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小人閑居為不善日記|さらば、異世界のゴダールおじさん|noirse

さらば、異世界のゴダールおじさん
Adieu, “The Other World” Uncle Godard

Text by noirse

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今年も夏アニメの季節が終わった。今回も色々と楽しめたが、一際目立っていたのが《異世界おじさん》だ。原作マンガは未読で、またアニメも制作に遅れが出ており、半端にしか内容を把握できていないものの、それだけでも十分おもしろく、ユニークさが伝わってくる。

タイトル通りいわゆる「異世界もの」なのだが、異世界に転生して無双するというようなよくあるタイプと違って、舞台は現実世界だ。事故により17年間昏睡していたおじさんが目覚めたため、甥のたかふみは病院に向かう。昏睡していたあいだ異世界を冒険していたと口にするおじさんの精神状態を疑うも、言っていたことは本当で、現実でも特殊な力を発現。退院し、たかふみと共同生活を始める。

少なくともアニメ放送時点では、大きな物語進行はほとんどない。おじさんの力によって、異世界での冒険の様子が動画のように流れていくのを、おじさんの解説付きで視聴していくだけ。視聴者はおじさんの少しズレた注釈にツッコミを入れつつ眺めることしかできないし、それは作中人物のたかふみですら同じだ。

これはYouTubeのゲーム実況動画に似ていて、メディア体験自体を作品化するという設定自体独特なのだが、そこで語られていく冒険の中身も、通常の異世界ものとは異なり、手に汗握るバトルなどはほぼ語られることはない。おじさんは異世界を旅して廻っていくが、行く先々で迫害を受けるだけで落ち着ける場所もなく、いいことは何もない。けれどおじさんはたいしたことなどないといった口ぶりで、気付いたら楽しそうにSEGAの話を始めるといった調子だ。

事故に遭う前高校生だったおじさんはゲームブランドSEGAの熱烈な信奉者で、反面社会生活や人間関係には疎いところがあった。ところがそれがかえっておじさんに独自の規範を与えており、まるでゲームの主人公のように辛抱強く、苦難にくじけず、間違ったことを嫌い、困っている人を救うといった、絵に描いたようなまっすぐな倫理感を内面化していた。

たしかにおじさんはどこかズレてはいるが、一方では尊敬するに値する人物だ。おじさんの長期入院の影響でたかふみの一家は離散しており、彼に何かを教えるような人物も存在しなかった。そんな彼におじさんは、意識せず重要な何かを伝えていく。

世の中には「おじさんから人生を学ぶ」というジャンル(?)がある。筆頭は《男はつらいよ》(1969)の「寅さん」だろう。フランスにはジャック・タチの《ぼくの伯父さんの休暇》(1953)に始まるユロ氏のシリーズがある。宮崎駿により映画化制作中の吉野源三郎《君たちはどう生きるか》(1937)も、父親を失った子におじさんが社会や倫理を説く話だ。北杜夫にも《ぼくのおじさん》(1972)という作品があって、二度映像化されている。

この最初の出会いの日から、私と網野さんは、人類学でいうところの「叔父-甥」のあいだに形成されるべき、典型的な「冗談関係」を取り結ぶことになったわけである。この関係の中からは、権威の押しつけや義務や強制は発生しにくいというのが、人類学の法則だ。そして、精神の自由なつながりの中から、重要な価値の伝達されることがしばしばおこる。

中沢新一の《僕の叔父さん 網野善彦》(2004)からの一節だ。家庭や学校などでは得ることのできない知見を、(子供には)素性のよく分からないおじさんが、こっそり教えてくれる。《異世界おじさん》もこの系列の作品なのだろう。

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かくいうわたしも子供の時分はゲームキッズだったが(ただし任天堂派だった)、そのうち背伸びをしたい年頃になり、ゲーム機を仕舞って映画を見るようになっていった。駅前のレンタルビデオショップで《勝手にしやがれ》(1958)を手に取ったのもその頃だ。

だが当時のわたしにはゴダールはよく分からなかった。いや、正直に言おう。今でもゴダールはよく分からない。作品はそれなりに見てきたし、映画史的な言及は部分的であれど追いつける。けれど哲学、文学、歴史、美術その他の膨大な引用やその文脈、背景、編集意図が適切に説明できるかと言えば、荷が重すぎるというものだ。

なのでここではゴダールの功績や先進性などには触れずに、ゲームやアニメしか知らないような人間がゴダールをどのように見ていたのか、それについてのみ書くことにする。

さて学生時分、わたしがもっともトガッていた頃は《ゴダールの映画史》(1998)が散発的に発表されていた時期で(全8章に渡る大作のため章ごとに分割して発表されていた)、一応は見てみるもののほとんど理解できず、しかしそれを悟られないように分かった風な顔を装っていた。だがカドも取れ、肩肘張らず作品を楽しめるようになってくると、同時に親しみが湧いてくるようになる。

