劇団民藝『破戒』|日置貴之
劇団民藝公演KEIKOBA
『破戒』
黒川劇団民藝稽古場、2022年8月1日〜10日
Text by 日置貴之(Takayuki Hioki)
原作:島崎藤村
脚色:村山知義
演出:岡本健一
装置:勝野英雄
照明:前田輝夫
衣裳:片野光
効果:岩田直行
舞台監督:深川絵美
出演:
瀬川丑松:齊藤尊史
土屋銀之助:塩田泰久
勝野文平:平野 尚
風間敬之進:吉岡扶敏
猪子蓮太郎:千葉茂則
高柳利三郎:吉田正朗
市村弁護士:本廣真吾
校長:横島 亘
奥様:小嶋佳代子
お志保:加來梨夏子
猪子夫人:中地美佐子
省子:矢島 瞳/井上 晶(ダブルキャスト)
男:花城大恵/愼 将吾(ダブルキャスト)
男たち:滑川龍太、小守航平、大友祐晟
女たち:齊藤みのり、石川 桃、船津優舞
プロロオグ朗読者:境 賢一
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新劇の老舗である劇団民藝が、新たに川崎市麻生区の劇団稽古場での公演を開始した。KEIKOBAと銘打ったこの公演は、演出に岡本健一を招き、中堅・若手中心の俳優陣によって演じられた。この第1回公演の演目に選ばれたのは、1948年に民衆芸術劇場(第一次民藝)の旗揚げ公演で上演された島崎藤村原作・村山知義脚色『破戒』である。
同じく長い伝統を誇る文学座や俳優座に比べると、近年はこのような小規模な空間での実験的な上演の機会も少なく、ややおとなしく見えた民藝だが、やはり若手の大胆な抜擢でも話題を呼んだ今年2月のてがみ座との合同公演『レストラン「ドイツ亭」』に続いて意欲的な企画が登場したことは喜ばしい。
とはいえ、相変わらずの新型コロナウイルス禍のなかで、企画のスタートは順調にはいかなかった。7月28日から8月9日までの予定だった公演は、関係者の新型コロナウイルス感染のため7月31日までの回が中止となり、8月9日の夜公演と10日の昼公演が追加公演として行われることになった。また、9月からは公演映像の配信が行われている(視聴券販売は11月15日まで、配信は11月29日まで)。
困難な状況のなかで、劇団のルーツともいえる演目を演じることで、自らの歴史を踏まえつつも、未来への意志を示した関係者の努力には敬意を表したい。
なお、評者は8月3日の回に観劇し、配信映像でも再度確認をおこなった。
村山知義脚色『破戒』上演まで
その舞台はといえば、「差別」を表象するという行為について、深く考えさせられるものであった。
周知の如く、『破戒』は島崎藤村が1906年3月に出版した小説である。父の教えによって、被差別部落出身であることを周囲に隠したまま小学校の教員を務めていた瀬川丑松が、父の「戒めを破り」、出自を明かすという物語は、刊行後すぐに評判を呼び、今日に至るまで日本近代文学の名作として知られている。出版から4ヶ月ほどで早くも新派の伊井蓉峰一座によって演劇化されたといい、その後も戦後に至るまで複数の脚色がなされているi。
村山知義は新劇団の大同団結を訴えて結成した新協劇団(第一次)の旗揚げ公演では、藤村の『夜明け前』を脚色して上演していたが、『破戒』についても1930年代後半には劇化を企図していたらしい。その計画は戦中には実を結ばず、新協劇団も弾圧によって解散を余儀なくされたが、戦後に再建された新協劇団(第二次)を脱退した宇野重吉らが結成した民衆芸術劇場の旗揚げ公演という形で、1948年に実現したのだった。
東京の有楽座で1月2日から26日まで上演された『破戒』は、その後、2月13日からは大阪・朝日会館に会場を移した。その公演パンフレット(評者蔵)には、伊藤熹朔による舞台装置の図が掲載されているが、全4幕10場の舞台の背景は、いずれも極めて写実的なものである。出演者も「解説者」と猪子蓮太郎役の滝沢修、丑松役の宇野、丑松と互いに恋心を抱くお志保役の山口淑子など、多くの俳優が配役一覧に名を連ねている。
岡本健一演出による普遍化
これに対して、今回の上演は、稽古場での公演ということもあり、より抽象的な舞台装置(勝野英雄)を用い、初演に比べると限られた人数でおこなわれた。
上演空間は、正面に方形の高舞台が客席に張り出すように設置され、その奥には左右の袖に向かって廊下状の通路がある。高舞台の下は上手側・下手側とも柴垣を描いた折り回しの壁が設けられ、下手側には出入り口が開いている。これら舞台奥左右と下手壁の出入り口以外に、客席中央と左右の通路からも人物の出入りがあり、それらの通路や高舞台と客席の間の空間でもしばしば演技がなされる。
