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小人閑居為不善日記|《すずめの戸締まり》を音楽映画として見る|noirse

《すずめの戸締まり》を音楽映画として見る
Suzume no Tojimari and Sweet Memories

Text by noirse

※《すずめの戸締まり》の内容に触れています

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《すずめの戸締まり》と《ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー》。この秋の話題を集める二大映画が、同日に公開された。後者は《ブラックパンサー》(2018)の続編で、主演のチャドウィック・ボーズマンの死によりいささか重苦しい印象も受けたが、それでも一定の支持を集めている。その理由のひとつは、これが「黒人が作った黒人のアメコミヒーロー映画」であり、同時にアフリカ回帰という意味合いが込められている点にあるだろう。

人はだいたいにおいてなんらかの拠り所を必要とする。その対象は国家、会社、地元の友人、家族、宗教と色々あるが、趣味でもいいし、フィクションでもいい、《ブラックパンサー》を通してアメコミヒーローとアフリカ回帰の一体化を体験するというのもアリだ。

そこでアニメーション監督新海誠の最新作、《すずめの戸締まり》だ。この作品にはいくつか論点があるので、うちいくつかを簡単に整理しておきたい。

まずは一点目。《すずめ》は東日本大震災を重要なトピックとする。新海はヒットした《君の名は。》(2016)や《天気の子》(2019)でも災害を扱ってきた。その背後には震災の影があったが、直接取り扱うことは控えていた。けれど新海は、震災の当事者でないことをうしろめたく思っていて、いつかは取り組もうと考えていたと述べている。

二点目は衰退化する日本、特に地方の現状を扱っているところだ。映画はロードムービー仕立てになっていて、特に前半は各地の人々との交流を通し、主人公すずめの成長を描いていくことに力点を置いている。

三点目は皇室という要素だ。すずめは各地を廻りながら「戸締まり」を行って地震を食い止めていくが、それは平成天皇が全国、とりわけ災害の被災地を巡っていたことを下敷きにしている。監督自身が準主役の宗像草太を「裏天皇」だと発言しているし、意識的なのは間違いない。

最後は、どのように生きる力を調達すればいいのかという問題だ。新海は初期の《秒速5センチメートル》(2007)で諦念を抱えつつも生きていくことを肯定し、高く評価されている。

《すずめ》には賛否両論あるが、概ね震災と皇室の問題が焦点となっている。しかしわたしが重視したいのは最後の問題、孤独な人間はどうすれば生を肯定していけるのかというテーマだ。皇室要素はその上に浮かぶ氷山の一角に過ぎず、極端に言えば震災という主題も、ひとつのファクターに過ぎないと思っている。

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新海にはオカルト趣味がある。《君の名は。》ではオカルト雑誌〈ムウ〉が出てきたり、《天気の子》がオカルトライターの話だったり。《星を追う子ども》(2011)に至っては「アガルタ」や「グノーシス主義」という言葉が飛び交う、オカルト趣味満載の作品だ。

皇室テーマも今まで通りの新海趣味の範疇で、突然新海が皇室に目覚めたわけではない。1974年生まれの新海が十代を過ごした80年代は伝奇小説全盛期で、《帝都物語》や半村良の《妖星伝》が人気を博したり、菊地秀行や夢枕獏が広く読まれた時代だ。

「裏天皇」と名指しされた宗像草太の祖父の声優を務めたのが松本白鸚なのも象徴的だ。白鸚の代表作は《ラ・マンチャの男》、要するにパロディ小説の古典《ドン・キホーテ》だ。新海が皇室という要素を「あえて」仕掛けていることが分かる(ついでに言えば宗像という苗字は1990年から始まった伝奇マンガ、星野之宣の「宗像教授シリーズ」を意識しているのだろう)。

注視すべきは、新海が何故オカルト要素を持ち出してくるのかという点にある。それは恐らく《ブラックパンサー》と同じ、拠り所を求める心情なのではないか。というと時節柄トランプだとかフェイクニュースなどの言葉が脳裏をよぎるが、新海はオカルトが好きでも、本気でのめり込むことはない。であればはじめから扱わなければいいのだが、しかしそうした存在に憧れずにはいられない。

違う観点から見てみよう。家族や小さな共同体から社会性を立ち上げようとする細田守と違い、新海は家族を生の拠り所にはしていかない。そのため《天気の子》はネオリベラリズムと批判もされたが、現実には家族や地元に馴染めない人も多くいる。

ただ新海は、自作がネオリベラリズムに接近し得ることも分かっていて、その上で今後どういった方向に進むべきか迷っているようにも見受けられる。今回も家族主義にシフトする寸前で踏み止まっていて、そうした曖昧さが《すずめ》を引き裂く弱点にもなっている。しかしこの、オカルトへのスタンスとも通じる宙吊り感も含めて、新海作品の長所だろう。それが何故か、歌という視点から紐解いていきたい。

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新海作品は歌が鍵になることが多い。《秒速》では山崎まさよしの〈One more time, One more chance〉(1997)が、《君の名は。》ではRADWIMPSの〈前前前世〉(2016)が使用された。歌詞が内容に即しているのはもちろんだが、映画の定石を捨て、PVめいた演出を施すことで、情感を引き上げていくようになっている。

