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札幌交響楽団 森の響(うた)フレンド札響名曲コンサート「下野竜也の三大交響曲」|多田圭介

札幌交響楽団 森の響(うた)フレンド札響名曲コンサート「下野竜也の三大交響曲」

2022年9月3日 札幌コンサートホールKitara
2022/9/3 Sapporo Concert Hall Kitara
Reviwed by 多田圭介(Keisuke Tada)
写真提供:札幌交響楽団

<出演者>        →foreign language
指揮:下野竜也
管弦楽:札幌交響楽団
コンサートマスター:田島高宏

<プログラム>
シューベルト:交響曲第7番「未完成」
ベートーヴェン:交響曲第5番
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

 

<下野竜也の三大交響曲>と銘打たれた札響の主催公演「森の響(うた)フレンド札響名曲コンサート」を聴いた。「三大交響曲」は、「未完成」、「運命」、「新世界より」の3曲。クラシック音楽が日本で定着しつつあった戦前から20世紀の終わり頃までよく見られたプログラムである。だが最近はすっかりお目にかかることはなくなった。下野はとにかくプログラミングに凝ることで有名な指揮者である。その下野が三大交響曲。直球なのか変化球なのか。このプログラムの向こうに下野の世界観が複雑に透けて見えてこよう。

面白いもので「三大〇〇」という括り方は、洋の東西、古今を問わない。例えば、三冠王、ビッグスリー、三賢人、御三家。だが、どうもこれは人間固有の物事の見方らしい。自然のほうはといえば、ほぼ例外なく「3」ではなく「2」。陰と陽、電極はプラスとマイナス、磁極はSとN、遺伝子も2対。三大〇〇、「3」という観点には、世界に、自然界には存在しないなにか「偉大なもの」や「高級なもの」を認めようとする人間の知性が働いているように感じられる。

さて、今の時代、「偉大なもの」や「高級なもの」などという表現を安易に使うと眉をひそめられる。子どもの頃から「人それぞれ」がよいことと親や教師から教えられるようになって久しい。「これは高級」などと言おうものなら、「そんなの人それぞれでしょ」と嫌な顔をされるのが今の時代だ。実際、高級品によって自分を粉飾したがる人が「大衆的迎合的な市場やネットワークは人間の欲望や文化を画一化してしまうので、ハイカルチャー的な創造性を堅持しながらその流れに抵抗しなければならない」などと言おうものなら、「そんな「常識」を振りかざして気持よくなっているあいだに、そんな常識では捉えきれない文化が溢れてしまったのが今の文化空間である」と、しごくまっとうな反論を受けて黙るしかない。消費者の欲望に効率的に応えることに徹した結果、消費者の欲望そのものさえ書き換えてしまうという現象はいまや珍しいものではないからだ。

クラシック音楽には権威がある、歴史がある、高級なんだ、などと言っても人並みの繊細な知性があれば、おそらく同じような異を唱えるのではないか。だが、市場を切断して自己の内面に深く潜らなければ見えないものが「ない」とまでは言えない。もう少し言えば、それが市場の欲望に応えることと単純に対立するわけでもない。下野が、この「三大」というタイトルをいま敢えて掲げようとするのはなぜか。その背景には、クラシック音楽が持つ(と信じられていた)権威性、高級感、偉大さ、を市場の要求に応えつつ復権させようとする意志があるのではないか。もちろん、賢明な下野が自分で「クラシックは高級です、だから皆さん聴いてください」などと言うはずがない。だが、このプログラムにはこうした射程の長い思考が潜んでいるように思えてならない。

下野が市場の要求に応えるのは音楽面だけではない。当日は開演前に下野によるプレトークがあった。出演者が開演前にチョロッとお喋りをして面白い内容になることはあまりない。たまにあっても、ごく一部の人にしか分からない内容になりがちである。だが下野はどうか。彼が言葉を発すると、客席の全ての人がその言葉に耳を傾ける。老若男女、初心者からコアなファンまで、皆が笑い、頷く。下野は全方位的な市場の要求に応える。そしてトークの最後にお辞儀をすると同時に予ベルが鳴った。その瞬間、身震いを感じた。時間も完全にコントロールされている。まさに一分の隙もないのだ。

