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シリーズ『新しい視点』「ダブルポートレイト・フォー・マリンバ・アンド・ザ・フューチャー」|加納遥香

シリーズ『新しい視点』「ダブルポートレイト・フォー・マリンバ・アンド・ザ・フューチャー」
Kanagawa Prefectural Music Hall Series New Perspective, Double Portrait for Marimba and the Future

2022年7月10日 神奈川県立音楽堂
2022/7/10 Kanagawa Prefectural Music Hall
Reviewed by 加納遥香(Haruka Kanoh)

Photos by ヒダキトモコ/写真提供:神奈川県立音楽堂

<曲目・演奏>        →foreign language
一柳慧:『共存の宇宙』マリンバとピアノのための
マリンバ:小森邦彦、ピアノ:岡本麻子
アレハンドロ・ヴィニャオ:『リフ』マリンバとピアノのための
マリンバ:小森邦彦、ピアノ:岡本麻子
一柳慧:『アクアスケープ』独奏マリンバ、フルート、ピアノ、2人の打楽器奏者のた めの
N Percussion Group(マリンバソロ:岩間美奈、打楽器:森次侑音、渡邉倖大)、 フルート:橋本岳人、ピアノ:岡本麻子
アレハンドロ・ヴィニャオ:『フィナル・デ・フレッセ』フルートとクラリネットと打楽器とエレクトロニクスのための(世界初演)
打楽器:小森邦彦、フルート:橋本岳人、クラリネット:ブルックス信雄トーン、エレクトロニクス:アレハンドロ・ヴィニャオ
一柳慧:『風の軌跡』3人の打楽器奏者のための
N Percussion Group(岩間美奈、小林美里、森次侑音、渡邉倖大)
アレハンドロ・ヴィニャオ:『ストレス アンド フロー』より「ブライト アンド ダーク」打楽器カルテットとエレクトロニクスのための
N Percussion Group(岩間美奈、小林美里、森次侑音、渡邉倖大)、エレクトロニクス:アレハンドロ・ヴィニャオ
(アンコール)
アレハンドロ・ヴィニャオ:『南に向かう3つの歌』より第2楽章「広大なパンパで」、第3楽章「チャカレーラ」
マリンバ:小森邦彦、ギター:谷辺昌央、ダブルベース:渡邉玲雄

 

2022年に神奈川県立音楽堂は、公募プログラム〈紅葉坂プロジェクト〉と音楽堂のプロデュース企画の二本立てから成る新シリーズ「新しい視点」を立ち上げた。今回筆者は後者の企画である「ダブルポートレイト・フォー・マリンバ・アンド・ザ・フューチャー」に足を運んだ。アレハンドロ・ヴィニャオ氏と一柳慧氏の多彩なマリンバ作品を紹介する公演だ。
マリンバという楽器の起源は、かつてアフリカで誕生した、木の棒の下に瓢箪をつけて共鳴させる楽器バラフォン/マリンバにある。奴隷とともに南米にもちこまれ、グアテマラのセバスチャン・ウルタードという人物が1894年に瓢箪を木製パイプに変えたことで、現在のマリンバの原型ができたという。1910年からはアメリカでもマリンバが生産され、金属パイプをもち、ピアノと同じ配列をもつマリンバが生まれた(長尾・川俣 2009:180)。民族楽器であり、クラシック音楽にも用いられ、また歴史は長くなく現代性、同時代性をもつ鍵盤打楽器である。
マリンバにもその作品にもあまり親しみがなかった筆者だが、事前に県立音楽堂ウェブサイトで公開されたPR動画のなかで「ヴィニャオさんや一柳さんの音楽に明るくなかった方でさえ、今回ファンになっていただける」というマリンバ奏者・小森邦彦氏の言葉を聞き、どんなものだろうかと楽しみに会場を訪れた。プログラムは全6曲、一柳氏とヴィニャオ氏の作品が交互に紹介される構成であった。以下ではまず、筆者が演奏を聴き、感じ、考えたことをプログラムの順序にしたがってつづり、最後に本公演での筆者の発見に言及したい。

