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東京都交響楽団第958回定期演奏会Bシリーズ|齋藤俊夫

東京都交響楽団第958回定期演奏会Bシリーズ
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra Subscription Concert No.958 B Series

2022年9月9日 サントリーホール
2022/9/9 Suntory Hall
Revied by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by ©堀田力丸 /写真提供:東京都交響楽団

<演奏>        →foreign language
東京都交響楽団
指揮:大野和士
ソプラノ:小林厚子
アルト:山下裕賀
テノール:福井敬
バス:妻屋秀和
オルガン:大木麻理
合唱:新国立劇場合唱団
合唱指揮:冨平恭平
コンサートマスター:矢部達哉

<曲目>
ドヴォルザーク:交響曲第5番 ヘ長調 Op.76
ヤナーチェク:グラゴル・ミサ(1927年第1稿)
  I Intrada(イントラーダ)
  II Úvod(序奏)
  III Gosodi pomiluj(キリエ/主よ、あわれみたまえ)
  IV Slava(グロリア/栄光あれ)
  V Věruju(クレド/われは信ず)
  VI Svet(サンクトゥス/聖なるかな)
  VII Agneče Božij(アニュス・デイ/神の子羊)
  VIII Vahany solo(オルガン・ソロ)
  IX Intrada(イントラーダ)

 

ドヴォルザーク交響曲第5番、見知らぬこの作品を聴くにあたって筆者はあえて事前に勉強などせずに今回の大野和士・都響の演奏に臨んだ。俗に通俗名曲と呼ばれる交響曲第8番、第9番、これらよりはマイナーだけど押し出しの強さでは負けていない第7番、は当然知っているが、第5番となると「アタリ」か「ハズレ」か定かではない。「アタリ」ならば当然良い体験だし、「ハズレ」だとしてもそれはそれでオモシロイことになる。そんな宝くじ的体験を味わうためには予習など野暮、と考えたのである。
結果:かなり大きな「アタリ」、であった。
第1楽章、華やかではないか! ドヴォルザークが心酔したブラームスより、もう少し前のシューマンら前期ロマン派の交響曲に近い気がするが、ドヴォルザークの方が精神的に健やかでまっすぐで迷いがない。田舎の少年の純朴さをそのままに大人になったような。普段晦渋な現代音楽に慣れている筆者のような人間はこういう純朴さに滅法弱い。
第2楽章、弦楽がヒューマンに歌う。短調だが悲愴感はない。やはり純朴だ。短調から長調に転じてののどやかな音楽に心洗われる。ドヴォルザークの旋律や良し。
第3楽章はドヴォルザーク的、東欧的舞曲。田舎のお祭りか結婚式かという雰囲気。心からの喜悦を表にあらわして全く恥じることがない。良いなあ。
第4楽章、これまでもドヴォルザーク節が其処此処で発見できたが、この最終楽章が最もドヴォルザーク節全開である。前半にトゥッティで押し寄せるフォルテが実に心地良い。音楽の盛り上げ方が第7、8、9番交響曲と全く同じであるが、それで良いではないか。中間部の優しさもまたドヴォルザーク。後半に金管が吠えるのもまたドヴォルザーク。ラストのめでたさもまたドヴォルザーク。ドヴォルザークってやはりドヴォルザークとしての個性がしっかりと存在する作曲家なんだなあ、と確認させられた、愛すべき名品であった。

クラシック音楽史上の鬼子を挙げよ、と言われたら筆者はまずヤナーチェクを挙げるだろう(他にはアイヴズ、クセナキスか?)。学生時代、畏友に『グラゴル・ミサ』を聴いてくれ、と言われて聴いたら、謎の旋法に変拍子にポリリズムに古代スラヴ語、こんな音楽があったのか!と度肝を抜かれた。そんな憧れの怪曲が生で聴けるならばこれに行かない理由などなく、いそいそと馳せ参じたわけである。
まず今回演奏された第1稿では冒頭と最後に置かれたIntrada(イントラーダ)、この曲は筆者が今まで聴いていた改訂稿では冒頭から削除されており、最後だけになっている。いきなり謎旋法に変拍子にポリリズムが怪光を放って押し寄せるのが物凄く眩しい。また、なるほど、この曲が呼び水となって幕開けして、最後も締めるという形式の方が構造的論理がしっかりしている、と感じられた。
Úvod(序奏)、3、5、7拍子のポリリズムに基づくファンファーレ。序奏の時点で既にとんでもないが、それでいて奇を衒ったところがなく自然体なところがヤナーチェクの凄いところだ。大野和士・都響もまた肩の力を抜いて音楽と一体となりつつ演奏している。
Gosodi pomiluj(キリエ/主よ、あわれみたまえ)、なんと神秘的でなんと美しいことか。オーケストラも合唱もソプラノ(小林厚子)も。だが演奏を聴いても大野の指揮を見ても拍節が全くとれない。どれほど難しい作品だというのか。
続いてのSlava(グロリア/栄光あれ)も前曲と同じく天上からの声のようなソプラノソロ、会場を包み込む合唱がキリスト教徒でない筆者をも敬虔な気持ちにさせる。そこにテノールが参入し、最後は”Amin”の繰り返しで終わるが、「アーミンアーミンアーミン」と重ねるのがユーモラスに聴こえた。
Věruju(クレド/われは信ず)、まずテノール福井敬の張りのある歌唱が心を捉える。密やかな東欧的オーケストラが心を安らげる。次第に楽器が重なっていき、ティンパニー3人合奏、オルガン独奏などヤナーチェクでしかありえない管弦楽法が展開していく。ラスト近くのテノールとバス妻屋秀和の輝かしさを競い合うような歌唱の素晴らしいことときたら! そしてまた「アーミンアーミン」の繰り返しで終わる。
Svet(サンクトゥス/聖なるかな)、テノールとバスと合唱とソプラノとアルト(山下祐賀)と、要するに歌唱陣総出で神を讃える。しかしなんというポリリズムとオスティナート(反復)であることか。大野がどうやってこれを采配し制御しているのか不思議極まりない。
Agneče Božij(アニュス・デイ/神の子羊)ひそやかに奏でられる弦楽。その上に歌手4人が神を讃える歌を重ねる。神という存在は不可解だが、その神を巡る人間の営みはかくも美しい。
皆に讃えられた神が喜んで嵐を吹かせたがごとくに荒々しく吹きすさぶVahany solo(オルガン・ソロ)。そしてIntradaが再度演奏され、グラゴル・ミサ堂々の終幕である。

ボヘミアのドヴォルザークとモラヴィアのヤナーチェクが、約50年違いで書いた2作品、それぞれ単純素朴と複雑怪奇と表面的な相違はあるが、どちらも心にまっすぐ届いてきた。音楽の持つヒューマニティへの信頼を一層強くすることができた素晴らしい演奏会であった。

(2022/10/15)

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<players>
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
Conductor:Kazushi ONO
Soprano:Atsuko KOBAYASHI
Alto: Hiraka YAMASHITA
Tenor: Kei FUKUI
Bass: Hidekazu TSUMAYA
Organ: Mari OHKI
Chorus: New National Theatre Chorus
Chorus Master: Kyohei TOMIHIRA
Concert master: Tatsuya YABE

<pieces>
Dvorřák:Symphony No.5 in F major, Op.76
Janáček: Glagolitic Mass (1927 first version)
I Intrada
II Úvod (Introduction)
III Gosodi pomiluj (Kyrie)
IV Slava (Gloria)
V Věruju (Credo)
VI Svet (Sanctus)
VII Agneče Božij (Agnus Dei)
VIII Vahany solo (Organ solo)
IX Intrada