この「隙のなさ」は下野の音楽の特徴でもある。彼はN響や読響を指揮するときと比べて、札響を振ったときは比較にならないほど雄弁になる。色々理由はあろうが、相性も相当にいいのだろう。ここ数年、下野が札響を振るとオケは普段とは段違いに精妙なフォルムを見せる。清潔で明瞭な見通しのよさが一貫し、流れが鈍重になることも決してない。そして、余計な音がもう一つとして入り込む隙がないような、そう、まさに下野本人の無駄のない知性そのもののような音楽を奏でるのだ。

殊に声部のコントロールは卓越している。下野ほど、異なった要素の拮抗、重なり合いを簡単(そうに見える)に表出する指揮者は少ない。札響に頻繁に出演する指揮者でいえば、広上や川瀬も声部のコントロールは巧い。彼らも、伴奏と旋律を丁寧に区別し、全体からいま聴くべきパートを見事に浮かび上がらせる。だが、下野のように異なった複数の要素を浮かび上がらせ、その拮抗を明晰に音にすることは、彼らとてそうはない。下野が聴き慣れた作品から驚くような複雑さ、多様性を引き出すのはこのためだ。当日のプログラムは三大交響曲。プログラムに戻ると、泰西名曲が並ぶこのプログラムでこそ下野のこうした美質が生きることとなった。

演奏の内容にいくつか触れよう。まず1曲目は「未完成」。まるで、CGでデザインされたかのようなフォルムが出現した。最初の低弦の主題を(昔よくあったように)思い入れたっぷりに歌うことはしない。ダイナミクスも一貫してスコア通りのpp。個人的な感傷が入る余地がないほど整然としている。だが造型への強固な意志がたしかに聴こえてくる。それが決して緩まない。スコアの読み方にもその理由がある。

古くからシューベルトの「>」の記号はdim.なのかアクセントなのか判然としないという解釈上の議論を呼んできた。だが、90年代にペーター・ギュルケが編纂した全集が出版されて以降、徐々にではあるが、アクセントに統一されてきた感がある(全部ではない)。下野は、そのほとんどの箇所をアクセントで一貫させ、所々でかなり強い解釈を施した。強い緊張が一貫して聴こえたのにはこういう背景もある。

それが顕著だった箇所を一つ挙げると、第一楽章の最終和音。シューベルトの「>」は、記号が付されたパートだけではなく、その他の楽器もアクセントであることが多いのだが、箇所によっては、その前後の音符もアクセントだと考えられている。第一楽章の最終和音は2小節にまたがっており、その最初の音にのみアクセントが付されている(ギュルケ校訂版では)のだが、下野は次の小節の同じ和音にももう一度かなり強くアクセントを付け、第一楽章をスパッと切り上げた。解釈上、あり得なくはないのだが、初めて聴いた処理で斬新だった。当然、音楽の印象は決然とする。

第二楽章でも、例えば音楽が最初にフォルテになる32小節。ここはスコアでは3拍子の2拍目からフォルテだが、下野は1拍目からフォルテで弾かせた。俄然、意志的に響く。提示部の推移が始まる111小節には驚いた。この楽章全体を支配するシンコペーションの伴奏音型が丸裸になる箇所。2nd.Vn.とVaによるD-Fis-Aの三和音。ここで、かつて聴いたことがないほど虚脱した不気味な音がした。一回聴いただけで確認したわけではないのだが、根音のVaのDを開放弦で弾かせたのではあるまいか。しかも、Vaだけシンコペーションではなくタイで、つまりロングトーンで、そして上の2nd.Vn.のFis-Aを楽譜通りにシンコペーションで弾かせたのではあるまいか。そうでもしないかぎりあんな音はしない。

この伴奏の音型はシューベルトにとって特別な意味がある。例えば、弦楽五重奏曲D.956の第二楽章で、満たされたホ長調が突如断ち切られ宙吊りになる箇所でもこの音型が裸出する。未完成の同箇所を聴いてここを思い出した。あるいは、ここではD.956に匹敵する虚無が顔を覗かせているのだと気づかされた気がした。個人的な感傷を排して、徹底して造型を鍛え上げたからこそ、個人を超えた世界の深淵が口を開いたのだ。

