Menu

三つ目の日記(2022年8月/9月)|言水ヘリオ

三つ目の日記(2022年8月/9月)

Text by 言水ヘリオ(Kotomiz Helio)

 

捨てられず集めているもの。包装紙、瓶、アイスの棒、ティーバッグの糸、トイレットペーパーの芯、食品用ラップの芯、ペットボトルのキャップ、ゾロ目のレシート。包装紙はぐしゃぐしゃになっていたのを広げてたたんで保管。アイスの棒はなにかに使えそうな気がするのと、一度口に入ったものというところに注目している。トイレットペーパーの芯はじゃまになりいったん廃棄した。

 

2022年8月1日(月)
約30年ぶりにエリック・ロメール監督の『獅子座』を見る。レコードに針を落とす場面と最後の場面しか覚えていなかった。当時、パンフレットを読んで、レコードから聞こえるのがベートーヴェンの弦楽四重奏曲と知り、CDを購入して聞いた。もっとも、映画で流れたのがどの曲のどの部分かわからなかったし、そのCDの演奏自体が好きではなかった。最近入手した別の録音のCDを聞いて映画の部分を特定し、繰り返し再生する。第15番の第2楽章の、なんという言い方をするのかわからないけどちょうど真ん中あたり。

 

8月15日(月)
正午。川辺の一室に玉音放送が流れる。それまでの話し声が止む。皆が立っていたのか座っていたのか、目を開いていたのか知らない。自分はそこにあった飯島耕一の『冬の幻』という本を拾い読みしていた。その後、金メダルを首からさげて写真を撮ってもらったり。

 

8月20日(土)
『空白と責任 戦時下の詩人たち』(櫻本富雄、未来社、1983年)を読む。なかったことにする人。斜めを向いて擁護する人。思い立ち「赤松俊子」で検索すると、1942年〜1944年に装幀・挿画を手がけた本が何冊かみつかった。

 

8月25日(木)
うらわ美術館で「うらわ美術館開館22周年 芸術家たちの住むところ」の後期展示を見る。浦和に集った芸術家たちの作品や資料が展示されている旨がチラシに記されている。順路後半、瑛九の油彩の大きな絵の前で立ち止まる。すこし離れて、点描の色の粒につつまれる。出口まぎわ、福田尚代の作品が数点。刺繍の施された本のページを何度も読む。帰宅して、出品作家の一覧を確認する。跡見泰、瑛九、奥瀬英三、小沢剛、加藤勝重、金子徳衛、鹿子木孟郎、倉田白羊、小林真二、小松崎邦雄、斎藤三郎、櫻井英嘉、里見明正、重村三雄、杉全直、須田剋太、相馬其一、高田誠、武内鶴之助、田中保、津久井利彰、寺内萬治郎、富本憲吉、内藤四郎、永田二郎、野島康三、林倭衛、林武史、福田尚代、福原霞外、増田三男、安井曽太郎、四方田草炎、渡邉武夫(前期・後期通して)。以上34名中、女性は1名しかいない。前期展示の出品作家ははすべて男性。これはなにかを示しているだろうか。この展示の企画者はこのことをどう考えているのだろう。

 

8月31日(水)
図書館で借りたマーヴィン・ゲイのCD。15日、玉音放送が終わり、すぐに聞こえてきたのは「WAHT’S GOING ON」だったのか、「SAVE THE CHILDREN」だったのか、「MERCY MERCY ME」だったのか。別の曲かもしれないし、記憶はあいまいになっている。空は白かったということが、撮った写真に記録として残っている。

 

9月3日(土)
数日前に訪れたとき、「また来ます」と作者に告げ会場を出た。次の展示にまた来ますというつもりだった。だが、この会期中にもう一度来るという意味にもとれる発言を、どうして自分はしただろう、とずっと気にかかっていた。自分で自分の行動を予言したにすぎなかった。今日、ふたたび会場にいる。
中空のダクトを、作者がかつて着ていた衣服が覆っている。そのかたわらに、より太いゆがんだ中空のダクトがむき出しになっている。近づき、覗き込み、作品のまわりを移動していく。端から一周すると、その先は狭まっていて、通過するのは難しそうだった。向きを変え、戻るように移動する。離れる。近づく。視覚をたよりに、位置を変えることで、作品と自分との間ができあがっていくような時間が流れる。衣服の、シャツのボタンがはまっていたりする。裏返しになっているセーター。すこし下ろしてある上着のジッパー。ダクトに巻きついたレースのカーテン。履いているときのようにボタンが閉まり、裾をくるっと折ってあるジーンズ。温かそうな毛糸のものがけっこうある。全体におちついた色合い。なにか、感じていることがある。それがなにであるかはわからない。
空間の隅に、コの字型の、似ているが形状の異なる小さな椅子がふたつ置かれている。聞くと作者が座るためのものであるという。

 

 

カプセル─脱皮─ 康世
藍画廊
2022年8月29日〜9月3日
http://igallery.sakura.ne.jp/aiga886/aiga886.html
●「カプセル─脱皮─」 自分が着た服、ダクト サイズ可変

 

