アレクサンドラ・ ドヴガン ピアノ・リサイタル|丘山万里子
アレクサンドラ・ ドヴガン ピアノ・リサイタル
Alexandra Dovgan Piano Recital
2022年9月26日 紀尾井ホール
2022/9/26 Kioi Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by AMATI
<曲目> →foreign language
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 作品31-2「テンペスト」
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化
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ショパン:幻想曲 へ短調 作品49
ショパン:バラード第4番ヘ短調 作品52
ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 作品22
(アンコール)
ラフマニノフ:前奏曲第12番嬰ト短調op.32-12
ラモー:クラブサン曲集と運指法より第5曲「鳥のさえずり」
ショパン: マズルカ第13番イ短調op.17-4
ベートーヴェンのソナタ『テンペスト』。その最初のアルペッジョのコードから Zis~E~ Aと昇ってゆく単音を彼女はどう弾いたか。まずもって、ドミナントコードにひとはけ薄絹の紗をかけ夢幻の世界へと誘い、その響きからひとすじひとすじと一音を紡ぎ出すのだが、それはちょうど白銀の繭から錦糸を手繰り寄せるような感じで、指先は一音の生成・減衰を細心に追いつつその一音(Zis)があたかも一つの世界で、そこからまた糸をたぐり次の一音( E)へ、また次(A)へとたぐってゆく、そんな風情。その3音の階梯は、ペダリングによる滲み、ぼかしと、あるいはタッチの変化(鍵盤に触れ、離れる時の瞬間圧力による)で、まるで虹がかかるようだった。最後の Aを彼女はそうっと中空に放ち、たったこの2小節で「これが私のベートーヴェン」と私たちに告げたのだ。
こんな『テンペスト』があるなんて。
アレクサンドラ・ ドヴガン。ロシア生まれの15歳。といえば、筆者にすぐと思い浮かぶのはキーシン15歳の日本デビューのこと(1986@昭和女子大学人見記念講堂)。その時、キーシンはショパンだけを弾いた、理由は「好きだから」。なぜ、と聞かれ「好きだということに理由をつけないといけないの。」と答えた。
筆者は天才少年少女物語には常に警戒心を抱き、大抵が、やっぱり、とか、この先どうなるか、という危惧を持ってしまう彼彼女がほとんど。だがキーシンだけは、別格だった。なんていう少年! 天賦としか言えない音の美しさと詩情。同じ会場で聴いたばかりのホロヴィッツ(ひびの入った骨董品汚名返上公演)に並ぶ、天からの贈り物。筆者はただ頭を垂れた。が、数年後、彼はステージでおかしな挙措をするようになり(何かを振り払うように頭を振る)、やたらとぶっ叩くピアニストに変貌していた。いくらそれが成長過程の一つといっても筆者には精神の不調と思われ、ああ、やっぱり、と、少年を食い物にぶち壊し消費する周囲の大人たちに怒りを感じたものだ。彼の今日の大成は、だから例外と思う。
この少女は?
冒頭2小節で震撼した筆者は、息を呑んで彼女の描き出すベートーヴェン世界を凝視し続けた。
LargoからAllegro。たっぷり時間をとり(減衰の先を見極めるに必要な)、左重音にまろやかな弾みをつけて細かいパッセージが下降する。響きの虹のアーチから、音粒がこぼれる。ユニゾンでのsfも逞しいのに割れない。この強靭さ。上体は安定、ほぼ形状を変えないままの打鍵で、だ。ロシア的轟音はみじんもない。バスの打ち鳴らし、あるいは右手の波を飛び越しての単音の煌めき。優しく、気高い。
この第1楽章で、そのピアニズムの特性がペダリングにあることを理解する。この人は、ペダルで響きを長く漂わせ続けつつその上に音をさらに加えてゆき、そのえも言われぬ波状効果が「ベートーヴェン幻想」とでもいった世界を現前させるのだ。つまり倍音への感性が傑出しているのだと思う。響きを聴くことと弾くこと、その両者(inとout)が鍵盤の上で直結、いや、同体と言うべきで、できるようでできないのがこれ。至難、が、自然、なのだ。
このペダリング、通常なら輪郭がぼやけ形がグズグズになる。が、彼女の場合、そこに新たな形(フォルム)が抽出されてきて、「私にはベートーヴェンがこう見えるの」という声が聴こえる。なるほど。作曲者は250年後のこの音景に目を見張り、涙を浮かべるに違いない。こんなふうに弾いてくれるなんて。
一方で筆者は思った。ベートーヴェンの凄さを。たぶん500年後も、新しい景色をこの作曲家の作品は生み出すに違いないと。それが音楽というものの凄さだ、とも。
第2楽章はなんといっても低音、あるいは高音の素早い三連符の鳴らし方がチャーミング。低音の深鳴りと高音のクリスタルな輝きの対比の妙にゾクゾクする。
終楽章のAllegrettoは、いつだかアルゲリッチで聴き、その流れの疾さがまとう哀色に、心穿たれ、締めつけられる想いをしたが、この少女は透明に澄み切った波の寄せ引きで聞き手を巻き込むのであった。ハーモニーの変化に移ろう色調の染め具合はパステルカラー。この年齢の持つ香気と光輝が薄霧のように降り注ぐ。一方で装飾音とともに打ち出される搏動での独特のノリ、あるいはディナミークのギアチェンジの大胆さにはいかにも今風のテイストが感じられる。
テンペストって別段ドラマティックに「盛る」作品じゃなくて、シンプルにそのまんまで美しい作品なんだ、と言わんばかり。
つまりその音楽が内包する古典〜ロマン〜現代にまで至る「テンペスト幻想物語」を彼女は描き、語ったのだ。それは優美で、みずみずしくて、筆者はこの1曲でもう充分、彼女は天からの贈り物、と思ったのだった。
が、続きがあった。
シューマンで筆者はやや違和感を持ち始めた。錯綜する音の動きの捌き方がワンパターンに聴こえる。
後半のショパン3曲で、それはもっと大きくなった。
ベートーヴェンをあんな風に弾いて見せた彼女、新しい像を結んだ彼女はどこに行ったのか?