基本的には高舞台は丑松が身を寄せている蓮華寺の庫裡を想定しているようだが、それを具象的に示す道具類はほぼ置かれず、能舞台を思わせる簡素さである。本来は小学校の職員室で交わされるべき校長と教員の勝野の会話などもこの空間においておこなわれる。まさしく能舞台がそうであるように、どのような場所にでもなりうる、抽象的な空間であると言ってよい。
このような抽象化は、装置に限ったものではない。『破戒』の舞台は、作品の執筆と同時代、すなわち明治期の長野県飯山であるが、登場人物が身にまとう衣裳(片野光)からは、そうした時代性・地域性はさほど感じられず、筒袖の上下セパレートの衣服などは、むしろ古代などを連想させる。
こうした簡素化が、単にシンプルな表現を志向したというだけではなく、明治期の長野県という固有の文脈を離れ、より普遍的に物語を提示するという意図のもとになされたであろうことは、作品の題名ともなっている、丑松が父の教えに背き(=破戒)、教室で生徒たちに向かって自らが被差別部落の出身者であることを明かす場面(村山脚色台本の第四幕第二場)の演出を見れば明らかであろう。
村山の台本ではこの場面には、
小学校の教室。翌日の午後。日が窓から射しこんでいる。高等四年の生徒を前に、丑松が演壇に立って講義している。生徒は石盤で計算している。
という指示があり、丑松が告白を終えて教室を出て行った後に、複数の生徒たちによる会話が続いているii。初演のパンフレットにも、多数の生徒役が出演すると記されており、この場面には多くの子役が実際に登場したものと思われる。
岡本演出ではこの場面を、高舞台中央に立った丑松によるモノローグとし、他の登場人物たちはみな頭からベール状の布を被った姿で、高舞台と客席の間の床に座ってこれを聴く形にする。子役の代わりに、丑松役以外の俳優が生徒に見立てられた形だが、この演出で生徒に見立てられるのは、俳優たちだけではない。いや、むしろ演出の狙いからすれば、この「俳優ではない生徒」たちの存在こそが、より重要であろう。それは、この舞台を鑑賞する観客である。暗い照明のなかで演じられた直前の場面から一転して、この教室の場面では、舞台上の丑松はもちろん、観客席にも照明が当たる。そして、「皆さん、この山国に住む人達を分けてみると、おおよそ五通りにわかれています」と始まる舞台上の丑松の告白は、明らかに観客に対して語りかける調子でなされる。それまで、暗闇のなかであくまでも傍観者として物語を追いかけてきた観客は、にわかに飯山小学校の生徒の立場に置かれてしまうのである。
すでに記した通り、村山台本では、丑松の長い告白が終わると、生徒たちによって演じられる短い場面が続くが、そこでは「二、三人飛び出してゆく生徒」がおり、
生徒一 瀬川先生が部落の人だっていいじゃねえか。
○ そうだ、そんなことかまわねえじゃねえか。
△ 瀬川先生はほかの先生とちっともちがやしねえだ。
× ほかの人よりもえれえだ。
といった会話がなされる一方、早くも丑松による告白のことを聞きつけ、興味本位で質問を始める「ほかの組の生徒」も押し寄せてくる。この箇所は子役のいない今回の上演では当然省略されるが、生徒の立場に置かれた観客は、先生が「部落の人」であることを知っても、彼に敬意を抱き続ける、上記の会話の生徒たちになるのか、先生の告白に驚き、それを言い触らしたり、好奇心を抑えきれない生徒たちになるのか、選択を迫られる。
いや、より問題を一般化して、観客は「被差別者による告白に接したとき、社会の作り上げた差別の構造にとらわれず、その人物を個人として見て、接することができるか、それとも、その人を色眼鏡で見て、さらなる差別に加担するのか」と問われているといった方が良いかもしれない。この上演では、物語は明治期の長野における部落差別という個別の状況から距離を置き、現代日本に生きる私たちの周りにも遍在するさまざまな差別ともイメージを重ねうる形で展開される。
失われた固有性
こうした意図を一貫して示し、私たちが生きる社会の持つ問題にどう向き合うのかという問いを観客に突きつけた岡本の演出が、真摯に作り上げられたものであることは間違いない。
ただ、一方でそれによって切り捨てられてしまったものの大きさもまた、意識しなければならない。それは、すでに見てきたような普遍化によって見えにくくなる、『破戒』に描かれた差別の固有性である。
繰り返しになるが、藤村が原作小説を刊行したのは、1906年であった。作品の構想はその数年前からあり、1904年1月には舞台となる飯山への取材に赴いている。この直後の2月に日露戦争が勃発し、3月には田山花袋が従軍記者として大陸に渡った。藤村も従軍を望むが、その希望は叶えられることはなかった。当時住んだ小諸にとどまった藤村は、『破戒』の執筆こそが自らにとっての「従軍」なのだと自分に言い聞かせながら、物語を紡いでいった。