9月9日(金)
近く解体されるという古い雑居ビル。そのなかの、複数の空間のある会場での3つの個展。壁に絵が展示されているのは、田中秀和の「測量としての線と辿々しい線」。四角形を区切る線、あらわれる図形のような形態、絵具の隙間や下に垣間見える向こう側の層と絵具のない面、「辿々しい線」らしきもの。入口上方には急勾配の木の板に陶器の鳥がとまっている作品。そのタイトルを確かめると「直方体と啄木鳥のオブジェ」となっており、細長く厚みのある木の板を直方体としている。
向かいの部屋には、入口から対角線上に木の板の台が備えられ、その上に石が並んでいる。石井琢郎の「Always moving」。石に近づいて眺めていると、ひびや穴があり、中が空洞になっているのがわかる。この石の彫刻は、内部が彫られていて、外側はそのままに残っている。石の付近の台上には鉛筆でなにか書かれている。部屋が暗いこともあり、すべてを読んだわけではない。石を採取した年と場所、および石が作品として完成した年月日が記されているようである。記述はほかにもあり、石を拾う川のこと、川の様子の変化について、なども記されていた。
奥の部屋に入ると、大きな写真が目に入る。木々に囲まれた、立ち枯れて上部のない太い木の幹が中央に写っている。海保竜平の「幽邃」。周りには、森の中の倒木が写っている写真が数点。その部屋から繋がるロフトのような空間にはスライド映写機が置かれ、時間をかけて朽ちて地に積もっていくであろう横たわった枯れ木の風景をいくつも映し出せるようになっている。最初に目に入った大きな写真の、枯れた後も縦のまま立って朽ちていくというあり方を、あらためて眺める。

 

 

 

 

アズマテイプロジェクト#31 Always moving|幽|測量としての線と辿々しい線 石井琢郎 海保竜平 田中秀和
アズマテイプロジェクト
2022年9月2日、3日、4日、9日、10日、11日
https://azumateiproject.com/31-always-moving-幽邃-測量としての線と辿々しい線/
●田中秀和 測量としての線と辿々しい線(上)
●石井琢郎 Always moving(中)
●海保竜平 幽邃(下)
撮影者:海保竜平

 

9月18日(日)
作品と作者とのかかわりがどういうことであるのか、に関心をいだき見ていたのだと振り返って思う。自らの、日々の行動範囲内での山や湖、川辺の樹木などの風景を描いている。対象と描き手を取り巻く空気を視線が通る。視線は戻ってくるだろうか。そして次の視線が発せられ……。空間に不可視の線が織られ風がそれを引っ張る。感知したからだが手で描く。作者は、見ている。
あるいは自らの、身の回りにあるものを描く。対象と描き手、どちらが支点として留まっているわけでもなく、目の前にあるということが浮きつ沈みつする。触れられるはずのものを触れずに把握し、距離をそのまま保つときの対象との関係。
そのほか、壁に展示せず、箱の中に重ねておさめられた筆の跡のような小さな絵。

 

 

在るということ 川﨑美智代展
ギャラリーブリキ星
2022年9月17日〜9月23日
https://blog.goo.ne.jp/gooawahi/e/34a834015f2bb010d9c13e2a1f40e269
●「波」 2022年 24×34cm パネルに麻布、膠、アクリル絵の具、木炭、オイルパステルなど(右)、「荒神山」 2021年 40×55cm 紙に水彩(上)、「荒神山」 2021年 28×40cm 紙に水彩(左下)

 

9月21日(水)
案内状に「他人の筆跡を書き写し、並べていくことを通して」という一行がある。三方の壁に展示されているのは、手紙やはがきの筆跡を書き写したと思われるもの。一点一点読む。筆跡を書き写す際、同時に内容も写っているだろう。見ていくと、文面、ことばづかい、字の癖、書き方などから、もとの書き手は、まず一人いて、その人へ書く二人がいるようであった。これら作品の作者は原本を見てその筆跡を再現するように書いたのか、下に原本を敷いて上からなぞるように書いたのか、判断はつかない。筆跡と文字の配置を書き写しているのは便箋やはがきサイズの紙ではなく、より大きな紙にであり、余白が広くとられている。

透明のボックスの上面に、極小の文字の書かれた薄い紙が乗っている。その直下、ボックスの中の紙には、薄い紙に文字を書く際その下に敷かれていて残ったのであろう筆圧による痕跡。そして照明により影が重なっている。

作者によれば、手紙は作者の友人がかつて二人の祖母とやりとりしたものであるという。書き写す際にはもととなる手紙を見ながら、同時にそのコピーを紙の下に敷いてなぞっている。また、極小の文字は、公園に野宿していた「小山さん」という方が遺したノートの内容の一部分で、鏡文字になっているとのことであった。

 

 

藤本なほ子作品展「のこらないもの」
HIGURE 17-15 cas
2022年9月17日〜9月30日
https://nafokof.net/news/news2022-01/

 

9月27日(火)
「のこらないもの」をもう一度見にきた。むこう側から読むとき、鏡文字で書かれているから読める。ふだん文字を書くとき、こちら側から読むことを前提にしている。だからむこう側から見れば、いつも鏡文字を書いていることになる。自分のなかの鏡文字の書き手は誰なのか。肉眼で読むのが困難なくらいの極小の文字。拡大することのほかに、小さくなってそこを訪れるという方法もあるのかもしれない。そして辿っていく。

(2022/10/15)

———————————————————-
言水ヘリオ(Kotomiz Helio)
1964年東京都生まれ。1998年から2007年まで、展覧会情報誌『etc.』を発行。1999年から2002年まで、音楽批評紙『ブリーズ』のレイアウトを担当。2010年から2011年、『せんだいノート ミュージアムって何だろう?』の編集。現在は本をつくる作業の一過程である組版の仕事を主に、本づくりに携わりながら、『etc.』の発行再開にむけて準備中。