坂本光太×和田ながら「ごろつく息」京都公演|田中 里奈
坂本光太×和田ながら「ごろつく息」京都公演
UrBANGUILD、2022年9月9日~10日(鑑賞日:9月9日)
Kota Sakamoto × Nagara Wada “Gorotsuku Iki (Trolling Breath)” in Kyoto
UrBANGUILD, September 9-10, 2022
Text by 田中里奈(Rina Tanaka)
Photograph taken by 中谷利明(Toshiaki Nakatani), provided by したため(shitatame)
出演|坂本光太(チューバ奏者)、長洲仁美(俳優)、杉山萌嘉(ピアニスト)
演出|和田ながら
音響|甲田 徹
バナーデザイン|関川航平
初演 製作|東京コンサーツ 制作|西村聡美
助成|公益財団法人 セゾン文化財団、京都府文化力チャレンジ補助事業
主催|したため
Performer: Kota Sakamoto (Tuba player), Hitomi Nagasu (Actress), Moeka Sugiyama (Pianist)
Director: Nagara Wada
Sound Engineer: Toru Koda
Banner Designer: Kohei Sekigawa
Originally produced by Tokyo Concerts
Supported by the Saison Foundation and Kyoto Prefecture Culture Challenge Support Scheme
Presented by Shitatame
【プログラム】
長洲仁美/和田ながら《浮浪》(2021)
チャーリー・ストラウリッジ 《カテゴリー》(2013-14)
ヴィンコ・グロボカール 《エシャンジュ》(1973)
坂本光太/和田ながら 《オーディションピース》(2021)
池田 萠《身体と管楽器奏者による 序奏、プレリュードと擬似的なフーガ》(2021)
坂本光太/長洲仁美/和田ながら 《一番そばにいる》 (2021)
[Program]
Hitomi Nagasu / Nagara Wada: Flow (2021)
Charlie Sdraulig: category (2013-14)
Vinko Globokar: Échanges (1973)
Kota Sakamoto / Nagara Wada: Audition piece (2021)
Moe Ikeda: Introduction, Prelude and Fuga-ish music by a Body and Wind instruments player (2021)
Kota Sakamoto / Hitomi Nagasu / Nagara Wada: The closest (2021)
※各画像はクリックで拡大表示
——————–
パフォーマンスそのものを定義し直していくプログラム
「音楽」と「演劇」の混交と言い切ってしまうには余りある、豊かな感性と既成観念の軽やかな異化を印象づけた、珍しいコラボレーションだ。表題にも掲げられている通り、チューバ奏者の坂本光太と演出家の和田ながらの共同制作公演である。初演は2021年12月(於東京)。坂本と俳優の長洲仁美は初演からの続投だが、今回の京都公演ではピアニストの杉山萌嘉が新たに加わっている(初演については公式アーカイヴを参照されたい)。会場は、京都の繁華街・木屋町通にある多角的アートスペース「UrBANGUILD」だ。飲み物を片手に、舞台の方をつねに向かずとも自由に鑑賞できる空間である。
全6作品、途中休憩ありのプログラムはパフォーマンスそのものを定義し直していくような構成だった。1作目のモノローグ『浮浪』では、開演前と上演中を分け隔てるような実感もそこそこに、舞台上にてくてくと登場したラフな格好の長洲仁美が、彼女の見た夢らしき内容を、身振り手振りを交えて語る。よくわからない場所を誰かに追い立てられるようにどんどん隘路に迷い込み、高所から落ち、どうオチがつくのかと思いきや、道迷いの行く先は「ここ」、つまり舞台上だったことが示される。今春に同劇場で別役実の『受付』(広田ゆうみ+二口大学)を観たことが記憶に新しいせいか、コミカルな不条理演劇とも取れる。
