Menu

荘村清志 福田進一 鈴木大介 大萩康司《DUOxDUO》|齋藤俊夫

DUOxDUO

2022年6月25日 トッパンホール
2022/6/25 TOPPAN HALL
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール

<演奏>        →foreign language

(全てギター奏者)
荘村清志
福田進一
鈴木大介
大萩康司

<曲目>
カルリ:『対話風小二重奏曲』よりラルゴとロンド Op.34-2(荘村、大萩)
ポンセ(サラーテ編):『間奏曲』(鈴木、福田)
ポンセ(サラーテ編):『スケルツィーノ・メヒカーノ』(福田、鈴木)
メンデルスゾーン(リョベート編):『無言歌集』第4巻より〈浮き雲〉Op53-2(福田、荘村)
ジャン=マリー・レイモン:『ミッドナイト・メモリーズ』(福田、荘村)
ピアソラ:『タンゴ組曲』より第2楽章アンダンテ 第3楽章アレグロ(鈴木、大萩)
休憩
武満徹(荘村清志/鈴木大介編):『不良少年』(鈴木、荘村)
武満徹(鈴木大介編):『どですかでん』(荘村、鈴木)
アルベニス(リョベート編):『椰子の木陰で』(鈴木、大萩)
タレガ(サグレラス編):『アルハンブラの思い出』(鈴木、大萩)
フォーレ(佐藤弘和編):組曲『ドリー』より〈子守唄〉〈ドリーの庭〉(福田、大萩)
ヴィヴァルディ:『2台のマンドリンのための協奏曲』ト長調RV532より第2楽章アンダンテ(荘村、福田)
カステルヌオーヴォ=テデスコ:『エレジー風フーガ』(荘村、福田)
ローラン・ディアンス:『ハムサ』より第5楽章〈チュニス・チュニジア〉(4人)
(アンコール)
ビゼー(カネンガイザー編):『カルメン組曲』より〈ハバネラ〉〈闘牛士〉(4人)
作曲者不詳(鈴木大介編):『禁じられた遊び』(4人)
スタンリー・マイヤーズ(鈴木大介編):『ディア・ハンター』より〈カヴァティーナ〉(4人)

 

(まだ6月なのに)真夏の暑さから逃れて涼を味わうように存分にギターデュオの妙技を聴き、心からの満足を得て、さて批評を書こうとしてつまずいた。ギター音楽の本質とは何だろうか? ギターという楽器のギターたる所以はどこにあるのだろうか? 考えれば考えるほどわからなくなっていく。

例えば前半の前4曲、カルリからメンデルスゾーンの音楽の(本質主義的形容ではあるが)女性的なありようと、レイモンとピアソラの男性的なあり方では音楽の性格が正反対ではないか?
カルリ『対話風小二重奏曲』の(これまた本質主義的物言いだが)母性的な、いや、少女趣味的とでも形容できる甘さと優しさ。ポンセ『間奏曲』のひそやかな哀切……まるで失恋の思い出のよう。ポンセ『スケルツィーノ・メヒカーノ』の暖かな(暑くない)陽光で包むような優しさ。メンデルスゾーン『無言歌集』〈浮き雲〉の家庭的なぬくもり。
これら〈女性的〉なギターデュオに対して、レイモンとピアソラはどう聴こえたかというと……レイモン『ミッドナイト・メモリーズ』は完全にハードボイルドの世界。男の後ろ姿。ギター2人で旋律の受け渡しをするのは酒を酌み交わすかのよう。渋みと哀愁とほろ苦い含羞。まさに〈男〉の世界の音楽。ピアソラ『タンゴ組曲』第2楽章は(またステレオタイプ的視点だが)たくましいアルゼンチン男の悲嘆。男の涙。第3楽章は泣きながら歌い、踊る、男の激情のほとばしり。
ギターは女性的なのか? 男性的なのか? 楽器に男女の別なし、だろうか? 本当にそう言い切れるだろうか? 女性的・男性的という本質主義的形容がそもそも成り立たないと言われればそこまでだが、筆者のような(日本人で中年の)人間はどうしてもこの思考の枠組みから逃れることができない。そして、ギターとは何か?とまた考えざるを得ない。

