Menu

パリ・東京雑感|平和を遠ざけるロシア的禁欲主義|松浦茂長

平和を遠ざけるロシア的禁欲主義
War and Peace Affected by the Russian Nihilism

Text & Photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

モスクワ近郊の公務員別荘地

ウクライナの戦争が私たちの気持ちをこんなに滅入らせるのは、文化の発達したヨーロッパでかくも野蛮な殺戮が起こったからだ。文明が進めば、戦争のような馬鹿なマネはしなくなる――こんな(根拠のない?)安心感が吹き飛んでしまった。私たちは文化という防壁で野蛮から守られているかのように感じていたが、そんな安心感はもうない。私たち自身の中にひそむ野蛮が、いつ猛威を振るうか分かったものではない。戦争という野蛮が、21世紀の日本に住む私たち自身の問題にもなってしまったのだ。
でも、考えて見れば、「戦争」をこれほど嫌がる気持ち自体は、やはり「文化」の産物ではないか? フロイトは驚くほど率直に語っている。

文化の発展のプロセスのために必要とされてきた私たちの心的な姿勢は、戦争にはあくまでも抵抗するものであり、それだけわたしたちは戦争に強く反対せざるをえないのです。わたしたちはもはや戦争には耐えることができないのです。これはたんに理性的な拒否や感情的な拒否というものではありません。わたしたち平和主義者は、戦争には体質的に不寛容になっているのです。生理的な嫌悪感が極端なまでに強まっているのです。(ジークムント・フロイト『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』)

理性、感情のレベルだけではなく、生理的にいやだ、というのはすごい。文化の発展は私たちの肉体感覚まで変容させてしまったのだろう。でも、ナショナリズムだって文化、プーチンの大好きなユーラシア主義だって文化ではないか? 文化的理念が戦意高揚のスローガンに使われる。だとすれば文化などない方が、かえって人類は平和なのでは?
いや、フロイトのいう文化はちょっと意味が違う。思想やイデオロギーよりもっと前の、人間の心の形成力をさしているのだろう。

花束を持つ退役軍人

ここで気になるのは、ロシアには、文化を「罪深い」と感じ、日常生活の快適さから芸術作品まで、およそ文化につながるもの一切を拒否する過激な禁欲主義があることだ。トルストイが自分の作品を否定し、ベートーヴェンやシェークスピアまで批判したのは、ベルジャーエフによれば「偉大なロシアの作家たちが、みずからの文学作品が許されるものかどうか、という痛ましい疑惑を感じていた」からである。
もっと身近な場面で感性の違いを考えてみよう。ロシア人も花が好きで、人の家を訪問するときは必ずカーネーションかバラを二、三本携えて行く。ロシア女性と結婚したカナダ人は「妻は花なしに人に会うなんて全然考えられないらしく、花を探し回っては、約束にいつも遅れる」とこぼしていた。ボリショイ劇場のロビーでは歌手に捧げるための豪華な花を売っているし、歌曲のリサイタルともなると、一曲終わる毎に舞台の前に行列が出来て思い思いの花を歌手に手渡すから、なかなかプログラムが先に進まない。
ところが不思議なことに、ロシア人のお客から頂いた花はその日のうちにしぼんでしまう。こちらが持って行った花も、いきなり小さな空き瓶にぎゅうぎゅう挿すから、見る間にぐんにゃり。
ロシア人にとって、花とは大切な人との出会い、美しい歌への感動といった人生の高められた瞬間を飾るもの――非日常性のシンボルなのであって、ヨーロッパ人が窓辺に一年中花を絶やさず、花がいわば日常生活への濃やかな配慮のシンボルになっているのとは正反対だ。常ならぬ瞬間のしるしであれば、日常に戻ると同時にはかなく枯れ萎むべきではないか。ロシア人の気持ちとしては、フランス人やドイツ人のように毎日を花で飾り、日常を快適にするのはどこか居心地悪い、後ろめたいのである。