前の場面で登場した長洲仁美が舞台上手に立ち尽くしたまま、これまたラフな服装の坂本が登場し、2作目の『カテゴリー』を独奏する。演奏が開始されたのかわからずにいると、突如振動として音が現前して驚いた。坂本を目前に捉えてはいるが、視覚的情報で頼りになるのは、彼がいま吹いているかどうか、どのくらい息を込めている(ようにみえる)かくらいがせいぜいだったからだ。ただし、坂本が実に真剣かつ力強く息を吹き込んでいる様子を見、演奏時独特の緊張感に間近に晒されることで、観る側は、これが冗談ではなく作品の演奏なのだということを実感させられる。くわえて、次の態度も自ずと求められる——ときに腹にゴロゴロと轟き、ときに耳をそばだてれば辛うじて拾えるくらいささやかな、楽器を経由して発される音……というよりかは呼気の流れの変化を、辛抱強くじっと観察すること。次第に、自分が音を聴いているのか、時間の流れを静観する禅的訓練のようなものを行っているのか、わからなくなってくる。
『エシャンジュ』におけるチューバのポテンシャル
3作目の『エシャンジュ』では、長洲の助けを借りながら、坂本が文字通りさまざまな方法(なんと256種類!)でチューバを演奏する。演奏中のチューバのベルに三角コーンが差し込まれたり、開口部を鍋のフタやプラスチック製の盥で閉じたりするというなかなか強烈な見た目は、マウリシオ・カーゲルのユーモラスな作品群を彷彿とさせる1。チューバから出たとは思えない多様な音——演奏中に記した筆者のメモには、「歯科」「動物園」「雪崩」といった、おおよそコンサートの備忘とは思い難い文字列が並んでいた——に驚かされ、筆者の脳内にあったチューバのポテンシャルは大きく拡張された。
舞台上の坂本はつねに楽譜(と言っても、通常の楽譜とは異なり、定量的な音価や音高は指定されず、演奏方法のみが指示されたものだが2)を参照しており、公演プログラムにも「記譜通りの演奏を目指す」と書かれてはいた。だが、はたして本当に256通りのノイズが演奏されたのかどうかは目と耳をフルに使っても判断できなかった。
ここでの「楽譜通り」が何を指すのかは曲者だ。坂本自身、この作品を「徐々に演奏が崩壊していくということが予め想定されている」3と結論付けている。楽譜通りに演奏できない作品をあえて演奏する行為を通じて「構造の安定性と作品に蔓延する秩序を破ることができる」4というグロボカールの言葉を引いて、彼は『エシャンジュ』を「今日的な芸術環境、すなわち作品を作品たらしめる制度に対するアンチテーゼ」と捉えている5。
『エシャンジュ』が1970年代に登場したことは、ドイツ語圏で演劇のテクスト優位からの脱却が進んだ時期と重なり、同時代的な潮流を感じずにはいられない。そこで思い出したのが、ハイナー・ゲッベルスが『アイスラーマテリアル』(1998)について話していた際の、次の発言だ6。
観客は音楽家たちの間で起こっていることに非常に大きな関心を抱くことになります。なぜなら全体が非常にもろいものだからです。[…]どのようにしてパフォーマンスが成立し、どのように機能するかがとてもエキサイティングだということです。そしてこうしたことを通して観客もまた、音楽家にとって音楽を我がものにするにはどのようなプロセスを踏むかということを理解するようになるのです。
さて、ここまでの3作品は、演者の意図に即した形で観客に作品を見せ、聞かせることを目指すベクトルとはかけ離れている。むしろ観客は、眼前に呈示された「わからなさ」に付き合い、何が起こっているのかを認識しようと試み続け、そこでようやく従来的な鑑賞方法が役に立たないことを悟ることになる。そのプロセスは非常に過渡的である7。
演劇×音楽による異化効果
後半では、音楽と演劇的要素とがいっそう密接に組み合わされ、一種の異化効果をもたらしていた。4作目の『オーディションピース』では、坂本と杉山が楽器を持たずに各々の演奏位置に座り、演奏中の心のつぶやきとおぼしき内容を滔々と喋る。いま演奏している各部分に対するごく主観的なイメージや、共演者の出した音に対するツッコミ(または共演者への言及が全然ないことの違和感)、評価されたいという欲望、演奏中に終演後へと思いを馳せる瞬間などが矢継ぎ早に、ときには二者の声が被る形で発話される。
