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プロムナード|国葬の日に|西村紗知

国葬の日に
In the day of A State funeral

Text by 西村紗知(Sachi Nishimura)

国葬の日に、私は普通に仕事をしていた。自宅で仕事をする日だった。書類をつくったり、メールを送ったりしていた。
その日14時から国葬があるらしかった。私の友人のうちで、昼間仕事をしていない人がツイッターのスペース機能で国葬の実況をやっていたらしかったが、勤務時間中に聞くわけにもいかないので、私はそれをチェックしなかった。後から聞くところによると、それは政治家たちの一挙手一投足にいちいち文句を言う大層愉快なものだったらしいのだが、録音が残されていないのでもう確認のしようがない。
私は結局国葬を見なかった。うちのテレビはもう押し入れに片付けてあって、テレビをつけるとなると面倒だったからだ。私はオリンピックも見なかった。
国葬についての人々の意見に触れることはあった。ウェブニュースが主な情報源だ。正式な手続きを踏んでいるかどうかが争点らしかった。政治の私物化が批判されていた。国葬というより政権葬なのだと。それに弔問外交として、本当に必要なのか疑わしいと。
当日、国葬に用いられる音楽のリストがツイッターのタイムラインにまわってきた。人々は口々に、現政権には教養がないと嘆いていた。ドビュッシーの月の光とか、ショパンの別れの曲とか、カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲なんてものが、国葬に相応しいのか、と。「カヴァレリア」の筋書きも知らないのか、と。
国葬の日に、私は自宅で仕事をしていた。私は数年、そういうセミ・クラシックのために仕事をしてきた。「教養がない」人々のために働いてきたつもりだった。「セミ・」をトルにしたラインナップにした瞬間、それがどれほど困難な企画となるか、一応わかっているつもりだ。人々は、冴えない美的対象を感知した途端狂暴になる。私は、「教養のある」美的経験に長けた人間がいつでも怖かった。

ああいう人、殺されてしまうとは夢にも思わなかった。岸信介の孫が、よりによって元自衛隊員に、統一教会の信者の家族に倒されてしまうなんて。最大の批判者は、内在的に到来してしまった。一体、私にはどういう批判者になることが可能だったというのだろう。「うちで踊ろう」の件程度のことで、うだうだ文句を言っていたことを思い出して自分が恥ずかしかった。人々はまだ、BGM程度のことで文句を言っていた。私は恥ずかしかった。
実家でこの事件についてほんの一瞬喋ることがあった。演説のスケジュール次第では、私の実家の方でこの出来事が起こることもあり得たらしかった。交通業務に従事する家族は、もしそうだったとしたら、それはもうえらいことで、とこぼした。つまるところそれは、経済効果の話だった。それだけだった。
出来事が起こると、ツイッターの世界と現実の世界はもうどうしようもないほど離れていってしまうのだった。かの容疑者は、一部の界隈ではほとんど英雄視され、あまつさえ今日の思想的課題のメルクマール的存在になったようだった。あの出来事があったとき、みな一斉にツイートした。なかには、今はツイートすべきでない、というツイートもあった。出来事があったときには、ツイートすべきでないというツイートが乱立するのである。沈黙するという身振りを示すことが不可能なアーキテクチャにあって、人々は饒舌だった。
会社員をやっている友人に、あの出来事があった日に会社はどうだったか聞いてみることもした。やはり、何もなかった、とのことだった。
出来事からしばらく後のこと、私が国会図書館に行くとき、近くに自民党の本部があるからその側を通り過ぎねばならないのだが、入り口には献花台が設けられ、そこに多く花が手向けられているのを見た。永田町のどこかで働いているだろう人が、手を合わせているのも見た。

出来事とどう接していいのかわからない。笑うことも、怒ることも、無関心でいることも、知的関心に引き寄せることも、弾丸を撃ちこむことも、祈ることも。出来事があった以上、何もなかったことにすることもできない。

国葬の日に、私は普通に仕事をしていた。定時になったら仕事を切り上げて、そのまま近所のライブハウスに出かけた。友人と一緒に、太陽肛門スパパーンの花咲政之輔が主催するイベント「安倍「国葬」に反対する歌舞音曲と討議の集い」に行った。
江古田buddyにはたくさんの人がつめかけていた。年齢層は高めだった。配布されたパンフレットの中に、ヒップホップ批評の韻踏み夫の文章がまるごと掲載されていた。「ある一日に乾杯する」。おそらく無断転載だと思う。
イベントは、19時から22時まで休憩なしで続いた。最初に、太陽肛門スパパーンのライブがあった。林栄一(sax)が加わって、ブラスのサウンドは心地よかった。北村早樹子による、放送禁止歌「月経」の歌唱もあった。ラッパーのダースレイダーのパフォーマンスは、少し音量のバランスが良くなくあまり聞こえなかったが、他にも竹田賢一、めぐ留といった人々が参加していた。
討議の時間も設けられていた。討議といっても、時間がなかったので、登壇者に意見を出してもらうに留まっていた。太田昌国、宮台真司、竹田賢一、DARTHREIDER、曽我部恵一が登壇していた。
その後はギターの弾き語りだった。まずは、曽我部恵一。圧倒的だった。ギターの弾き語りをやっている人はこれ聞いていたらいい勉強になるだろうに、と思った。「満員電車は走る」の「1 億 2760 万の叫びを切り裂いて」という歌詞に、私の郷里にはまず電車が来ないのに、と多少は鼻白んだが、自分の住む街から世界を見つめることを降りない覚悟も、それはそれで大切なことだとも思った。
友部正人が登場した。友人はにわかに信じられない、といった感じだった。韻踏み夫「ある一日に乾杯する」には友部の「乾杯」が引用されていて、その論考の存在がきっかけとなり実現したものらしい。ここにいるのが韻さんだったらよかったのに、と私は心からそう思った。
イベントがだいぶ長く続いていたから私は疲れていた。友部のパフォーマンスが、うまく入っていかなかった。ふと、前の席を見るとさっきまで舞台にいた曽我部がいた。私は彼の表情を見て、はっとした。およそ真剣な、という言葉では言い表せないほどに真剣な表情で彼は友部の音楽に耳を傾けていた。かんばせだった。私はああいうかんばせを、私が普段行くコンサートホールで見かけたことが一度もなかった。
最後は会場の全員で「平和に生きる権利」「不屈の民」を歌って終わった。思えば私は、ジェフスキー「不屈の民変奏曲」以外でこの曲を聞くのが初めてだった。おかしな話だ。

国葬の日からだいぶ経ち、年が明けてしまった。「乾杯」の「耳も鼻も口もないきれいな人間たちが 右手にはし/左手に茶わんを持って/ 新宿駅に向かって行進しているのを見た」という描写が、ずっと頭に残っている。
かんばせの無い人の元にはいかなる出来事も到来しないだろう。今はたったひとり、そのことばかり考えている。

(2023/1/15)