モスクワ近郊の農場

ソルジェニーツィンが恐らく最も愛したロシア的義人、マトリョーナにも文化への敵意が感じられる。
短編『マトリョーナの家』の主人公のお婆さんは「ともかく、だらしがなかったし、家財を揃えようという欲もなく、経済観念がまるっきりなかった。・・・それにばかのお人好しというか、無償で他人の手伝いばかりしていた」。そんなマトリョーナが下宿人(ソルジェニーツィン)に出す食事といえばジャガイモか大麦のお粥と相場が決まっており、それも「いつもちゃんとした塩気がついているわけではなく、焦げくさいこともよくあった。そのため、食べたあと上顎や歯ぐきにざらざらが残ったり、胸やけがするのだった」。それに続くやりとりは美しい。

「ごちそうさん」私はほんとに心の底から言った。
「ほんとかい? おいしかった?」マトリョーナはまぶしいばかりの微笑で、私をとりこにしてしまう。

胸やけのするお粥を食べて心の底からの笑みをかわす光景は、もうほとんど宗教的次元だ。食への執着、さらには物欲一般から解放された同士の解脱の笑みではないか。だからソルジェニーツィンは彼女を義人とよんだのである。
いつも機嫌良く、働き者で、村の人たちに奉仕するのに、村人からは軽んじられる女。こんな人なら日本でも出会えそうだ。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』にはそんな利他的人間がうたわれているではないか。ただ『雨ニモマケズ』の詩人がマトリョーナのように不潔な家に住んでいたとは思えない。彼女の家と言えば、

時たま、ネズミが壁紙の向こうをガサゴソ走りぬけ、その音におおいかぶさるように、一つに溶けあった、絶え間ないゴキブリのざわめきが、まるで遠い海原の潮騒のように、仕切壁のかげから聞こえてくるのだった。(ソルジェニーツィン『マトリョーナの家』)

同じ解脱の光景といっても、塵ひとつない禅堂や、石ころひとつまで整然とした西欧の修道院とは大分違う。あちらは欲望を理性的、組織的に克服して行くのにくらべ、マトリョーナのは自然のままの無欲、無関心、なげやり。文化を拒否する過激な禁欲主義なのだ。

文化を意識的に徹底否定したのがニヒリストだ。ツルゲーネフ(「ニヒリスト」はツルゲーネフの造語)の『父と子』の主人公バザーロフは、友人アルカージイのお父さんがチェロを弾き、プーシキンを読むのが許せない。

「君のお父さんはセロを弾くのかい?」
「うん」
「いったい、年はいくつになるんだ?」
「四十四だ」
バザーロフは急に腹をかかえて笑った。
「何がいったいおかしいんだい?」「考えてもみたまえ!四十四になった人が、しかも一家の父親ともある者が、田舎でねえ……セロを弾くなんて!」バザーロフはなおも笑いつづけた。

           ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

どうか、まあ、そんなもの(プーシキンの作品)は何の役にも立たないって、よく説明してあげてくれよ。子供じゃあるまいし、あんな下らんものは投げ棄てるべきだぜ。今どきロマンチストでござるなんて、物好きにもほどがあるよ! 何か実際的なものを読ましてあげたまえ。
(ツルゲーネフ『父と子』)

バザーロフにこう命じられると、アルカージイはすぐさま父親のプーシキンを取り上げ、物理学の本を押しつける。ニヒリスト・バザーロフにとって、美しい景色にうっとりするのも御法度なら、恋愛にうつつを抜かすのも馬鹿げている。およそ人生の味わいのようなもの、日本流に言えば「もののあわれ」はぶち壊さなければならない。バザーロフの否定エネルギーの強さと、破壊に邁進する生真面目さは宗教性をおびてさえいる。
迷信と偏見と因習的支配から人民を解放するために、歴史の不正と文明の虚偽に反逆するのがニヒリストの志なのだが、ロシア人がそれをやると、人生のささやかな喜びまで粉砕しつくす。バザーロフが正真正銘の恋の情熱に襲われたときのぎごちない格闘ぶりが、この小説のヤマ場。そして失恋、鬱、死へと、愛すべきニヒリストの悲劇は急展開する。

ところで、日常生活の快さとうるおいを求めるのが、文化のはじまりではないだろうか?茶の湯、生け花のように生活の一場面に美しい様式を与えてきた日本人なら、日常生活への配慮こそ文化の核であると言っても納得してもらえるのではないだろうか。それは、もはや私たちの身体の一部になってしまったような、文化のいわば肉体性である。