しかしその十八番、《すずめ》では封印されている。代わりに目立ったのが、懐メロの存在だ。

《すずめ》では折に触れて懐メロが流れる。前半では神戸のスナックで、酔客がカラオケで歌う郷ひろみやチェッカーズ。後半では、被災者であるすずめが過去と向き合うため東北へと向かう自動車で、懐メロのプレイリストが再生される。

前者はともかく、後者の楽曲の歌詞はストーリーとリンクしている。〈夢の中へ〉(1973)の「探しものは何ですか」というフレーズはすずめが震災の記憶を取り戻すのと繋がっているし、斉藤由貴の〈卒業〉(1985)は、すずめが少女時代を「卒業」しようとしていることを物語る。

作中でも強調されたのは《魔女の宅急便》(1989)でも有名な〈ルージュの伝言〉(1975)だ。《魔女》はキキと女性たちとの出会いを通して生きかたを模索する話でもあって、《すずめ》がその方法論を踏襲していることを意味している。

さて、特に注目したいのが松田聖子の〈SWEET MEMORIES〉(1983)だ。

なつかしい痛みだわ
ずっと前に忘れていた
でもあなたを見たとき
時間だけ後戻りしたの

松本隆の手によるこの歌詞、震災による心の痛みを意味するとも取れるが、続く「ずっと前に忘れていたなつかしい痛み」となると、震災に絡めるにはふさわしくないと感じる。とは言え、そもそも選曲しているのは運転手を務めた大学生・芹澤であり、この曲がすずめの気持ちを代弁する訳ではない。ただ、その距離感こそが、《すずめ》という作品を適切に表してもいる。

《すずめ》の懐メロは70年代後半から90年代初頭にかけての楽曲で、現役大学生が聞くにはいささか古い。この選曲は、74年生まれの新海の趣味が反映していると考えたほうがいい。芹澤というキャラクターには、新海自身が投影されているのだ。

それはもうひとり、宗像草太にも当てはまる。時代にそぐわない長髪姿、80年代の伝奇小説の意匠。《すずめ》では、新海の心情が二人の男性キャラに分割されているわけだ。

新海のオカルト/伝奇趣味は宗像草太に仮託され、震災という主題に絡んでいく。震災へのアプローチには批判も多いが、けれど新海も、主題への踏み込みが半端なことはあらかじめ分かったのではないかと思うのだ。

新海は震災という主題に本気で取り組みつつも、没入し過ぎることにブレーキをかけたのではないか。言い換えよう。新海は、震災に限らず、社会問題に入れ込むことに慎重になっているのではないだろうか。

孤独な生は何かを拠り所にせずにはいられない。それは国家や家族、虚構と様々だが、そのひとつに社会問題へのコミットがある。社会に関心を寄せるのは大事だが、それが行き過ぎ、アイデンティティになってしまうと、時に危うさを孕んでいく。新海は震災に向き合いたいと考えると同時に、そうした危うさにも自覚的なのではないか。

こうした線の引きかたは、オカルトに没入しきれず線を引く、微妙なスタンスとも重なる。それは同時に、椅子になってしまったり、すずめが過去に対峙するのに手助けできない草太の半端なポジションにも表れている。

芹澤はどうか。芹澤はすずめの目的も背景も知らず、手助けだけして去っていく。被害に遭った東北の風景を見ても、「こんなにきれいな場所だったんだ」と言ってしまう芹澤の無関心さは、〈SWEET MEMORIES〉の選曲にも表れている。けれど新海の真の心情は、こうした距離感にこそある。

《すずめ》の懐メロの多くは、その時代を知らなくても、音楽に興味がなくても聞き覚えがあるような、有名な楽曲ばかりだ。多くの人の感傷を呼ぶ歌の向こうには、何がしかの共同体が鎮座しているとも言える。

前半の衰退する日本社会と後半の震災で、主題がうまく噛み合っていないという疑問もしばしば見かける。たしかにその通りではある。ただしこうも考えられよう。震災の記憶からすずめが帰還した時、目の前に広がるのは現実社会だ。その時すずめは、あの旅で体験した各地の人々や、その地の問題に再び向き合うことになるのだろう。前半の旅の真価は、後半の震災の旅の、その先で問われるべきものなのだ。

すずめは、酔客のカラオケにも、芹澤が流す懐メロにも、これと言って反応はしない。しかしこの旅からしばらく経って、あの頃を振り返る時、旅の過程で流れていた曲が懐かしく感じられるのではないだろうか。その時すずめは、二度と会うことはないだろう旅先の人々や芹澤に、ふたたび触れることができたとも言えるのではないか。そして懐メロが呼び覚ます共同体の中には、その歌が流行していた時代に十代だった、新海自身の姿もあるはずだ。

新海は今、何処へ向かうべきか逡巡している。それは彼の誠実さの表れだ。そうした理性の限界の突破口として、新海は音楽の力を借りている。《秒速》の孤独な生を代弁する山崎まさよしの楽曲も、それに共鳴する観客と繋がってはじめて意味を持つ。個と集団のあわいで揺れ動く新海の心情を象徴するのが作品で流れる歌なのであれば、《すずめ》で流れたメロディは、新海が今後進んでいく道を指し示す道標なのかもしれない。

(2022/12/15)

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noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中