執筆にあたって藤村が、飯山への訪問をおこなっただけでなく、実在の人物たちをモデルにして、『破戒』の複数の登場人物を生み出したことは、すでに知られている。もちろん、物語の舞台を実際に見て、人物のモデルを得つつも、それを創作へと昇華させたからこそ、『破戒』がすぐれた文学となったのは間違いない。だが、そのような取材を経て書かれた小説が、日露戦争期の日本、あるいは長野における部落差別という固有の状況を反映していることも事実である。
日本の部落差別は、インドにおけるカースト制度等との類似を指摘されることもあり、部落差別の解放を目指して創立された全国水平社は、初期には朝鮮半島の被差別民である白丁の解放を志した衡平社との交流をおこなっていた。しかし、基本的にはそれは、日本の歴史のなかで作り上げられてきた、日本社会に固有の差別であるといえる。例えば、埼玉県のウェブサイトの「同和問題(部落差別)について」のページは、「同和問題とは、日本の歴史的過程で形づくられた身分制度に由来するもので、今なお、日常生活の上でいろいろな差別を受けるなど、我が国固有の人権問題です」と記しているiii。そして、その差別のあり方は、時代とともに変化してきた。1880年代後半以降には、人類学などの「科学」をも背景にして、被差別部落民を「我同胞」とは異なる祖先を持つ「異人種」として捉える「人種起源説」が広がっていったというiv。
『破戒』原作小説において、丑松の父が、自らも差別を受けてきた立場でありながら、自分たち一族は、「東海道の沿岸に住む多くの穢多の種族のように、朝鮮人、支那人、露西亜人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違い、その血統は古の武士の落人から伝ったもの、貧苦こそすれ、罪悪のために穢れたような家族ではない」(第1章の三)と丑松に語り、丑松の同僚たちが、被差別部落民は体臭や肌の色で判別できるといった発言をする(第18章の二)のは、そうした当時の被差別部落観を反映しているし、「朝鮮人、支那人、露西亜人」を「日本人」に対して劣った存在として捉える意識には、日露戦争期のナショナリズムの影が見える(「穢多」という言葉については後述する)v。
村山の脚色では、上記の父の言葉は省略されているが、全編中の山場といえる、教室での丑松の告白の場面には、原作にない次のような台詞が加えられている。
……しかし皆さん、それは、今まで身分をかくし、皆さんをあざむいていた、ということをあやまったのです。部落の人たちは、決してけがれた人でもなく、並の人間以下の人間でもないのです。千年余り前に、民族と民族との戦のときに、敗けて奴隷にされた人や、よその国から来た人や、同じ日本人同志の戦いで敗けた人や、仏教で嫌う、獣を扱う商売をしていた人や、そのほかいろいろの人の子孫が無理やりに、社会の一番下に追い込められてしまった。それが部落の人達なのです。……
村山は、1948年に本作を脚色するにあたって、「四十年あまり前に書かれた原作に現在的意義を与える」ことに主眼を置いたとし、「丑松が告白しただあやまるのではなく、解放問題についての主張を述べる」ように改変をおこなったと記している(大阪公演パンフレット「脚色と演出」)。しかし、依然としてここには「人種起源説」の痕跡が残っている。今回の上演台本における丑松の告白は、被差別部落民が皮革や食肉の製造や加工といった、多くの人々に必要とされる仕事を担いながら、存在を蔑まれていることなどを述べて理不尽さを訴えるとともに、出自を隠していたことを謝罪するという内容であり、上記のような、被差別部落の歴史を説きつつ「解放問題についての主張を述べる」といった側面は見えない。
すでに指摘してきた普遍化を意図した演出は、時代を経た「原作に現在的意義を与える」という意味では村山と共通する意識を持つし、今日では否定されているといってよい「人種起源説」を含むテクストを用いないという判断も理解できる(71年の新劇合同公演等、村山脚色の48年以降の上演において使用されたテクストについては、調査が及んでいない)。しかし、そこで原作はもちろん、「明治三十七、八年——日露動乱のたゞ中に、若き藤村の打ち鳴らす自由の鐘」(東京公演パンフレット)と謳った民衆芸術劇場初演でも強く意識されていた、日露戦争期という設定上の固有性が大きく後退したことは間違いない。そのことによって、今回の上演では、さまざまな差別のなかでも特に部落差別を、それも日露戦争期に現実に存在したものを描き出したという感覚は、少々乏しいものとなった。