ペダリングの魔術とか、ギアチェンジの巧みとか、音色の多彩とか、もちろん旋律の歌わせ方とか、ベートーヴェンで彼女が示したあらゆる美点はもちろんそこここに見出された。
でも。
要は、わかってしまう、語りの先が読めてしまうのだ。ここでこう来る、とか、こうなる、とか、彼女の言い回しやツボみたいなものがあって、そこに見事にハマってゆく、そのハマった時の彼女の快感さえ、手に取るように見通せる。そんな感じだ。
さて、この先を今、言葉にするのは難しい。
ただ、ツボ(勘所)に来た来た感を持ちつつ、そこに音楽のアニメ化のような印象をもったことは書き留めておきたい。アニメ化、とは別段、貶める意味ではない。ロシアにおけるアニメ人気は、フィギュア・スケーター、メドベージェワの『美少女戦士セーラームーン』演技でも知れよう。日本のPOPカルチャーが彼の国の青少年にも大きな影響を及ぼしていることは確かで、近年の一番人気は『鬼滅の刃』、そのほか『この素晴らしい世界に祝福を!』『進撃の巨人』『約束のネバーランド』などが並ぶという。
小さい頃からアニメキャラクターやストーリー、音楽に親しむ世代の中に彼女も居る。むろん、その日常にアニメがあるかどうか筆者は知らない。ただ彼女とて社会と隔絶して育てられたわけではなく、同世代の空気感、今風に言えば世界観を共有している部分があるだろう。『テンペスト』の新しさと、後半での音楽作りを考えるに、シューマンにしろショパンにしろ、また別の筆致で、語りで、描こうとしているのではないか、とそんな気もする。
例えばアニメの持つ輪郭の強調や誇張、背景の省略、そしてツボにはまる的流れの創出....。
ここはゆっくり考えを深めたいと思う。
プログラムを終えてのステージで。
ロシアのフィギュア・スケーターと同じように細く、真っ直ぐ生真面目な表情で挨拶する彼女に、むろん筆者も惜しみない拍手を送ったが、わずかな笑みを浮かべ袖に引っ込む背になんだか少し胸がつまる。キーシンのソビエト時代と今はずいぶん違うだろう。けれど全く変わらなくもあるだろう。さらにこの今。
天からさずかったこの少女が、自由に、音楽の中で楽しく遊べるよう、羽搏けるよう、切に願うばかりだ。
アンコールを3曲も弾いたが、ラモーでの即興性に『テンペスト』と通じるものを感じた。最後の『マズルカ』こそ、この少女の魂の深部での共震があえかな歌になり、筆者は、やっぱりこれなんだ、これが彼女のおおもとだろう、ともう一度そっと拍手を送ったのだった。
(2022/10/15)
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<Program>
Beethoven: Piano Sonata No. 17 in D minor, Op. 31-2 “Tempest”
Schumann: Carnaval de Vienne, Op.26
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Chopin: Fantasie in F minor, Op.49
Chopin: Ballade No. 4 in F minor, Op.52
Chopin: Andante spianato et grande polonaise brillante, Op.22
(Encore)
Rachmaninoff: Prelude No. 12 in G sharp minor, op.32-12
Rameau: Pièces de clavecin avec une mèthode sur la mècanique des doigts “Le rappel des oiseaux”
Chopin: Mazurka No. 13 in A minor op.17-4