後半、武満の『不良少年』は寂しさにそっと寄り添ってくれる、それゆえに孤独な、独りきりの音楽。さびしんぼうはさびしんぼう同士で寄り添い、それでもそれぞれが独りきり。同じく武満『どですかでん』はメロディーメーカー武満の諸作の中でも最も単純だが、心に沁みるメロディー。子供の姿が見える。武満2曲は〈切ない〉ギター曲だった。おや、この〈切なさ〉はギターの本質に限りなく近づいてはいないか? か細く爪弾かれるギターのあの音の連なりには切なさというものが常につきまとっていはしないか? そう考えると、アルベニス『椰子の木陰で』の南国的陽気さの中にも憂いに満ちた切ない表情がうかがえるし、タレガの超有名曲『アルハンブラの思い出』の寂しさ、哀感もまた切ないし、フォーレ『ドリー』より〈子守唄〉〈ドリーの庭〉に映し出される少女ドリーの姿を見つめていると我々は失われた幼少期を想起して切なくなる。やや異質なのはヴィヴァルディ『2台のマンドリンのための協奏曲』第2楽章とカステルヌオーヴォ=テデスコ『エレジー風フーガ』の、対位法による器楽的構築美であるが、これらの作品でもギターの哀切な調べには確実に切なさが宿っている。
となると、ギターとは切ない楽器、なのだろうか、と考えてしまうかもしれないが、プログラム最後のディアンス『ハムサ』第5楽章〈チュニス・チュニジア〉のギターのボディを叩く奏法に始まり、オリエンタルな音楽が少なからずグロテスクな風情で奏でられ、手拍子も入り、最後には「ヘイ!」の掛け声で終わるその音楽に切なさは宿っていただろうか……?

ギターとは何か、という問いかけは無意味なのだろうか、解答はないのだろうか?
しかし、アンコールでビゼー『カルメン組曲』〈ハバネラ〉〈闘牛士〉を聴いた時、筆者にはその〈曲のキャラクター〉と〈楽器のキャラクター〉が完全に一致しているように聴こえたのである。
さらに、『禁じられた遊び』の反復音型に宿る複雑な想い、さらにさらに『ディア・ハンター』〈カヴァティーナ〉の泣きながら笑うようないわく言い難い感情……。
カルメンと言えば、オペラ最終シーンの舞台と音楽のコントラプンクト(舞台上では悲劇が演じられている時に陽気な音楽が流れる手法)が有名であるが、この陰と陽の感情の同居こそがギターの持つキャラクターではないだろうか? 男性的な表情と女性的な表情を合わせ持ち、切なさ、泣き笑い、といった陰とも陽ともつかぬ感情を呼び起こす、それがギターという楽器なのではないだろうか?

いささかならず無駄口を叩いたかもしれないが、今回、ギターのこの陰陽相和すキャラクター、音楽性に改めて気付かされたのは事実。ギターの4人と聴衆が皆笑顔になれた幸福な演奏会であった。

(2022/7/15)

—————————————
<players>
(All are guitarists)
Kiyoshi Shomura
Shin-ichi Fukuda
Daisuke Suzuki
Yasuji Ohagi

Carulli:’Largo et Rondo’ de “Petit duo dialogue” Op34-2 (Shomura, Ohagi)
Ponce (arr. Zarate):Intermezzo (Suzuki, Fukuda)
Ponce (arr. Zarate):Scherzino Mexicano (Fukuda, Suzuki)
Mendelssohn(arr. Liobet):’The fleecy cloud’ aus “Lieder ohne Worte Heft 4″ Op53-2 (Fukuda, Shomura)
Jean-Marie Raymond:Midnight Memories(Fukuda, Shomura)
Piazzolla:”Tango Suite” 2nd mov.’Andante’ / 3rd mov.’Allegro'(Suzuki, Ohagi)
Intermission
Toru Takemitsu (arr. K.Shomura and D. Suzuki): Bad Boy(Suzuki, Shomura)
Toru Takemitsu (arr. D.Suzuki): Dodes’kaden(Shomura, Suzuki)
Albéniz (arr.Liobet):Bajo la palmera(Suzuki, Ohagi)
Tárrega(arr. Sagreras):Recuerdos de la Alhambra(Suzuki, Ohagi)
Fauré(arr.H.Sato):’Berceuse’ et ‘Le jardin de Dolly’ de “Dolly”(Fukuda, Ohagi)
Vivaldi:2nd mov.’Andante’ della “Concerto per 2 mandolini” in sol maggiore RV532(Shomura, Fukuda)
Castelnuovo-Tedesco:Fuga elegiaca(Shomura, Fukuda)
Roland Dyens:”Hamsa” 5th mov.’Tunis, Tunisie'(4 men)
(encore)
Bizet(arr.Kanengiser):’Habanera’ and ‘Marche du Toreadors’ from “Carmen Suit”(4 men)
Anonymous(arr. D.Suzuki):Jeux interdits(4 men)
Stanley Myers(arr. D.Suzuki):’Cavatina’ from “The Deer Hunter”(4 men)