覚書』の材料を仕込むため。彼のサクソフォン協奏曲『魂の内なる存在』(1999)に昨年アイオロス国際管楽器コンクールで第2位受賞の新鋭住谷美帆が登場とあれば、やはり実演を、だ。
高崎はなんといっても映画『ここに泉あり』(1955)のオーケストラ、群響の本拠地。この映画は高崎の市民オーケストラが群響へと成長する姿を活写、山田耕作も顔を出している。『山田耕作論』執筆時に戦後の山田の足跡を追ったおり、映画でのエピソードにそうだったのか、と思った。ヴァイオリニスト豊田耕児(1981~87/群響音楽監督)と遠山一行が創設した草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバルに初期からほぼ毎年通いながら、今まで立ち寄ることのなかった街である。

駅から劇場までデッキ通路が延び、「高崎芸術劇場」の赤いフラッグが並んではためく。寒風に煽られつつ歩くとホールロビーに直結、ありがたい。
私は3階右端の一番安い席を購入したが、ロビー全面ガラス張りの窓から山並みが見え、休憩時には暮れてゆく空が美しい。例えば浜離宮朝日ホールの湾岸夜景もいいけれど、私はやっぱり山が好きだ、と思う。
下を見下ろしても、上を見上げても(といっても私の上は3列ほど。チケット購入の際、しつこく選択に迷っていたら群響窓口さんは音響的にはこっちがおすすめ、と実に親切で感激した)満席だ。すごい。
着席するとお隣はあどけなさの残る少女とお母さん。このエリアはどう見ても吹奏楽部員、の制服組がずらりと並んでいたりして、なるほど住谷さんね、と思う。だけでなく10代が多く、所々に年配者が混じる感じか。
それとなく見ると少女、両手にしっかり双眼鏡。お、彼女もブラバンだ、と確信する。
ここからが、今回、私がお話ししたいこと。

颯爽と指揮者飯森範親、登場。幕開けはウェーバー『<オイリアンテ>から序曲』。
颯爽指揮者そのままに、オケ全員も颯爽。元気いっぱいはじける音。ティンパニさん、かっこいい。意気上がる管楽器。切れ味鋭く弾む音楽。
と、中盤、弦のppが….なんてふうわり柔らかなんだ! これこそが、「ここに泉あり」の響き、と、映画のワンシーンが思い浮かび、急に胸がいっぱいになる。かつて東京公演や草津(たぶん)で聞いた程度の私に、「ここに泉あり」の響きなんてわかるわけがない。でも、楽団員の空気、ここという「場」、そこに集う「人々」が、確実にそう思わせる何かを伝えてくるのだ。
と、隣の少女、膝の双眼鏡を握り締め音楽に全き集中であったのだが、この弦の弱奏にきてふっと気配が変わった。反応しているんだ、間違いなく。「わあ」という声が聞こえてきそう。
私の神経は、ステージと少女とを往復し始める。
以降、私の享受はステージと少女の同時進行となったのであった…。

お待ちかねの住谷、黒のシックかつ妖艶なドレスで金色に輝くサックスを手に現れる。
それだけで、満員の聴衆、ブラバン学生ら、そして隣席少女の「きたーーー!」感が膨れ上がる。双眼鏡を握る手に力が入る。
が。
冒頭、まず打のドーンの地響き、そしてさっきのうっとり溌剌ウェーバーとはまるきり違う管弦の響き、再びのドーンに、彼女、思わず母を見上げる。弦の軋みと微妙な不協和の重なり、からの異様な盛り上がりに、もう一度、「えーっ ! 」と母を見る。一瞬しずまったその先、静寂の底からサックスがゆらゆらと姿を現す。少しは西村音響世界に慣れた私であれば、あの『太陽の臍』の篳篥の入り(ビシュヌ神出現)なのだが、おそらく客席の多くが(後半はマーラー『巨人』であるからして)、「なにこれ、サックス協奏曲?」と思ったのではないか。
少女は明らかに戸惑い(そう言われても、的に母も戸惑い)、意気込んで握りしめていた双眼鏡を膝に置いたまま、しかし、しかしだ、眼前の訳わからん音響世界にひたと吸い付いている。お姉さんがかっこよくブンブン吹いてくれるんじゃなかったの?とかの「内なる声」すら、吹っ飛んだらしい。
ちなみに「魂の内なる存在」とは「Esse in Anima」でアニマとは「母性的な宇宙の意思あるいは霊気である」とプログラムにはある。でも、これを読んだところで、意味などわかるはずがない。
正直、私は気が気じゃなかったのである。いつ、「もう、やだ! こんな音!」と少女が投げ出し、すっくと伸ばしていた背をガタンと背もたれに沈めるか、飽きてキョロキョロし始めるか、あるいは寝落ちするか、と(演奏時間約30分)。
だが彼女は、私より凄まじい集中度で(私は彼女が気になって作品分析検討解釈その他などなど材料仕込み機能不全となっていた)、演奏に食いついてゆく。
双眼鏡なんて忘れ、ただただ音の行方を追っているのだ。
長い長〜いソロ部分では、さらに食い入るようであったし、一応、山あり谷ありの流れの終着、音が消えての、こちらも長い長〜いホールの沈黙(静寂)ののち、母娘(だけでなく客席みんな)は熱心な拍手を惜しみなく贈ったのであった。
この沈黙が、住谷と西村(氏も呼ばれ、ステージに上がった)への賛辞であったことは言うまでもない。
というわけで、覚書執筆の研究に用はほとんどなさなかったが、それ以上の驚きを彼女からもらったのである。

