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パリ・東京雑感|三島由紀夫から解くプーチンのニヒリズム|松浦茂長

三島由紀夫から解くプーチンのニヒリズム
Cult of Nihilism from Mishima Yukio to Putin

Text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

プーチン大統領

ヨーロッパの学者・ジャーナリストは、プーチンの戦争を語るとき「ニヒリズム」という言葉をよく使う。ロシアの劣勢が目立つにつれ、ロシア軍のやり方は一段と非人間的になり、日本語としてはちょっとキザに聞こえる「ニヒリズム」という言葉がドンピシャリになってきた。
前線で敗北続きのロシアは、ウクライナの電力施設を破壊し、市民を凍えさせる作戦を繰り広げる一方、ロシア国内では手当たり次第30万人の男をかり集め、訓練もしないで前線に送り込む。まるで自国の若者を敵の砲撃の餌食に提供するようなロシア式徴兵と、ウクライナ市民全体を連日拷問にかけるようなサディスティックな爆撃。人の命と人間性に対する冷笑自体を目的とするかのようなニヒルなふるまいだ。

プーチンは11月末に、選りすぐりの愛国的「兵士の母」を集めさせ、息子を失った母親に向かってこう説いた。
「交通事故で毎年3万人が死に、アルコールで3万人が死ぬ。人は誰でもいつかは死ぬ。大切なのはどう生きるかだ。ウォッカを飲んで死んだら、その人の人生は顧みられずに終わる。しかし、貴女の息子さんは本当に生き、人生の目的を果たしたのだ。彼はむなしく死んだのではない。」
大統領が母親に向かって、息子を国家のためのいけにえに捧げたのは良いことだと説く「死」の礼賛。命を憎悪し、破壊に熱狂するニヒリズムが透けて見えるではないか。
プーチンのニヒリズムに箔を付けるのは、ロシア正教キリル総主教の役回りだ。
「祖国のために命を捧げる人は、神さまがいらっしゃる天国で栄光と永遠の命を与えられるのを忘れてはならない。兵役の義務を果たして死ぬことは、他人のために犠牲となることであり、この犠牲によってすべての罪は洗い流される。」

しかし、死を礼賛するニヒリズムには麻薬的魅力があるらしい。
三島由紀夫は1970年9月に『革命の哲学としての陽明学』を発表した。自衛隊に突入して自決する2ヶ月前である。

革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの二本の柱にあると思はれる。……二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッガーの準備した能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの「二十世紀の神話」が、ナチスのミスティシズムを形成した。
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは人間性の自然である。
明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によつて準備された。……そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。……われわれが認識ならぬ知に達する方法としては古人がすでに二つの道を用意してゐた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいはゆる脱自、陶酔、恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するといふ方法である。……陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。(三島由紀夫『革命の哲学としての陽明学』)

自衛隊員に決起を呼びかける三島由紀夫(1970年11月25日)

読む者の気分をいやでも高揚させる名文にコメントをつけるのは野暮だが、なぜ三島がこれほどニヒリズムを賛美するのか、その筋道をたどってみよう。
頭でっかちには「行動」が出来ない。理性が行動の邪魔をするから、行動したければ、理性を麻痺させる陶酔的情念に身をまかせなさい。ではその行動を導く熱狂・恍惚はどこから来るのか? それは死と隣り合わせのニヒリズムからしか得られない。頭の中だけの思索を捨てニヒリズムを跳躍のばねとして行動し、行動のただ中で知る=「狂熱的認識」こそ、知行合一であり、陽明学の革命哲学だと、三島は言いたいのだろう。
それにしても三島はなぜ革命したいと考えたのか?「日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正する」ためである。日本人が精神を忘れ「心の死」「魂の死」を恐れることを忘れたからである。元凶は、三島によればヒューマニズム。「われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重のヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はない」からである。
西欧に汚染された日本を「精神」に立ち返らせるための革命は、おそろしく過激だ。三島によれば、すべての政治行動が、共産党に至るまで「ソロバンづくの有効性によって計量され、有効性の判断が政治行動のメリットの唯一の基準」になってしまったのだから、いま革命を起こすとすれば、政治的有効性に引きずられる闘いであってはならない。「ソロバンづくの有効性」にかかずらわってはならないというのである。
でも「ソロバンづくの有効性」ってつまらないものだろうか? 福祉とか健康とか教育とか、国民の生の充実をはかる政治が、「有効性」ではないか?「有効性」とは生命の営みの肯定(三島の嘆く「人命尊重のヒューマニズム」)ではないか。だとすれば、「有効性」否定は生の否定、すなわち死の礼賛・ニヒリズムにほかならない。
革命家三島由起夫は華麗なレトリックを駆使して、「有効性」否定の哲学に賛歌を捧げている。

陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいとするかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつともきびしい地点に身をおくことでなければならない。(三島由紀夫『革命哲学としての陽明学』)

三島の文章を長々と引用したことについて、弁解しなければならない。実は、この文章を知ったのはつい最近のこと。12月に小島毅氏の『昭和中期の陽明学研究~丸山世代の研究者たち~』という講演を聞きに行って、初めて三島のこの文章に出くわし、めまいがするほど興奮させられたのです。突飛なようだが、これでプーチンの心の中が読み解けると思った。三島はプーチン流の現代ニヒリストを理解するための最高の理論を残してくれたのではないか、と感じたのです。
三島の描くニヒリストは、
①凡庸な小市民的合理性を軽蔑し、
②合理性によって精神を退廃させた西欧に怨恨を抱き、
③狂気に近い陶酔の内に行動することを願う。
④行動の高揚感は、ニヒリストに超人の優越感をもたらす。
虚空を漂うようなプーチンのあの目つきは、③陶酔と④超人の優越感ではないか? ただ、プーチンの場合、西欧憎悪は、合理性への軽蔑もあるが、主としてLGBTに代表される「悪」に向けられる。同性愛にふける「罪深い」西欧から、清らかな正教ロシア世界を守るための聖なる戦いがプーチンの戦争である。

 

大塩平八郎

陽明学のニヒリズム的理解によって革命行動に出た先人として、三島は、第一に大塩平八郎をあげている。でも、貧民を飢えから救うために蜂起するのは、生命を守る愛の行動であり、ニヒリズムの正反対ではないか? 平八郎のモットー「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」も、ニヒルどころか、むしろ天命への大らかな信頼の告白ではないか?
三島は、平八郎が大切にした「帰太虚」をニヒリズムの同義語と見なしたうえで、「もし、誰であっても心から欲を打ち払って太虚に帰すれば、天がすでにその心に宿ってゐるのである。……心すでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の正義と一致するのである」とあざやかに陽明学の核心を説き明かしている。でも、天の正義を信じる人がどうすればニヒリストになれるのか?
つぎに三島があげるのは西郷隆盛。「西南の役における死におもひ及ぶと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によって貫かれてゐることにわれわれは気づく」と評している。

東京裁判で東条英機の頭を叩き、抑えられる大川周明被告

しかし、ニヒリズム革命行動の代表にあげられるべきは大川周明ではないだろうか? 三島はナチス「革命」のニヒリズムについて論じているのだから、日本のファシズムとニヒリズムについてこそ詳細に語るべきだったのだ。小島毅氏に「日本の軍国主義者の中で陽明学の影響を受けたのは?」と質問したら、真っ先に大川周明を挙げた。
大川周明は五・一五事件を起こす前に、1931年にクーデターを企てて失敗(三月事件)。同じ年にまた、満州事変の発火点となる柳条溝の満鉄爆破に呼応してクーデターを企てている(十月事件)。この計画に誘われた田中少佐は、説得に来た青年将校との興味深いやりとりを書き残している。