***

第1曲目の一柳氏作曲「共存の宇宙 マリンバとピアノのための」は、弱音からはじまり、不穏でありながらどこか心地よい響きがホールを満たす。反復があり、混沌があり、そして収束していく。小森氏のマリンバがつくりだす軽く丸みのある音の粒が高層部に広がるとすれば、岡本麻子氏のピアノの音色は相対的に粘度が高く、低層部に流れゆく。マリンバとピアノ、それぞれが大きな層をつくることで空間的広がりを生みだしていく。
それに対して第2曲目のヴィニャオ氏作曲「『リフ』~マリンバとピアノのための」では、2つの楽器の音がより細かく絡みあい、1つのラインをなしている印象を受けた。「共存の宇宙」が宇宙なのだとしたら、この作品は河と喩えられるだろうか。勢いがあり、前のめりで、不可逆な時間性を思わせる。終盤、勢いはさらに増し、まるで何かに追われているかのような緊迫感をもって終結。最初から最後まで、「私をどこへ連れていってくれるのだろう?」という胸の高鳴りが絶えない演奏であった。
第3曲目は再び一柳氏の作品で、「アクアスケープ 独奏マリンバ、フルート、ピアノ、2人の打楽器奏者のための」。冒頭フルートからはじまり、ピアノ、マリンバ、打楽器、と徐々に増えていく。5つのパートが絡みあい、盛り上がり、いったん落ち着いてから再び高揚する。この高揚のなかで、打楽器の躍動感が最大限に発揮される。クライマックスを迎えたあと、マリンバの小粒の音たちとそれを包み込む他の楽器をもって、優しく終わりを迎える。打楽器を演奏したのは、マリンバ音楽を「継承」していく次世代として小森氏が大きな期待を寄せる若手打楽器四重奏団N Percussion Groupであり、本作品で岩間美奈氏が生みだすマリンバの音の表情の豊かさには心を打たれた。
休憩をはさんで第4曲目は、今回が世界初演となるヴィニャオ氏作曲の「『フィナル・デ・フレッセ』~フルートとクラリネットと打楽器とエレクトロニクスのための」。パーカッション、フルート、クラリネット、さらにこれらの音をリフレインするエレクトロニクスが加わる。演奏者たちの左右に大きなスピーカーが設置され、エレクトロニクスの音はそこから発される。
プログラムに掲載されたヴィニャオ氏自身の曲解説によれば、フルートのシンプルな2音からはじまり、それが様々なフレーズ、メロディに変形、変化しながら主題として繰り返し提示され、そして「常に虚しい空間に戻ってくる」。「各フレーズの終着点に配置された空虚な響きが曲の『ホーム』にあたる。しかし、この『ホーム』は最終の到達点でも休息地でもなく、空の空間で反復とともに新たな色彩が引きだされ、異なる方向性が示唆される、不確かな場所となっている」。筆者はこの演奏を聴き、この作品においてエレクトロニクスが、「ホーム」を静(到達点、休息地)から動(出発点)へと展開させるための、不気味さに満ちた動力となっているように感じた。というのも、エレクトロニクスの音が、まるでどこか異世界(あの世か、宇宙か、はたまた超自然的な次元か)からの交信かのように響き、舞台上の演奏者たちが抗うすべなくそれに応えることで音楽が進行しているようなのだ。
この異様な感覚は、舞台上で楽器を鳴らしていないのに楽器の音が聞こえてくるという、聴覚と視覚の不一致による違和感から生みだされたものであった。その時々に鳴り響く音が、舞台上の演奏者によるものなのか、それともスピーカーから発されるものなのかという一瞬一瞬の困惑が積み重なって違和感が増幅し、上記のような感覚に至ったのである。この現象は次のように考えられるだろう。舞台上では、人間の身体の動作が可視化された演奏と、不可視なスピーカーからの音が組み合わされる(エレクトロニクス音の操作は照明が落とされた暗い客席中央で行われていた)。それを前にする聴衆と音楽の関係性は、寺前(2017)の表現を借りれば、前者は「近代的な音楽コミュニケーション」、後者は「現代的な音楽コミュニケーション」である1)。この作品で両者は完全に融合せず、一方が他方に勝ることもなく、終始絶妙に均衡状態を保ちながら共存することで、そのはざまにおかれた筆者の耳、眼、感覚を揺さぶったのである。
第5曲目は一柳氏作曲「風の軌跡 3人の打楽器奏者のための」。N Percussion Groupの3名それぞれがマリンバとヴィブラフォンで生みだす音は、自由自在に飛び跳ねながらも空中で出合い、同じ強度で互いに支え合い、引っ張り合い、均衡を保ちながら、音楽の時空をつくりだす。その響きを結晶化するかのように、ときにアンティーク・シンバルの高音が鳴り響く。
この作品を通して筆者が抱いたのは、音たちがつくりだす音楽の立体空間の中心点に入り込んでみたいという欲望と、しかしどうしても、それを外から「眺める」ことしかできないもどかしさであった。記憶を頼りにその要因を後日考えてみたのだが、一つは演奏者たちの位置関係にあったように思われる。舞台上で演奏者たちは、観客席に対面するように正面を向くというより、3名が互いに向きあう位置関係にあった。そのために、3者の音は均整のとれたひとつの音楽の立体空間をつくりだすが、聴衆にとって、包み込まれたり投げかけられたりするというより、客体的に「眺める」感覚が強調されたのである。もし、たとえば聴衆が演奏者たちを囲むように座っていたら、聴取体験は全く異なっていたのではないかとも思う。第4・5曲目での筆者の体験については、本稿の最後に改めて触れたい。
最後の曲は、ヴィニャオ氏による「ストレスアンドフロー」より「『ブライトアンドダーク』打楽器カルテットとエレクトロニクスのための」だ。リズミカルで躍動感があふれる作品で、ヴィニャオ氏の解説を頼りに記すと、第一主題、第二主題、第三主題が順に提示され、互いに結びついていくことで、作品全体としてシンプルからコンプレックスへと展開する。筆者の所感としては、コンプレックスといえども、まるでジグゾーパズルのピースのようにリズムとテーマがぴったりと組み合わせられていくため、難しさやわかりにくさはなかった。わかりやすいシンプルな状態から徐々に複雑化することで聴衆を導く、というヴィニャオ氏の戦略が成功していたといえるだろう。
この作品で打楽器の躍動を後押しするのがエレクトロニクスの音響だ。ビートのような響きが生の音を励まし、弾ませ、勢いを与える。不気味さを醸しだした「フィナル・デ・フレッセ」とは反対に、ここではエレクトロニクスが快感を増幅させる。生の音と電子音が生みだす躍動感、念入りな設計による聴きやすさにより、筆者の身体が徐々に弾みはじめる。
全6曲のプログラムが終わり、最後にアンコールとしてヴィニャオ氏作曲「南に向かう3つの歌」が演奏された。この作品でマリンバとアンサンブルをするのは、本公演で初登場となる弦楽器のクラシックギターとコントラバスだ。張りのあるギターの響き、コントラバスの短く深みのある低音とのコンビネーションでつくりだされるマリンバ音楽には、他の作品とは異なった世界が広がる。また、ヴィニャオ氏によれば、普段は用いないアルゼンチンのリズムを用いたというが、それがわかりやすいエキゾチシズムにつながるわけではない。本公演で紹介されたヴィニャオ氏、一柳氏の他の作品にも通ずることではあるが、複数のジャンルの融合というより、非・ジャンル的な音楽といったほうが的を射ているように思われる。