休憩後の席で、私は自分を抑えきれず、「怪しい人ではないんだけど、ちょっと聞いてもいい?」と持っていた名刺を少女に手渡し、「ブラバンやっているの?」と問いかけた。
ブラバン?
あ、ブラスバンド。
はい、やり始めたところです。
よく聴きにくるの?
はい、オーケストラが好きなんです。
核心に入る。
さっきの音楽、どうだった?なんか、変だった?
驚いたけど、嫌じゃなかったです。
(彼女はこのセリフを2回言った。嫌じゃない、という表現、よくわかる。お母さんも同じ感想。驚いたけど不快ではないと)
聴いてて、どう感じたのかな?
なんか、人間らしいと思いました。
え〜っ、人間らしい? どういう意味だろう?
あの、音楽に明るいところもあって、暗いところもあって。
明るいところだけとか、暗いところだけ、とかってあるじゃないですか。
でもそうじゃなくて、両方がある。
それが、人間らしいなって思う。
人間て、そうじゃないですか。

私は心底驚いた。
プログラムで西村は「あるひとつの心理的世界ないしは事象への音響のゲイト(門)が開くように始まる。〜〜独奏パートはひとりの人間の心理的光景の表象であり、オーケストラは時にそれを増幅し、また時にそれを包み込む。〜〜心理的光景の深層には、意識を超えた内宇宙の広がりがある。内宇宙は無限の大宇宙とつながり、一体となって同化している。すなわちこの曲における心理的世界とゲイトの連なりは、大宇宙と内宇宙のアニマに包まれた時空に存在する」などと述べている。
小難しいことはどうでも、私が驚いたのは、少女が、初めて接したであろうこの種の音楽に、明暗世界の両者を抱く「人間存在」のありようを聴き取ったことだ。
それはほとんど存在論的なひとつの解釈であり、彼女はそういう耳(心身)で音楽を受け取った。
心理的光景云々より、それははるかに本質的なことのように私は思う。

少女は続ける。
あと、サックスで違う音が一緒に鳴ることがあって、ああいうの聴いたことなかったから、どうやって出すんだろうと思いました。
うん、あれは特殊奏法っていうので、こういう音楽ではよく使われるのね。
と嬉しく私は説明し、その技術的な関心度にも感心したのだ。

お母さんは私たちの会話をうんうん頷きながら興味深そうに聞いていて、いいですねえ、若い子たちがたくさん来てて、と羨ましがると、「高崎は音楽や文化にすごく力を入れているんですよ!」とまるで市広報官のように誇らしげに言うのであった。
実際、ロビーも老若男女とりどりで、若い子たちがたくさん群れている。
愛されているんだなあ、音楽、群響。

さて後半のマーラー。
第1楽章の開始で少女はあれ?と、またまたお母さんを見る。
そして、やおらプログラムを開く。
前半2曲ではそんなことはしなかった。
鳥の鳴き声だな、と私は思う。カッコー、鳴いてるもんね。
それからトランペットが遠くから鳴っているところ。
どこから聴こえるのかな?
吹奏を終え、彼らがそっとステージに入ってくるとお母さんが少女をつっつき、二人で、あの人たちだったんだね。
そんな無言の会話が続く(と思う)。
マーラーでは、彼女はしょっちゅうプログラムを見た。
私は久しぶりに聴く『巨人』に、なんとも言えぬ懐かしさを感じ、ウィーンの森とか、フォルクスオパーやステージでのワルツとか、街の楽師シュランメルンの姿とか、その音楽にたくさんのいろいろなことを思い出していた。マーラーは自分の中の雑多を混ぜこぜに、いつも帰郷(それがどこかはわからないが)の想いを歌い続けた人だった、そんなことを、その日の演奏は伝えてきて、世紀末の、現代への扉をほんの少し開けて、けれどいつまでも古典の美しさへの郷愁を抱え彷徨い続けた魂を、そこに痛切に感じるのだった。
少女は熱心にプログラムを覗き込みつつ音楽についてゆく。
何か気になる部分があると確かめるみたいに。
けれど、眼を閉じてじっと聴いている時もある。
第4楽章でまたあのトランペットが鳴ると、お母さんがプログラムで、ここ、みたいに指差す。
そうしてホルン群が立ち上がった時には、彼女のワクワクぶりも頂点に。うわっ、て感じ。
最後の昇天に、満場の喝采。母娘もむろん。私もむろん。

終演後、席を立つ前に身をかがめ、おいくつ?と聞く。
13歳です。
中学生ね、今日はお話しありがとう。

音楽、何よりこの少女と共有した2時間が、私をぽっぽと温め、幸福にした。
マーラーでの彼女の聴きぶりについて、話を聞きたい気持ちはあったが、やめた。
いつか、この少女がオーケストラで演奏する姿を見ることができたら。
そんな光景が、あるように思ったから。

とっぷり暮れた帰路、車窓に流れる街あかり。
少女よ、またどこかで会えるといいね。

             (2023/2/15)

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群馬交響楽団第584回定期演奏会
<演奏>
指揮/飯森範親
Conductor/ Norichika Iimori
サクソフォン/住谷美帆*
Saxophone/ Miho Sumiya
<曲目>
ウェーバー/歌劇《オイリアンテ》J.291から 序曲
Carl Maria von Weber/ Euryanthe, J. 291: Overture
西村朗/サクソフォン協奏曲「魂の内なる存在」 *
Akira Nishimura/ Saxophone Concerto “Esse in Anima”
マーラー/交響曲 第1番 ニ長調「巨人」
Gustav Mahler/ Symphony No. 1 in D Major, “Titan”