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カデンツァ|除夜の鐘|丘山万里子

除夜の鐘

Text & Photos by 丘山万里子

謹賀新年。

大晦日、思い立って除夜の鐘を撞きに出かけた。
パンデミック以降しょっちゅう通っている近所の禅寺で、毎夕、書斎に鐘の音が届くと、ああ、もう5時か、と窓越しに庭と空を眺める。
除夜の鐘つきのことは知っていたが、長くこの地に住んでもこの寺を訪れることはあまりなかった。
近くに井草八幡宮という明治神宮と並ぶ由緒正しき大御所がおり、地鎮祭だの七五三だのとお世話になるのはこちらであったから。子らの幼稚園もここで、今は一番幼い孫が通っている。

この寺は禅庭で、四季の移ろいが美しい。
当初は人のいない静かな場所と空気を求めての日々の散歩でしかなかったが、そこでぼんやり時を過ごし一句を考えたりもするようになると、竹林、木々、光、風、小滝、飛び石、池に集まる鳥たち、墓所の小仏群という具合に、だんだん周囲の景色と親しくなってゆく。
禅庭には思想があって云々は脇におき、ただ眺めているだけでも、やがて向こうが、ほら、みたいに、何かを伝えてくる感じになる。

それは通ううち何となくで、山門をくぐって参道を挟み左の一石はどう見ても虎に思え、それに相対するような右の大小二石は子連れ虎のようであり、正面こちらも左右に置かれた大きな巌は海で、両方ともその表に波濤を刻んでいる。梅の木の枝の伸ばし具合は龍で、そのように、向こうから姿を顕してくる、と言ったらいいか。

私は住職にそれを確かめようとも意味を聞こうとも思わないし、年中こまめに入る庭師たちの仕事ぶりを眼の端に見ているのが好きで、彼らに何か問おうとも思わない。
するうち、竹林が初夏に落葉することを知る。
爽やかな若緑の上の方が黄色く変色しているのに気付き、はらはらとそれらが風に舞い足元に落ちるのに、あれ?季節外れな、と不思議に思った。調べると「竹落葉(たけおちば)」で季語にもなっている。人というのはこんなにも敏感に自然を感じ取り言葉へとつなげているのかと、自分の不勉強を思い知る。
私にとって何かを知る、とはそういうことで、生きることも、同じだ。
自分の気づきと探索が先人の流れへたどり着き、わかったかい?と目配せされて、うん、と頷く。それがないと、事象は上滑りし通り過ぎてゆくばかり。
思想とは生きられねば思想にはならない、という言葉が誰のものだったか自分でそう考えたのか、もう忘れたが、高校の頃ノートにそう書きつけたことだけは鮮明で、今もそれは変わらない。

鐘は右手の子連れ虎の横奥に鎮座しており、その向こうに竹林がのぞくのがなんとも風情がある。私は行くたび、ちらりと見て、毎日ご苦労さん(夕の鐘)、くらい呟くのであるが、本堂に参拝するでもなく、庭を眺めて寛げるベンチに座り、小一時間を過ごすのであった。
その除夜の鐘つきは、一昨年は中止となった。
今回は開門も撞き始めの時間も告知されたから、気をそそられてはいた。
が、如何せん長蛇の列だったら嫌だ(私は小さい頃から行列に並ぶのが嫌い)、この寒さだし、と半々の気分。TVにも飽き、外気の冷たさを確かめてから、とにかく行ってみようとホカロンを前後に貼り付け出かけたのである。
すぐと、鐘の音が響いてくる。やあ、もう始まっている、と、急に気がせく足がせく。
やっぱり。といっても行列は境内の中で、外に溢れていないので、並ぶことにした。ほとんどが家族連れかカップル。だよねえ...。
おお、焚き火をしているではないか。
ちょっとずつ動く列の中、わぁ綺麗、とか、一人小さく興奮する。

空には月がかかり、仰げばオリオンも冴え冴え、冬の大三角形にダイヤモンド(おおいぬ座のシリウス、オリオン座のリゲル、おうし座のアルデバラン、ぎょしゃ座のカペラ、ふたご座のポルックス、こいぬ座のプロキオンを結んでできる六角形)がよく見える。そういえば去年は原っぱに流れ星を2回見に行ったっけ。
前の家族連れの父親がやはり空を仰ぎ、スマホで星座を検索、空と画像を照合しているのを盗み見ながら、よく見えますねえ、あれ、冬のダイヤモンドですよねえ、とか声をかけたいのをこらえる。目深に被った帽子、眼鏡にマスクの着膨れ不審者であるからして。
かれこれ30分。番が来た!

何しろ私は一昨年、永平寺で寂聴の鐘(誰でもいつでも可)、三井寺で三井の晩鐘(お金を払えば可)を撞いたのであるから名鐘鳴らし経験者。
付き添いのお坊さん(小さな子供たちの手助けなど)に番号札を渡し、お辞儀をし、「利き手で縄を持ち」とのご指導に素直に頷きつつ、思いっきり、実に思いっきり手前に縄を引き付けて鐘つき棒を鐘にぶつけたのであった。
ぐわんぐわんぐわん。
すごかった。我ながら、すごかった。一瞬、周りの人々は、なんだこいつは、みたいな感じ(と思う)。意気揚々と鐘の周りを一巡りして私は鐘楼から降りたのであった。
大音声で鳴らすのは、後の人に迷惑、とわかってはいた。揺れが収まるまで、次のひとは待たされる。行列の人たちには大いに迷惑なのである。
でもね…。
人にはそれぞれの事情があるんだ。

その年の早春、いつものベンチで私は一人、号泣していた。いや、吠えた、と言っていい。人目も憚らず(誰もいなかった)吐いても吐いても喉に迫り上がるどす黒い汚濁をどうしようもなく、呪うように哭き吠えた。
人は何か、誰かによってのみ、我、我が身を知る。
それまで知らなかった、自分の深奥に潜む激越な情動に衝動に打ち震え、その暗黒を呪うのだ。
と、すっと前をよぎる姿があった。いつも見かける庭師。
けれど私は吠えやめなかった。
どうでもいい、これが自分なのだから。

数ヶ月のち、私は透かし垣の手入れをする庭師たちの中に彼を見つけた。
そろそろ閉門という頃合いに、声をかけた。
「竹ってどうやって曲げるんですか?」
「ヴィトンの手提げの竹と同じです。火であぶって、塩梅を見ながら、ちょっとずつ、です。」
その眼差しも声も、とても優しかった。
ちょっとずつ。
その言葉が私の中で、リフレインする。

私の除夜の鐘は、ぐおんぐおんと盛大に鳴り響いた。
煩悩など、落ちるはずもない。
けれど家への道すがら、まだ誰かが鳴らしている鐘の音(ね)に、この年を除夜の鐘で終えられてよかった、と、すとんと思った。
ぐおんぐおんぐおんぐおん...。
鐘はそれぞれの想いの熱量・重量・質量で、それぞれの音声(おんじょう)を響かせる。
月や火星に人類が達しても、決して達することのできない領域があることを、それは教えてくれる。

(2023/1/15)