***

さて、ここまでの記述で明らかなように、本公演で筆者は、マリンバがそのほかの楽器やエレクトロニクスとともに生みだす音楽を、クラシック音楽、現代音楽、ポピュラー音楽、民族音楽、電子音楽等々の枠組みにとらわれることなく、非・ジャンル的な音楽として愉しむことができた。それは作曲家のアイデアと技量、演奏家たちの技術と表現力、冒頭で述べたようなマリンバという楽器自体の越境性や混淆性の相乗効果であり、さらにいえば、その音楽を体験した筆者が、いい意味でも悪い意味でも「無知」であったことが手助けをしたかもしれない。
筆者はまた、第4・5曲目について述べたように、違和感やもどかしさも感じとった。ここで精緻な分析はできないが、この感覚を生じさせた装置のひとつがコンサートホールという場であろう。本公演が実施された県立音楽堂は、舞台と客席が向かい合う「対向型」(清水 1985: 23)のホールであり、演奏中、舞台がライトアップされる一方で客席のライトは落とされる。ホールの設計と演奏時の演出ゆえに、客席にじっと座る聴衆の視線は舞台に、耳はそこから鳴り響く音に集中し、「集中的聴取」(渡辺 2012: 78)へと促される。実際筆者はなんの疑問ももたずに、この姿勢で演奏を聴き、舞台を見て、演奏を感じとろうとした。しかしエレクトロニクスの使用により視覚と聴覚にずれが生まれ、演奏者と聴衆が向きあうという構図が崩されることでホール内での両者の関係はアンバランスになる。それにより、演奏、聴取、それが行われる場の関係が、問いかけられたのである。
シリーズ「新しい視点」は今年始動したばかりである。公演プログラムに掲載された県立音楽堂からの挨拶文には、次のように記されている。