ユーモラスで楽しい作品だが、それだけに留まらない。『オーディションピース』は、普通のコンサートで音や佇まいを通してのみ認識してきた演奏者の(心の)声を聞き、彼らの主観——それも、作品の解釈のように専門性を要するものではなく、日常から地続きのところにあるものとして——に注目することで、ときに形式ばって窮屈に感じられるコンサートの見方に風穴を開けている。『ごろつく息』を観た後に足を運んだとあるコンサートで、演奏者の心の声をウッカリ推測して一人で面白くなったことは内緒である。
5作目の『身体と管楽器奏者による序奏、プレリュードと擬似的なフーガ』では、漏斗付きゴムホースを持った楽器役の長洲を、演奏者役の坂本が抱えて演奏しようと試みる。徹頭徹尾「トーン(音)」が異化され続けるシュールな作品だ。最初に「とん」で始まる言葉の羅列があり、その次に「トーン」の概念が説明される(ただし、「トーン」の部分は「ドローン」という語に置き換えられており、説明文の終わりに「ドローンから、ローを取り除いて、濁点も取ってください」という指示がある8)。演奏者役が楽器役を演奏し、演奏内容が楽器役の口から言葉として発されることには正直違和感ずくめだったが、最後の「トーン」がしっくり嵌って聞こえて、珍妙なのになぜか納得してしまった。
最後の作品『一番そばにいる』では、坂本が数分程度の楽曲をチューバで繰り返し演奏する傍らに、長洲がマイクを手に立ち、坂本の演奏に介入していく。長洲は、最初の演奏を黙って聞き、次にオノマトペで旋律を表現し、三度目は長洲自らがいま知覚していることを網羅的に記述し、四度目はチューバ視点で周囲を観察し、最後にそれまでに発した内容をミックスして発話する。
最初、長洲の声は坂本の演奏に干渉するノイズとして認識された。だが、彼女の語る内容が、演者二者から作られているように見えていた上演を、UrBANGUILDの空間全体に拡張し、会場を取り巻く環境全体から捉え、さらに、人ではなくチューバの視点で――ひとつ前の作品で、長洲が楽器役をやっていたのが伏線のように連想される――捉え直す時、この作品のあざやかな多面性が現れる。立体的で、なおかつ拡がりを持ったパフォーマンスのあり方は、五周目の長洲の発話内容に集約される。それまでの繰り返される発話が即興的に感じられたためか、それはまるでたったいま生成された一編の詩のように聞こえ、筆者は不思議な高揚感を覚えた。
『ごろつく息』は「遊戯的」?—―可塑性の議論を踏まえて
さて、公演全体を改めて概観すると、真っ先に浮かぶのは「遊戯性」という語だ。2022年10月の『文學界』における岡崎乾二郎との「可塑性」をめぐる対談で、山本貴光は「なにが起きてしまうか、自分が思ってもいなかった状態になることを試す営み」、「結果として、世界にはそうした潜在性があるという次第にも気がついたり、考えたりするきっかけになる」ものとしての「遊び」が、自己変容に欠かせないのではないかと提起している9。
岡崎は、山本のこの発言をおおむね認めたうえで、「遊び」という語の背後に、「無駄、非効率だとみなす判断をしている主体なり、システム」の存在が隠れていることを鋭く指摘する10。岡崎の中で、既存のシステムに順応させるメカニズムとしての「遊び」への強い警戒は、脳梗塞から「恢復」させようとするシステムへの違和感と通底する。病を得る前の状態に戻ろうとするリハビリ観を否定し、病を経て不可逆に変化した身体と新たな関係を構築することに希望を見出した岡崎は、「別の新たな自分を立ち上げる可能性、自己の可塑性」の拡がりを次のように説明している――「ネットワークが再組成されるわけですから、つまり同じ世界に戻るのではない。[…]私だけでなく、世界も変わっていかなければならない」11。
岡崎のこの発言にはさまざまな示唆が含まれるが、さしあたって、異なる領域同士の協働、あるいは従来的な制度に対する挑戦(の難しさ)の問題として引き受けてみたい。
近年、領域横断的な共同制作が目を引く一方で、分野を超えたその先を示すような公演は意外と多くない。蓋を開けてみたら、中身が分業の成果の寄せ集めだったことは一度や二度ではない。作り手の達成感に反して、作品が観客になかなか届かない場合もある。さまざまな問題があってそうなっているのだと思うが、作る側と観る側の双方にとって、従来の価値観を手放し、その結果生じた揺らぎを引き受けることが決して容易ではないという問題はつねに付いて回る。