田中 君等(柳条溝)事件発生以来、日夜画策する所のものは何の計画なりや。
青年将校 破壊計画なり。
田中 破壊計画は建設計画出来上がり、其の範囲内に於て作るべきもの、即ち両者は一貫せる思想に従うべきものに非ずや。建設計画を明かにせずして、破壊計画は不合理ならずや。
青年将校 建設計画は他に於いて立案中。
田中 他とは。
青年将校 大川周明博士を主体とせる一派。

目的を知ろうともせず暗殺・破壊に熱中する青年将校はニヒリズムに取り憑かれたテロリストの典型だが、彼らの精神的支柱となった大川周明の思想もニヒリズムではなかったのか?
大川は、イスラム研究者でもあり、インド革命家との付き合いも深く、社会主義に傾倒した時期もあり、視野の広い思想家に見えるが、根っこにあるのは国学者流の独善的日本礼賛だ。
――偉大な精神世界をもつ大和民族には、東西文明統一を実現する国家的使命がある。日々「驕傲」の度を加える米国との戦争はいずれ避けられないから、「日本が盟主となりて全亜細亜を結合且指導」し、米国の野望を挫かなければならない……

こうしてニヒリズムの刻印が押されて始まった十五年戦争、不思議なほどプーチンの戦争と似通ったところがある。戦いぶりにもニヒリズムの色がつくのだ。

①見え見えの嘘。武士道・騎士道的美学のかけらもない卑怯な戦法。
――日本軍が柳条溝を爆破しておきながら、「暴戻な支那兵が満鉄線を爆破」と発表し、開戦の口実を作る、など謀略に次ぐ謀略で戦線を拡大。
――ブチャの虐殺はウクライナの偽装とする映像を放映、などロシアのテレビは奇想天外な嘘報道を流し続け、壮大な虚構「真実」を構築した。
②女性、子供も容赦せず、住民を殺害する
③自国民保護を口実にする。
――関東軍は満州の日本人入植者が圧迫されていると喧伝し、軍事行動の必要を主張した。
――ロシアはウクライナでロシア系住民に対するジェノサイドが行われていると称し、「ナチズム」から住民を守ることを侵略の大義名分とした。
④「戦争」と呼ぶのを避けた。
――満州「事変」
――特別軍事作戦(ロシアでは「戦争」と呼ぶと罰せられる)
⑤傀儡国家をつくる。
――満州国
――ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国、クリミア共和国

ところで、陽明学は三島由紀夫が言うようにニヒリズムの哲学なのだろうか? 概説書を読むと、王陽明は人の心には天の命ずる理が宿ると説いたように理解できるから、根本的に良心は善と考えるオプティミズムの哲学だ。内村鑑三、新渡戸稲造ら明治のキリスト教指導者が陽明学を賞賛したことからみても、ニヒリズムとは無縁の哲学に違いない。
ニヒリズムは、どんな健康な哲学・宗教も癌化してしまう強力なウイルスなのだろう。ニヒリズム・ウイルスにやられると、良心の哲学である陽明学もテロリストの聖典になってしまう。ニヒリズムに取り憑かれたイスラムがビンラディンを生んだように。ニヒリズムに毒された仏教が麻原彰晃を生んだように……
キリスト教でも仏教でもイスラム教でもまっとうな信仰を持つ人は皆似ている。ロシアの修道院、杉並区の禅寺、パリでビルの清掃をするイスラム教徒、など、いたるところ僕の会った信仰の人からは、会う人をホッとさせる安心感、心の底からの静かな喜びがにじみ出ていた。ホンモノのもつ落ち着きを知っていれば、ニヒリズム化した宗教を見分けるのは、それほど難しいことではない。ただ、人は平安より激しい興奮に惹かれやすい。「脱自、陶酔、恍惚」こそがホンモノの印だと勘違いしやすいのである。

(2023/01/15)