これが、今日では存在しない差別問題を題材にしているのであれば、おそらく普遍化という方法は有効であろう。しかし、先に引いた埼玉県のサイトにも記されるように、1948年当時に比べればはるかにわたしたちの意識にのぼることは少なくなったかもしれないが、部落差別はいまなお残る問題である。「部落差別の解消の推進に関する法律」が施行されたのは2016年であり、全国の被差別部落の地名をウェブサイト上で公開した出版社に対して、部落解放同盟や当事者が起こした訴訟は、21年9月に東京地裁で出版禁止や賠償等を命じる判決が出たものの、現在でも控訴審の最中である。
また、パンフレット等では触れられていなかったが、今年は水平社の創立100周年にあたる年である。そのような節目であり、かつ部落差別という問題がいまだ過去のものとはなっていないタイミングで『破戒』という作品を上演するとき、やはりある時代における部落差別という固有の問題を、普遍化して見えにくいものにしてしまうことには問題があるのではないか。昨今の問題になぞらえていえば、All Lives Matterという言葉は「正しい」が、現実に生じている個別の差別に対して挙がったBlack Lives Matterという声に向き合わずして、原則のみを説くべきではない。「原作に現在的意義を与える」ことを意図した村山は、部落問題が「むかしのことではなく現在の問題であり、他人のことではなく各人の心のうちの問題であること」を伝えたかったとも記しているのであるvi。
むしろ、この作品を今日上演するとき、考えてほしかったのは、登場人物たちの会話に頻出する、「部落の人たち」という言葉である。藤村は、小説の初出では、「穢多」という語を用いていた。しかしながら、極めて差別的なこの言葉は、水平社による運動のなかで問題視され、1929年以降、『破戒』はこの言葉を用いない本文へと改訂されて出版された。初版の状態に復した本文を持つ『破戒』が再び刊行されるのは、1953年(筑摩書房版『現代日本文学全集 第8巻 島崎藤村集』)であり、村山の脚色が「部落の人たち」という表現を取ったことはやむを得ない。
しかしながら、現在では容易に入手可能な文庫本等でも、また最新版の映画(前田和男監督、2022年7月8日公開)でも、「穢多」という語は当然(それが差別的な語であるという断りはあった上で)使用されている。今回の上演台本では、父が丑松の脳裏で語りかけるような形にしたり、村山台本の複数の生徒たちをお志保の妹・省子ひとりにまとめるなど、少ない人数と舞台の制約のなかで見せるための改変が多数あった(パンフレットには「脚色……村山知義」とのみあったが、テクスト改訂への責任の所在を明示すべきである)。おおむね巧みな改訂であったと思うが、今日における上演ということを意識して、思い切って「穢多」という語を用いる形にしてもよかったのではないか(その場合はもちろんパンフレット等で歴史的背景を説明することが必須であるが)。
初めに記した通り、中堅・若手が重要な役を担い、のびのびと演じていた印象を受けた。横島亘の校長と平野尚の勝野の場面が喜劇風のタッチで、深刻な物語の合間に緊張を和らげてくれる。
シンプルな装いで普遍化というコンセプトを一貫して示した岡本の演出能力も、それを形にした俳優・スタッフの力も評価できるだけに、部落差別や原作の持つ固有性は意識した上で、それでも現代の観客に問いを突きつけるような表現を見せてほしかった。
(2022/10/15)
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i 宮武利正『「破戒」百年物語』解放出版社、2007年。以下、『破戒』の出版史・受容史については、同書を参照した。
ii 村山台本の引用は、『村山知義戯曲集 下巻』新日本出版社、1971年によった。
iii https://www.pref.saitama.lg.jp/a0303/tuite.html、2022年10月9日閲覧。
iv 黒川みどり『被差別部落認識の歴史 異化と同化の間』(岩波現代文庫、2021年)第2章。
v 小説『破戒』の引用は、初版本を底本とする岩波文庫版による。
vi 村山知義「「破戒」脚色・演出覚え書」(『戯曲 破戒』河童書房、1948年)。
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日置貴之(ひおきたかゆき)
明治大学情報コミュニケーション学部准教授。幕末・明治期を中心として日本演劇の研究をしている。新聞や電信、鉄道といった文明開化期の新たな事物が登場する歌舞伎の「散切物」や、演劇における災害・戦争・病などの表象に関心がある。著書に『変貌する時代のなかの歌舞伎 幕末・明治期歌舞伎史』(笠間書院、2016年)、『真山青果とは何者か?』(共編、2019年)など。