揺らぎという語を支点にして、『ごろつく息』に話を戻そう。初演のアーカイヴに掲載された、演出の和田ながらによる文書「予言と遡行」に、次のような記述がある。
舞台の上でどこまでも実直に揺らぐことのできる[…]彼女[長洲仁美]は、このクリエイション中、俳優の仕事について、他者と共にどのようにそこにいられるかを探る仕事であると言った。それはまさしく、この現場で問われていることに違いなかった。作曲者と、楽譜と、楽器と、演奏者と、観客(演出家はおそらくここに含まれる)。ばらばらなわたしたち他者同士は、この通りのちぐはぐなままでも、ここでごろごろしていられるだろうか。
「実直に揺らぐ」から「ごろごろする」への連関は、続いて言及される公演タイトルの名づけの話と深くかかわっている。和田は「ごろつく」の定義として、音や動作、状態に加えて、「働かないでぶらぶら遊ぶこと」「目的もなくうろつくこと」「目などに異物があって、すっきりしないこと」も挙げている。「どうしても普段は「目に見える進捗」を追い求める「効率的」なあわせをしようとしてしまう」12自己を見つめ、異物と共在することのすっきりしなさを無視しないことは、「遊び」を「無駄、非効率だとみなす判断をしている主体なり、システム」を外から見つめる行為でもある。『ごろつく息』というタイトルは、上演中に聴こえたチューバの音を思い出しても、公演全体を貫くテーマとしても秀逸だと思う。
坂本は、『ごろつく息』の公演プログラムに寄せて、「私は、すごくなさそうな[…]しょぼい演奏がしたい」と書いている。「しょぼい演奏」という言葉選びには、とりあえず「大層なもの」「立派なもの」として扱われてきた現代音楽の形骸化した状況が痛烈に皮肉られている。だが、それと同時に、「しょぼい演奏」という表現は、しょぼさとすごさの二項対立から逃げきれてはおらず、「大層な」演奏のオルタナティブにあえて踏み留まっている。
「ポストモダン」という概念が、「否定あるいは宣戦布告、解放、ひょっとしたら逸脱であったり、その[ポストモダンの]地平のかなたで何が可能かを問う遊戯的な偵察」だと言ったのは演劇学者のハンス=ティース・レーマンだった13。『ごろつく息』は、既存の制度から軽やかに飛び出したかのように見えて、その実、演劇と音楽、あるいは上演という制度そのものに取り組んでいる、その姿勢をもって「遊戯的」なのであろう。
(2022/10/15)
—————-
1 坂本による2020年3月1日の演奏(於北千住BUoY)がYouTubeで閲覧できたが、この公演では坂本がカーテンの背後に隠されたまま演奏していた。ちなみに、同公演は坂本の独奏となっており、三角コーンや鍋のフタも用いられていない。
2 当日配布された公演プログラムに基づく。『エシャンジュ』の記譜と演奏システムについては、坂本光太『ヴィンコ・グロボカール作品における 美学的・社会的システム批判としての体系化と逸脱』(2021、博士学位論文)に詳しい。
4 Vinko Globokar. 1998. Laboratorium: Text zur Musik 1967-1997. Saarbrücken: Pfau, 82. 日本語訳は前掲書の坂本(2021)、p. 76.
6 ハイナー・ゲッベルス×市川明「対談:ポリフォニーの迷宮」『舞台芸術』21、p. 148.
7 ここでイメージしているのは、『通過儀礼』(V・ターナー)とそれを受けたE・フィッシャー=リヒテのパフォーマンス論における「リミナリティ」概念である。詳しくはErika Fischer-Lichte, Ästhetik des Performativen, Suhrkamp, 2004.
8 池田 萠『身体と管楽器奏者による 序奏、プレリュードと擬似的なフーガ』の楽譜は東京コンサーツの公式アーカイヴから閲覧することができる。
9 岡崎乾二郎×山本貴光「「感覚のエデン」を求めて」『文學界』2022年10月号、p. 33.
12 『ごろつく息』初演時のクリエイションにおける和田―坂本間の交換日記における、坂本の記録より抜粋(2022年2月17日公開のアーカイヴ収録、東京コンサーツの公式アーカイヴから閲覧可能)。