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プロムナード|フルートと私|大河内文恵

フルートと私
Flute and I

Text by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
写真提供:東京藝術大学演奏藝術センター

これまでの人生の中で1年間だけフルートを吹いていた時期があった。というと察しのいいかたには大方予想がつくだろうが、大学の副科で1年間だけフルートを履修していた。フルートを選んだのは、至極いい加減な理由で、管楽器を体験してみたい、ついてはできるだけ持ち運びが簡単で、難しくない楽器をと選んだのがフルートだった。

副科を履修するには、学期始めに担当の先生との面談をクリアしなければならない。楽器によっては、その場で楽器を渡されて吹いてみて音が出なければ履修させてもらえないとか、希望者が多過ぎると選考があるとか、そんな噂を聞いていたので、ドキドキしながら面談に行ったのだが、今となっては何を話したのかも思い出せないくらい、あっさりとOKが出て拍子抜けしたことだけを覚えている。

小学校の音楽の時間のリコーダーしか管楽器経験のない無知な大学生(=私)は、フルートがどんな楽器なのか、まったくわかっていなかった。まず音が出ない。おそらく面談のときにも音は出なかったはずで、「そのうち出るようになるよ」と言われたような記憶がうっすらとある。それにしても音が出ない。同時に履修した人が2~3人いたような気がするが、他の人はあっさり出るようになったのに、いつまでも出ない。何回目かのレッスンでようやく音らしきものが出るようになったものの、結局1年間やっても安定した音が出せるようにはならなかった。(今から思えば、たった1年で上手くなる道理はないのだが。それでも、見るのとやるのは大違いであることを実体験できたのは、後の自分に大いに役に立っている。)

そんな超劣等生に、声を荒げるでもなく、イライラする様子もなく、ときに冗句を交えながら(それが全く理解できなくて、若くて物知らずだった当時は困惑したのだが)、丁寧に付き合ってくださった先生が川崎優先生だった。1年間の最後の試験の時に、あまりにも音が途切れ途切れなので、試験官の先生(別の先生)が「ちょっと貸してみて」と私の楽器をとって吹いてみたら、素晴らしい音が出て「なんだ、ちゃんと音出るじゃない」とおっしゃり、立ち会ってくださっていた川崎先生にも恥をかかせてしまった。

フルートには良い思い出がない黒歴史そのもので、長い間封印し、自分でも忘れていた。ところがあるとき、能登原由美著『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』を読んでいたら、川崎先生の話が出てきて驚いた。私にとっては1年間フルートを教えてくれた先生というだけだった川崎先生が、じつは被爆者で作曲家でもあったなんて、まったく思いもしなかった。

つい先日(8月6日)、東京芸術大学内のホールでおこなわれた「戦没学生のメッセージ」と題するコンサートで、川崎先生の作品が演奏された。2017年からほぼ毎年、「戦没学生」をテーマに続けられてきたこのシリーズは、今年は第2部を「沖縄本土復帰50年、そして『原爆の日』」として、東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の出身者で原爆とかかわりのあった人々の作品が演奏された。

川崎先生は作曲家として活動するようになっても、被爆者であることを表に出さず、広島の平和祈念式典のための作曲依頼も断っていたという。前掲書によれば、それは「被爆を売り物にしたくない」ためだった。被爆30周年になってようやく依頼を引き受けて出来上がった曲が、毎年8月6日におこなわれる広島での平和祈念式典で流れる《祈りの歌第1「哀悼歌」》である。

川崎先生が被爆者だと知って、急に脳裡に蘇ってきた光景がある。それは先生の耳のあたりにあったおおきなケロイド。当時とても気になっていたけれど、「先生、それどうしたんですか?」とはどうしても聞けなかった。レッスンのときには、いつも明るく、軽口を叩きながらだったから、直観的になにか重いものが隠されているように感じて気後れしていたのかもしれない。

《春夏秋冬》

上記のコンサートの前半には、川崎先生の師であった鈴木正三が戦地から妻に宛てて4枚の葉書で書き送った歌《春夏秋冬》に、川崎先生が伴奏付けをしたものが演奏された。素朴な旋律にちょっとだけ捻りを入れた洒落っ気(茶目っ気)のある伴奏の音楽は、私の知っている川崎先生の像に近い。

しかし、第2部で演奏された《祈りの曲第7「いく星霜すぎるとも」》と《祈りの曲第4「祈り」》のもつ悲痛さ、重々しさは、私のまったく知らない側面だった。それは、被爆者である素振りを全くみせなかった先生の見えていなかった一面とぴたりと重なる。能登原氏は、川崎先生について「『被爆者』と『作曲家』という二つの身体」という表現で「被爆者を売り物にしたくない」という言葉を読み解いているが、それは、被爆者の作曲家としての面と、明るく剽軽な川崎先生という正反対にもみえる二人が川崎先生の中に同居していたということにもシンクロする。

人は多面的存在である。そんな当たり前のことが当たり前でなくなる世の中になってはいけない。フルートを吹けるようにはまったくならなかったけれど、川崎先生との出会いは、数十年たって、思いもしなかったものを私に投げかけてくれている。

(2022/8/15)