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Books|「知」の欺瞞|齋藤俊夫

「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用
Fashionable Nonsense:Postmodern Intellectuals’ Abuse of Science

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著
by Alan Sokal and Jean Bricmont
田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹 訳
岩波現代文庫
2012年発行(原著1998年)

Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

1996年、本書著者2人、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンがアメリカのカルチュラル・スタディーズ誌『ソーシャル・テクスト』に「著名なフランスやアメリカの知識人たちが書いた、物理学や数学についてのばかばかしいが残念ながら本物の引用を詰め込んだパロディー論文」(本書ivページ)をパロディー論文であることを隠して投稿し、それが掲載された。その後2人は掲載された論文がパロディー論文であることを公表。この事件が当時既に始まっていた科学者と科学論者による「サイエンス・ウォーズ」中最大の世界的知的スキャンダルとなった。
本書は1997年フランスで世界初版発行、2000年に邦訳初版発行。英語版の初め(1998年)のタイトルは”Intellectual Impostures”(知的ペテン)だったが、その後”Fashionable Nonsense”(当世流行馬鹿噺、この訳語は本書による)と改題された。これら2つのタイトルに既にポストモダン言説とそれを駆使する者らへの著者たちの態度が示されていよう。
挙げられたラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリヤール、ドゥルーズとガタリ、ヴィリリオといった現代ポストモダン哲学・思想界の錚々たる面々(だと思う)の文章に現れる科学的用語の使用法が、いかに科学的に破綻し意味を成していないかを精査した本論を読むと……ポストモダン哲学・思想家たちの文言が予想以上にヒドイ。参考までにドゥルーズとガタリによる『千のプラトー』の一節を本書235頁から引用してみよう。

すべての部分がひとつの有限な条件に支配されている宇宙の総体のなかで、〈定数―限界(リミット)〉は、それ自体[さらに]ひとつの関係として現れる場合がある(運動量、力の量、エネルギー量……)。そのうえ、関係の諸項が指し示すいくつかの座標系が存在しなければならない。したがって、外部フレーミング、あるいは外部―準拠が、限界(リミット)の第二の意味である。というのも、あらゆる座標系の外にあるもろもろの元―限界(プロトリミット)は、諸速度のもろもろの横座標(アプシス)――すなわち、連係可能な(コオルドナブル)[座標軸になりうる]諸軸がそれにもとづいて打ち立てられるその横座標(アプシス)――を産みだすからである。粒子は、位置、エネルギー、質量、スピン[粒子の角運動量]の値をもつだろう――ただし、その粒子が、物理的存在あるいは物理的現働性(アクチュアリテ)を受けとるかぎりにおいての、あるいは座標系において把捉されうるであろう諸軌道のなかに「着地」するかぎりにおいての話である。

少なくとも評者にはこの文章が何を言わんとしているのかはわからない。現代思想というのはかくも詩的に科学用語を散りばめるものなのか。そういえば宮沢賢治にもこのように科学用語を多用した詩があった。まず間違いなく言えるのは、この引用箇所の科学用語は元の科学用語とは全く違う意味を持っているということで、さらに、もしかするとこれらの用語にはなんの意味もないのかもしれない(すなわち「ナンセンス」)。著者たちはこのような科学用語の濫用を知的ファッションだと断罪する。
しかし何のためのファッションなのだろうか? 著者たちは最終章においてこのファッションがはびこる原因をまとめているが1)、評者はこの問題について少々深く論じてみたい。

本書で強く批判されるのが「認識的相対主義」である。これは科学的事実を含めた客観的な事実の存在を認めず、全てのものが主体の認識の仕方によって異なる相対的なもの、「言説」であるとする主義である。だが科学を相対化可能な主観的言説とみなすこの認識的相対主義は、その言説自身の相対性を覆い隠すために、本書で批判されたように恣意的に捻じ曲げられた「科学的言説」を、事実に基づいた本来の科学が持つ客観性と権威のために利用する。認識的相対主義者にとっては全てが相対的であるが、その相対主義があまねく支配した世界の中でも、彼ら自身の言説のみは「科学的言説」の力によって客観的、科学的、さらには権力的に正しい地位を占めることになるのだ。そのような認識的相対主義が全体化した社会とは、全てが相対化されることによる自由な(?)社会ではなく、「相対主義に基づく絶対的客観的事実」という矛盾した、しかもそれが相対主義に基づくがゆえに「科学的に検証不可能な事実」が権力によって決定され、権力の支配の手段となるという全体主義社会である。それは本書初出頃から徐々に世界が陥ってきてしまった「ポスト・トゥルース」社会のことである、と言っても差し支えないであろう。

原著は20年以上昔の本であるが、その提示した問題の射程は今なお十分にアクチュアルな、まさに現代の古典と言えよう。ただし、本書で批判されたポストモダン思想畑の人々にどれくらい影響があったのかはわからないが。

最後に、本書は本論の他に『ソーシャル・テクスト』誌に掲載されたパロディー論文が丸ごと収録されている。評者のお勧めの読み方は「パロディー論文をまず読む(この時点では何がなんだかほぼわからないはず)」→「本論を全部読む」→「パロディー論文を改めて読む(本論を読んだ後だと著者たちの意図と仕掛けがわかる)」である。

1)最終章(12章)エピローグ(270-313頁)では「どうしてこうなったのか?」の見出しの後、以下の原因が挙げられている。
  1.経験的事実の無視。
  2.社会科学における科学主義。
  3.自然科学の威信。
  4.社会科学における「自然な」相対主義。
  5.哲学や文学の伝統的な教育法。

(2022/8/15)