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中木健二&エリック・ル・サージュ|丘山万里子

中木健二&エリック・ル・サージュ

2022年10月15日  Hakuju Hall
2022/10/15 Hakuju Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供: Hakuju Hall

<演奏>        →foreign language
中木健二:チェロ
エリック・ル・サージュ:ピアノ

<曲目>
L・ヴィエルヌ: チェロとピアノのためのソナタ ロ短調 op.27
ベートーヴェン:チェロとピアノのためのソナタ 第3番 イ長調 op.69
~~~~
G・ルクー:チェロとピアノのためのソナタ (原典版/未完)

(アンコール)
ドビュッシー:チェロ・ソナタ ニ短調 より 第3楽章 フィナーレ

 

ベートーヴェンのソナタを挟むフランスもの、しかもさほど知られぬ作曲家ヴィエルヌとルクーとは。とにかく歌う中木と、彼の室内楽の師エリック・ル・サージュとのデュオという組み合わせにまず飛びついた筆者ではあったが、プログラムを見て唸る。この二人でなければ決してできない冒険。
ルイ・ヴィクトル・ジュール・ヴィエルヌはフランスのオルガニスト・作曲家・音楽教師。先天性白内障で盲目になったが幼少から楽才を発揮、とりわけオルガン即興演奏の大家として活躍、ノートルダムでの即興演奏中に死去している(1937)。今回のソナタにも随所にオルガンの響きを感じさせるものがあり、作品の堂々たる恰幅と持続の息の長さ、さらには多彩な音色の扱いにえも言われぬ不可思議な世界観を見る。こうした作品、在仏生活の長かった中木でこそなしうる選択であり、同時にル・サージュ共々それぞれの色彩感が織り上げる繊細な響きの綾にも感服した。

だがとにかく、圧倒されたのは後半のルクーだ。
ベルギー生まれのルクーは15歳から作曲を開始、パリで学んだが24歳の若さで没している。
前半終了時の中木のMCによれば、彼も一度しか実演を聞いたことがなく、自身、これが初めての演奏とのこと。またル・サージュはルクーの死について、デザートのチーズに当たったゆえ、気をつけよう、みたいなことを言って笑わせた。ステージで仏語でやりとりする二人に(中木が通訳)、日本の音楽家の国際化をしみじみ思う。腰掛留学やお弟子止まりでない「音楽仲間」としての姿をステージで見るのは、そうそうあるわけではないのだ。選曲にもそれが表れているともう一度言っておく。
当日は未完の原典版が奏されたが、長大な4楽章ソナタ。それぞれの楽章に詩句がついており、それがステージ背面に映像で紹介された。
まずはシャルル・ボードレール『悪の華』より2楽章。

《第1楽章》
心は陰鬱な夢に満ちて

不穏にのびあがってくるvcのソロから開始。いかにもAdagio malinconico のまさに陰鬱に、pfがいきなり降ってくる。ある種、破壊的な音楽。pfの雄弁さに圧倒される一方でvcも埋もれることなく激しい情念を燃え立たせる。と思えば、コラール風の調べが静かに流れ、と思えばザクザク刻まれるリズムなど、そのシーンの切り替えの変転の大きさ、落差、語りの独特さにこの楽章だけで振り回される感じになる。一筋縄ではゆかない。しかも2つの楽器の応酬の絶妙、互いを引き裂いたり寄り添ったり、歌ったり爆発したりのアラベスクに目眩む思い。陰鬱な夢を遠く描きながらもそこへの耽溺や沈潜を決して許さない、痛覚を伴ったこんな空恐ろしい物語があるかしら。ボードレールの高笑いが聴こえるようだった。
ベルリオーズをふと思い出す。

《第2楽章》
それは苦々しく、また甘美なこと
冬の夜、ぱちぱちと跳ね煙る火のそば、
霧の中で歌う鐘の音によって、
ゆっくりと立ち昇る遠い記憶の数々に耳を傾けるのは

pfとvcが爆ぜる。跳ね、でなく、炎の下で小さく爆ぜる。どこか郷愁を帯びた旋律に誘われ目を閉じると、目覚めよ!と背中をどんどん叩かれる。鐘の音?霧の中で歌う?
なるほど記憶の底からのぼってくるものはいつでも、苦く甘い。

《第3楽章》
嘆きの母
トマス・ド・クインシー『深き淵よりの嘆息』よりの楽章

pfソロが静謐な楽音をぽろぽろとこぼす。しずくから流れ落ちる小さな歌。誘われてのvcのモノローグLento assai。優しく縁取るpf。あるいはキラキラと高空で瞬くpfの星の光を受け、小声で流れるvcのせせらぎ。透明に輝くエレジー、ときどき、子守唄だ、と思う。
もっとも、このクインシー、一癖も二癖もある人で、アヘン常用者。『阿片常用者の告白』にその体験を書き、ボードレール、ベルリオーズらに影響を与えたとか。

《第4楽章》ギョーム・ルクーよりの楽章
君は私に選ばせたのだ
日の光の輝きよりも
夜の苦悩を

Epilogue:Allegro assai。pfの低音の深い響きとvcのくぐもった声が底光りする。未完版の演奏だけれどちゃんと終わりますよ、との中木の説明だったが、pfオクターブの連打が耳を撃つ、vcの巌がそそりたつ。と、ぷつん途切れたいわば音の断崖絶壁に息をのむ。
物事の終わりとは本来、このように突然なのだ。そう、胸を射抜かれた。

聴き終えて思う。この作品に通底する暗鬱、退廃の匂い。ボードレールの時代とそれから。
「モダニティ」とは、どんな時代にあっても(当たり前だが時代には常に後景前景があり、それらは繋がりつつ永遠の追いかけっこを続けるのだから。生まれいで、成熟し、腐り、溶ける。歴史もまたその循環に他ならない)とどのつまり、時々の鬱病に他なるまい。その症状を真っ先に世間に晒すのが他ならぬ詩人であり、音楽家なのだ、と言えば、このソナタの全容を語ったことになるのではないか。
中木とル・サージュが私たちに読み聞かせたのは、そのドラマ。若きルクーが取り憑かれた悪の華の美を、彼らは実に透明な凄みの中に語り尽くした。透明、が何より肝心なところで、知情意の三者が見事にコントロールされてはじめて、混沌は明澄な語彙と文脈へと形象化・音楽化されるのだ。
こういうパフォーマンスこそが、私たちの標(しるべ)となろう。
改めて両者に喝采を贈りたい。

最後に、ボードレールの『芸術家の告白誦』より一節を引いておく。

「今や蒼空がその無窮の故に私を自失させ、その明晰の故に私を苛立たせる。海の不感無覚、風景の不動の静けさに私は反抗する....。ああ、永遠に、苦しまなければならないのか、それとも永遠に美から逃れて行かなければならないのか? 自然よ、無慈悲な魔女よ、常に私を打ち負かす競争者よ、放っといてくれ! 私の願望を、私の矜恃を。この上誘惑することをやめてくれ! 美の探究とは、芸術家が敗れ去る前に恐怖の叫びを漏らす決闘なのだ。」(『パリの憂愁』岩波文庫/福永武彦訳)

(2022/11/15)

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<Artists>
Violoncello : Kenji Nakagi
Piano : Eric Le Sage

<Program>
L.Vierne : Sonate pour Violoncelle et Piano si-mineur op.27
Beethoven : Sonata für Violoncello und Klavier No.3 in A- dur op.69
G.Lekeu : Sonate pour Violoncelle et Piano(urtext/ inachevée)

(Encole)
Debussy : Sonate pour violoncelle en ré mineur 3e mouvement finale