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パリ・東京雑感|隠された悲劇 ウクライナ農民1000万人餓死|松浦茂長

隠された悲劇 ウクライナ農民1000万人餓死
In Ukraine, the Big Famine of 1932-1933, a Hidden Tragedy

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

 

ウクライナの飢饉犠牲者記念碑

あれはソ連崩壊の2年前だったろうか、ソ連帝国から離脱したいという独立の熱気が渦巻いていた共和国をじゅんぐりに訪ねたとき、リトアニアの青年が胸に手を当ててこう言った。「本当の歴史は本には書いてありません。スターリンは1000万人のウクライナ人を餓死させました。そのことは本ではなく、私たちの心から心へ語り伝えられているのです。」
1000万人餓死の物語(実際は400万人から700万人?)は、ソ連帝国のくびきからの解放を夢見る諸民族のあいだで、心から心へ秘かに伝承されてきたのだろう。
それはやがて、独立ウクライナ建設の礎石=伝説として歴史の表舞台に押し出される。オレンジ革命と呼ばれる2004年の政変後、ウクライナ議会はこれを「ジェノサイド」と規定する法律をつくり、1000万餓死者の記憶はウクライナ人ひとりひとりを固く結びつける祖国愛のかなめとして位置づけられる。2008年には欧州議会がウクライナ人餓死の出来事を「人類に対する恐るべき犯罪」であったと決議し、2018年にはアメリカ上院が、「ジェノサイド」と確認する。

道路に放置される餓死者

1933年9月13日、フランスのエドゥアール・エリオ元首相がソ連のオデーサからバルトまでの旅を終えてリヨンに到着した。(エリオ氏はリヨンの終生市長。)その時の模様を『ル・モンド』紙はこう振り返っている。

列車から降りるやいなや、一斉に質問が浴びせられた。「ウクライナで本当に飢饉が起こったのですか?」
エリオ氏の答えは「私はウクライナを縦断しましたが、そこで見たのは生産性の高い豊穣な農地、ゆけどもゆけども見事な収穫でおおわれた肥沃な黒土ばかりです。あなたがたは、あの国が悲しみに沈んでいるとおっしゃるのですか? 私は自分の目で見たことしか言えません。とりわけ悲惨だとうわさされる地方にも行きましたが、そこでも繁栄ぶりを確認しただけでした。」大政治家エリオの目は節穴だったのか、ソ連政府の隠蔽技術があまりに見事だったのか、飢饉のうわさは否定された。
この悲劇的経緯を、ソ連の作家ヴァシリー・グロスマンは、『万物は流転する』の中で取り上げている。

ある日、年取った男が道で拾った新聞の切れっ端をコルホーズ長に見せたのを思い出す。フランス人がウクライナに来た。名の知られた大臣だという。一番ひどく飢饉にやられたドニエプロペトロフスク地方、私たちのところよりもっとひどかった地方に行ったのだそうだ。あそこでは人が人を食うほどだった。大臣は村に連れて行かれ、コルホーズの保育園の子供たちに聞いた。「昼ごはんに何を食べたの?」子供たちはこう答えた。「鶏のスープとピロシキ(挽肉などが入った揚げパン)と米コロッケ」。自分の目でこんな記事を読むことになるとは! あの新聞の切れっ端、今でも目に浮ぶ。あれは一体なんだ? 何百万の人間を血も涙もなく殺しておいて、全世界をだます! 鶏のスープと書いてあった! コロッケだって! 彼らは虫を食ってたのに。

 

歩道に死体散乱

エリオ氏は2週間のソ連旅行のうち5日間ウクライナに滞在した。彼が訪問するまでに300万人から500万人が餓死したのに、何も見えなかった。なぜ見えなかったか、そのからくりを、歴史家イリーナ・ドミトリシンが説き明かしている。
エリオ氏が訪ねる街の通りから死体が<掃除>され、不幸の痕跡は消し去られ、店の棚には突如商品があふれ、ホテルは大急ぎでペンキを塗り直したためイヤな臭いがした……。
最高傑作は、キーウの聖ソフィア大聖堂訪問だ。エリオ氏はその時の感動を後にこう書き記している。

日曜日だった。高齢の大主教が、赤い縁取りをした金の祭服をまとい、微動だにせずミサを司式し、聖歌の歌声が聖堂に充満し、薄暗いアーチの下であわれな女たちの沈黙の祈りが続いた。

 

ところが、エリオ氏を感動させた「聖なる儀式」はすべてがウソ。ごまかしの技倆は完璧の域に達していたのである。
そもそもウクライナ独立正教会は1920年に解散させられ、大聖堂は倉庫として使われていた。エリオ氏来訪の数日前、倉庫の荷物は片付けられ、傷んだところはあっという間に修復された。参列した「信者」は、秘密警察の警官とその妻たち。にわか「大主教」は、2-3時間前にヒゲをつけて儀式に備えたという。