タチアーナ・デリューシナさん

十数年かけて『源氏物語』を訳したタチアーナ・デリューシナさんに「共産主義の最大の悪は何ですか?」と聞いたら、即座に、「私有を禁止したため、人と物の関係がつめたくなったことです」と、素敵な答えを返してくれた。マトリョーナのように物に関心のない無欲の人は、昔からいただろうが、共産主義はこうしたロシア人の物への「つめたさ」を一層ひどくしたに違いない。
「人と物の関係がつめたい」とは、清貧を意味するのではない。マトリョーナのように貧乏を意に介しないロシア人がいるかと思うと、ロンドンや南仏に豪邸をいくつも持ち、全長120メートル700億円などという豪華船をあつらえてカリブ海や南太平洋に浮かべる大金持ち(普通の国なら投獄されるやり方で富を蓄えた連中)もいる。パリで金ぴかに着飾り、ひときわ目立つのはたいていロシア人だ。

実は、物への投げやりな無関心と、無際限の所有欲は同じコインの裏表なのではないか?どちらも、物との関係に秩序を保てないのである。物とのあいだに「あたたかい」関係を築くことができず、全面的拒否の投げやりか、さもなければ物に取り憑かれ富の亡者になってしまう。物を上手に飼い慣らし、うるおいある生活の手段とすることができなかった――文化を持てなかったのである。

茶道を学ぶロシア女性

人間の原始的欲望・衝動はこの肉体化した文化によって抑えられ、攻撃性は外の敵に対してではなく自己の内面へと向け変えられるとフロイトは考えた。身についた日常性文化が私たちを野蛮の衝動から守ってくれるというのだ。文化のおかげで、人は外から強制されなくても、自然に節度ある行動がとれるようになるのだが、ロシアではこうした文化による自制のメカニズムが働かない。自分の力では、自己をコントロールできない。
ロシアの歴史の起源には、「わが国土は広大にして豊穣であるが、そこには秩序がない」ので、ロシアの国土を統治してもらうために異邦人ワリャーグが招かれたという有名な伝説があるが、この伝説はいまでもロシアの謎を解くのに役立ちはしないか?
「ロシア人ほど自由を愛する民はいないと言われるのに、彼らは強い権力を待望し、奴隷のように従いたがるのはなぜ?」「かくもアナーキーな国民が、世界にまれな強権的官僚国家をつくったのはなぜ?」
「伝説」が教えてくれるのは「そこには秩序がない」ことだ。なぜならロシア人は秩序を内面化する文化を持てなかったから。もとをたどれば、マトリョーナ的禁欲とバザーロフ的ニヒリズムのなせるわざだ。
さて最初のテーマに戻って、フロイトのいうような戦争に対する「生理的嫌悪感」がロシアに根付くときは来るのだろうか? 世界の平和主義運動にインスピレーションを与えたトルストイの国とはいえ、この国の特異な文化のあり方を考えると、明るい見通しは持てない。

でも、ロシアを愛する僕としては、一言付け加えておかなければならない。ロシア的非文化はマイナスばかりではない。文化に縛られないアナーキーな自由があったからこそ、ロシアは世界の文化に大きな貢献ができたのだ。ロシアの作家たちは、文明の出来合いの枠組みにとらわれず、徒手空拳で魂の深みに分け入ったから、生と死との神秘に触れた。トルストイもドストエフスキーも芸術の限界を超えて進んだのである。
文化的節度の欠如のために、ロシアの精神はたぐいまれな高みに達するか、あるいはプーチンの戦争のような野蛮に堕ちる。善と悪両極の絶対への渇望はロシアの運命なのかも知れない。ベルジャーエフは中庸を知らないロシアの偉大と悲惨をこう表現している。

ロシアはまるで天使的なものと野獣的なものしか欲せず、人間的なものをみずからのうちに十分目ざめさせなかったみたいだ。天使の神聖と野獣の卑猥、これがロシア国民の永遠の不安であり、中庸をえた西欧諸国民のうかがい知ることのできないものである。(ニコライ・ベルジャーエフ『ロシアの魂』)

(2022/6/15)