 「新しい」ということは必ずしもいわゆる現代音楽をさすとは限りません。古典的なレパートリーを見つめなおし、これまで気づかれなかった魅力や価値を深く掘り下げ、音楽表現のあり方や聴衆と音楽の新しい関係を拓く発見をもたらすものであればよいのです。その意味で、普遍性に到達するまで掘り下げられた優れた音楽表現は、全て何らかの「新しい視点」を持つともいえるのかもしれません。

今後、「新しい視点」を探究する方法は無数にあるだろう。そのなかで、県立音楽堂の存在理由であり、このシリーズの舞台であり続けるこのホールを、意識的に、さまざまな音楽、作品、楽器、演奏者、聴衆などとさまざまな形で反応させていくことは、音楽のあり方を模索するひとつの方法であるだろう。そしてそれは、コンサートホールの、そしてコンサートホールでの音楽経験のさらなる可能性を切り拓くひとつの切り口になるのではないだろうか。

  1. 寺前典子によれば、「近代的な音楽コミュニケーション」は、記譜法、楽器、音律の合理化、そして音楽の演奏空間が修道院、宮廷やサロンからコンサートホールへと変容する過程で作曲家、演奏家、聴き手の立場が分化されて出来あがった(寺前 2017: 141-2)。ここでの演奏は「人間の身体を用いて行われ、その生のあり方を表現し、それは歌ったり手足を叩いたりといった原初的な表現の延長線上にあった」(寺前 2017: 145)。それに対し、録音再生技術や電子楽器などの電気的なテクノロジーが介入する「現代的な音楽コミュニケーション」は、近代西洋音楽の合理化の理念の延長線上にあるものの、創作の理念、発音の原理、演奏会場などはクラシック音楽とのそれらと異なっている(寺前 2017: 145, 147)。

(参考文献)
清水裕之、1985、『劇場の構図』、鹿島出版会。
寺前典子、2017、『リズム(身体感覚)からの逃走:音楽の現象学的・歴史社会学的研究』、晃洋書房。
長尾泰・川俣隆、2009、『楽器の事典』、ナツメ社。
渡辺裕、2012、『聴衆の誕生:ポストモダン時代の音楽文化』、中公文庫。

関連評:神奈川県立音楽堂 シリーズ「新しい視点」ダブルポートレイト・フォー・マリンバ・アンド・ザ・フューチャー|齋藤俊夫

(2022/8/15)


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<pieces & players>
Toshi Ichiyanagi: Cosmos of Coexistence for marimba and piano
Marimba: Kunihiko Komori, Piano: Mako Okamoto
Alejandro Viñao: “RIFF”for marimba and piano
Marimba: Kunihiko Komori, Piano: Mako Okamoto
Toshi Ichiyanagi: Aquascape for solo marimba, flute, piano and percussionists
N Percussion Group (Marimba solo: Mina Iwama, percussion: Aruto Moritsugu, Kota Watanabe), Flute: Taketo Hashimoto, Piano: Mako Okamoto
Alejandro Viñao: “Final de Frase”for flute, clarinet, percussion and electronics(World Premiere)
Percussion: Kunihiko Komori, Flute: Taketo Hashimoto, Clarinet: Brooks Nobuo Thon, Electronics: Alejandro Viñao
Toshi Ichiyanagi: Wind Trace for three percussionists
N Percussion Group (Mina Iwama, Misato Kobayashi, Aruto Moritsugu, Kota Watanabe)
Alejandro Viñao: ‘Bright and Dark’ from “Stress and Flow” for percussion quartet and electronics
N Percussion Group (Mina Iwama, Misato Kobayashi, Aruto Moritsugu, Kota Watanabe), Electronics: Alejandro Viñao
(Encore)
Alejandro Viñao: ‘CANTO II: en la pampa inmensa’, ‘CANTO I: chacarera’ from “Tres Cantos Mirando al Sur” for marimba, guitar, and double bass
Marimba: Kunihiko Komori, Guitar: Masao Tanibe, Double Bass: Reo Watanabe

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加納遥香(Haruka Kanoh)
一橋大学社会学研究科特別研究員。博士(社会学)。専門は地域研究、音楽文化研究、グローバル・スタディーズ等。主な地域はベトナム。修士課程、博士後期課程在籍時にはハノイに滞在し留学、調査研究を実施し、オペラをはじめとする「クラシック音楽」を中心に、芸術と政治経済の関係について領域横断的な研究に取り組んできた。