「ない」物を「ある」ように、にわか作りで見せかけるわざは、帝政ロシアの昔からあったらしい。モスクワで暮らしていたとき、ロシア人からよく「ポチョムキン村」という言葉を聞かされた。1787年、女帝エカテリーナ2世がタタールから奪い取ったクリミアを訪問する前に、女帝の寵臣グリゴリ・ポチョムキンは、映画のセットみたいな張りぼて村を建てさせたというのだ。クリミアの惨状を女帝の目から覆い隠し、豊かな領土を獲得したと思い込ませるための張りぼて村である。

ルーマニア公式バスツアーで農家に寄り道

ぼくが一番見事な「ポチョムキン村」を見たのはチャウシェスク時代のルーマニアだ。ブカレストには、パリのシャンゼリゼみたいにだだっ広い、異様に豪華な通りがあり、威圧的な白亜のビルが建ち並ぶ。1階は広々した店になっていて、美しい商品と美しい店員が見える。すると通りがかりのルーマニア人がスーと近寄ってきて「あの商品は買うことは出来ませんよ。外国の方がいなくなったら、商品も店員も消えてなくなります。」とささやいた。そういえばどの店も客の姿は見えない。なるほど、国際会議のために海外から記者たちがやって来たので、会議の間だけ「豊かな」ルーマニアを見せるのだ。それにしても外国人に見せるために、張りぼてならぬコンクリの大ポチョムキン通りを建設するとは!

保養地でくつろぐルーマニア人?

会議の合間に観光バスツアーが組み込まれていた。農村を走る途中、運転手がバスを止め、道路脇でサクランボを買った。物見高い記者たちも全員降りて、果物を売る農民の写真を撮る。でもあの農家、みょうにきれいだった。そうだ、恵まれた農村を見せるために、上手に仕組まれたポチョムキン農家だったに違いない。
最後に高原の保養地に行き、民族音楽を聞きながら食事となったが、高原でくつろぐあのルーマニア人たちは何だったんだろう。なぜか、皆おろしたてみたいな服を着ていたあの人たちは、本当に休暇を楽しんでいたのか、それとも動員されたのか? 山全体が壮大なポチョムキン保養村だったのでは?

ウクライナ飢饉を伝える当時の新聞

本題に戻ろう。ウクライナで飢饉が起こったとき、報道されなかったわけではない。イギリスやフランスの新聞にいくつか正確な記事がのったのだ。ところが、別の新聞にピュリツァー賞を受賞した大記者の「飢餓はなかった」と否定の記事がのり、無名記者の記事は信頼を失う。(大記者は丁重にポチョムキン村に案内されるのだ。)あるいは惨状を目撃した学者の貴重な報告も、左翼メディアから「ソ連共産主義への誹謗」と猛攻撃を受けたあげく、忘れられてしまう。
そもそもソ連一の肥沃な黒土地帯でなぜ飢饉が起こりうるのか? 理解するのが難しいニュースだったのだ。
悲劇の発端は1929年の5カ年計画。有能な農民数百万人の土地を奪い、シベリアに追放し、村人をコルホーズの労働者に変える一方、町には急ピッチで工場をつくる。コルホーズから収穫物を奪い取り、その穀物を工場労働者ら<革命の前衛>に食べさせるため町に送り(町には食物があるのに、飢饉の村には何も残らなかった)、さらに輸出して工業化の資金をかせごうというのである。ゴルバチョフは「コルホーズは奴隷制度だった」と言っていたが、自立した農民を奴隷化することで革命の敵を無力化しようという計画だ。ウクライナは伝統的に土地をもつ小農が多かったので、農業集団化への抵抗はとりわけ激しかった。その罪をスターリンは飢饉によって罰したのである。
5カ年計画による飢饉はカザフスタンなどでも起こったが、ウクライナでは毎日1万人から2万人が餓死する惨状になっても、救済の手は一切差し伸べられなかった。歴史家ニコラ・ヴェルトはウクライナ飢饉の特異性をこう指摘している。

1932年10月から1933年1月にかけてスターリン政権によるウクライナ農民締め付けは、ほかのどの地方よりも厳しかった。とりわけ、締め付けのカナメになったのが、村の封鎖である。農民は町に出て食物を手に入れることが許されない。これは死刑宣告を受けたに等しい。

ヨーロッパ、アメリカの人びとがウクライナ飢饉の報道を信じなかった根本的理由がここにある。<国家が自国民を殺すために意図的につくり出した飢饉>。まともな国の誰がこんなことを信じるだろうか?(しかもソ連の小麦は飢饉の最中もヨーロッパに輸出され続けていたのだ。)いまだ文明への信頼が生きていた1930年代のヨーロッパに、「スターリンがウクライナ人の餓死を企てた」と主張する人は皆無だった。

しかし、プーチンがウクライナのインフラを破壊し、ウクライナ人を凍え死にさせようとするのを目撃した私たち、文明衰退の世界に生きる私たちには、<スターリンがウクライナ人を殺すためにつくり出した飢饉>を信じるのは、そう難しくない。

(2022/11/15)