ゴダールはしばしば自作に顔を出し、道化役を演じることがある。《ゴダールの映画史》でも難解な議論を展開しているにもかかわらず上半身は何故か裸というギャップがユーモラスで、「何を言ってるかは難しくてよく分からないけど、やたらと映画に詳しく、映画の楽しさをあの手この手で教えてくれる変わったおじさん」という風に映った。まるで「異世界おじさん」の先達のようではないか。

ゴダールが評価された理由のひとつに、テクノロジーへの強い興味がある。デジタル機材やオンライン上映にもいち早く対応し、《さらば、愛の言葉よ》(2014)では3Dにまで挑戦、フィルムや映画館などの形態にこだわらないラディカルな姿勢を最後まで貫いた。普通の映画監督が思いつくことはすべてゴダールが先にやっているし、流行りの動画配信主やVTuberもゴダールの子孫のようなものだ。

《ゴダールの映画史》では、我々が考える歴史とは異なる、「映画による歴史」が紡がれていく。ある程度映画史に精通していないと理解できない程度にはコンテクストが高いが、これも異世界おじさんにおけるSEGAに近しい。

おじさんは心の中にSEGAを秘めていたから、どんな苦難にも耐えられた。ゴダールの盟友だったトリュフォーは、自伝的作品《大人は判ってくれない》(1959)の通り親から見放された不良少年だったが、映画館に通い詰め、映画批評で名を成し、世界的な映画監督にまで駆け上がっていった。トリュフォーにとっての映画とおじさんにとってのSEGAは同じようなものだ。もしかしたらゴダールもそうだったのだろうか。

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ゴダール作品は悲劇的な結末を迎えるものが多い。典型的なのは、愛した女に裏切られた男が最後に死んでいく《勝手にしやがれ》と《気狂いピエロ》(1965)だろう。それ以外にも《女と男のいる舗道》(1962)、《軽蔑》(1963)、《はなればなれに》(1964)、《勝手に逃げろ/人生》(1980)などなど、主役格の人物がそれぞれに破滅していく。

だからと言って一足飛びにゴダール自身の死に結び付けたいわけではない。そもそもこうした物語形式はヌーベルバーグの監督たちが愛したフィルムノワールに基いている。ゴダールを始めトリュフォー、シャブロル、リヴェット、ロメールなどのヌーベルバーグの中核を成す監督たちは、もともとは批評家アンドレ・バザンが創刊したカイエ・デュ・シネマの執筆者だった。彼らはアメリカのフィルムノワール作品を高く評価し、自作に取り入れていった。中でも男たちを破滅に導く「運命の女」ファムファタールに、若きゴダールやトリュフォーも強く魅せられたはずだ。

そこにゴダールの破滅願望や女性遍歴を読み取るのは自由だが、わたしはこれは映画のメタファーだと思っている。ゴダールにとってのファムファタールとはアンナ・カリーナやアンヌ・ヴィアゼムスキーではなく、スクリーンの中の女たちだったのだろう。彼女たちに誘われ、現実から離れ、虚構の中に入り込んでいきたいという願望。《勝手にしやがれ》や《気狂いピエロ》の根底には、そうした心情が隠されていたのではないか。

わたしも一時期はそれなりに名画座通いをしていたし、その片鱗くらいは分からないでもない。しかし次第に映画館から足が遠のいていき、熱心にゴダールを見ていたのも《ゴダール・ソシアリスム》(2010)までで、その後は新作がかかれば見に行く程度だった。

しかしそれでも、遠いスイスの地で、今もきっと「異世界ゴダールおじさん」は理屈っぽい映画を作っているに違いないという確信はあったし、そう考えると、妙な話だが、安心できる気にさえなった。それなりに忙しい日々の中、構えずに見られるアニメやハリウッド映画を見るのが精一杯で、マジメな映画に挑戦する気力も体力もなくなったものの、かつて映画という異世界について熱っぽく語りかけてくる「ゴダールおじさん」が――スクリーンの向こう側ではあったが――いることを、忘れることはなかった。

《異世界おじさん》がどういう結末になるかは分からないが、大人になったたかふみはきっと、徐々におじさんと疎遠になり、最後に会ったのがいつだったかも忘れてしまうことだろう。そしておじさんと同じくらいの年齢になった頃、ふとあの人は今どうしているだろうと思い返す。おじさんはその時、何処にいるのだろうか。もしかしたら、ふたたび異世界をさまよっているのではないだろうか。

ゴダールが死んだと言われても、まだ今ひとつピンとこない。もともとスクリーンの向こう側の存在だったのだから当然なのだが、それ以上に、もともとこの世界の住人だったと思っていなかったからかもしれない。ゴダールは今でも何処かの異世界で、最新のデジタル機材を駆使して、小難しい映画を作っているに違いないのだ。

(2022/10/15)

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noirse
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