続くベートーヴェン「運命」。引き締まった、曇りなき燦然たる建築物。ここでも感傷が入り込む余地はない。すべての音が指揮者の手の内にある。指揮棒と音が直結している。歌うべきところはよく歌い込まれているのだが音響がパリッと冴えており脂っこくなることが決してない。見通しよく様々な音が耳に飛び込んでくる。フレージングや音響の構成が緻密だからこんなことが起こるのだ。本当に知的なベートーヴェンだった。休憩をはさんで「新世界より」はさらに凄味を増した。

「新世界より」も理知的。一切「溜め」を作らない。淀みなく流れる。にもかかわらずサラサラと味気なくなることがない。至芸だった。第一楽章の冒頭、一つ一つの磨き上げられた和音の連なりが徐々に色合いを変える。ごく透明で明晰。魔法のような効果を生む。9小節から始まるffのユニゾンが凝縮されている。だが、音が整理されており濁らない。続く19小節からの減7によるシンコペーションで反復されるゼクエンツが研ぎ澄まされている。ここを聴いて、ちょうど一ヵ月前に下野が札響を振ったブラームスの交響曲第一番が想起された。下野は8月にもバーメルトの代役で札響に出演していたのだ。そのときにも第四楽章(ブラームスの交響曲第一番の)の27-29小節に出てくる減7のシンコペーションのゼクエンツの響きの構成の見事さに唸ったのだった。「新世界より」の同箇所を聴いた瞬間、筆者の頭の中で完全にそれが重なった。この2曲のこの箇所はまったく同じ和声とリズム。ドヴォルザークという作曲家は通常思われているよりずっと西側の伝統に根ざしている。いや下野の演奏だとそう聴こえるといったほうが正確か。第四楽章にも目を瞠らされた。ことに、ゆったりした箇所での、複数のパートの生き生きとした重なり合いは、あまり聴いた記憶がないほどだ。たんなる伴奏(と考えられがちな)音型が生気を帯び、音楽に複雑な彩りをもたらす。一瞬たりとも飽きさせない。一貫して快速なのだがすべてがゆっくりと確実に視界に飛び込んでくる。そのすべてが下野の掌中にある。他に音が入る余地などどこにもないように聴こえる。

終演後、ちょっと贅沢が言いたくなってきた。下野の音楽には、隙がない。だが、隙がなさすぎる。言い方を変えれば、下野が最初から見えていること、意地悪な言い方をすれば、最初から分かり切っていることだけを、完全なコントロールで描き切っている(だけ)という(贅沢極まりない)不満が出てくるのだ。それは、完成された横綱相撲のようなもので、自分がすでに理解しているものしか描かれていないという不満である。いや「不満」とは違う。もう少し正確に言おう。広い意味での創作物、つまり文化に人が期待するものは、(少なくとも筆者は)すでに分かり切っていることをハイレベルに料理して、お客さんがそれに唸るというコミュニケーションの、その「外側」にあるのではないか。その外側にこそ本当の創作物の力があるのではないか。創作とは、まだ分かっていないものを手探りで提示する営みなのではないか。もちろん前提として下野の仕事のレベルはあまりに高い。だが、だからこそ、なにか言葉にし難い物足りなさも残すのだ。なにより、下野がこの演奏会のタイトルに掲げた、人間が世界に偉大さを見出そうとする「3」という数字には、完成されて閉じるのではなく、未知へと己を開く、つまり、外部へと憧れる人間知性の未完結性が響いているのだから。

(2022/10/15)

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多田圭介( Keisuke Tada)
北海道大学大学院博士後期課程修了、博士(文学)。研究分野は、現象学を中心とするドイツ語圏の近現代哲学、及び近代日本哲学、クラシック音楽と舞台芸術の批評、さらに近年は日本の戦後アニメーションの研究にも手を染めている。現在は、藤女子大学講師、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員、さっぽろ劇場ジャーナル編集長。
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Sapporo Symphony Orchestra
“Three Great Symphonies by Shimono” Masterpiece Concerts 2022-2023
September 3, 2022 at Sapporo Concert Hall; Kitara
<Performers>
Sapporo Symphony Orchestra
Tatsuya SHIMONO, conductor
Takahiro TAJIMA, concertmaster

<Program>
SCHUBERT:Symphony “Unfinished”
BEETHOVEN:Symphony No. 5
————–(Intermission)————–
Dvorak:Symphony No. 9 “From the New World”