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広島交響楽団第421回定期演奏会|柿木伸之

広島交響楽団第421回定期演奏会
Hiroshima Symphony Orchestra The 421st Subscription Concert
2022年5月27日/広島文化学園HBGホール
May 27, 2022, Hiroshima Bunka Gakuen HBG Hall
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
写真提供:広島交響楽団

<演奏>        →foreign language
下野竜也指揮/広島交響楽団

<曲目>
トミ・ライサネン:マリンバ協奏曲《ポータル》
ブルックナー:交響曲第7番 ハース版

 

広島交響楽団は今年、プロフェッショナルのオーケストラに改組されてから五十年の節目を迎える。1972年6月12日、広響は改組を記念してドミトリー・ショスタコーヴィチのオラトリオ《森の歌》を、地元の声楽家らとともに広島市公会堂で奏でている。それから半世紀が経とうとする2022年5月27日、広響は下野竜也との新たな道程へ一歩を踏み出した。下野が、当初五年だった音楽総監督としての契約を更新して迎えたシーズンの最初のオーケストラとの協働に取り上げたのは、アントン・ブルックナーの交響曲第7番ホ長調だった。
下野は、音楽総監督に着任した2017年からほぼ毎年、一年に一曲のペースで広響とブルックナーの交響曲に取り組んでいる。就任披露の際の交響曲第8番ハ短調の演奏は今も記憶に残る。作品像の確固とした構築のなかに、下野が広響と造り上げようとする音響の姿が示されていた。ただしこの演奏会では、両者のアンサンブルにぎこちないところが残っていたのも確かである。それから五年の歳月を経て奏でられた第7交響曲におけるアンサンブルは、作品を貫く温かな歌の息遣いと化していた。
今回の演奏では、どこを取っても適度なテンポの設定によって、スコアに書かれた音が無理なく引き出されていた。第一楽章の第一主題の提示からしてまったく構えたところがない。伸びやかな歌がおのずと広がっていく。そのテンポが楽章全体の音楽の運びを決定していたのも印象的だった。演奏に用いられたのはローベルト・ハースの校訂による楽譜だったが、その第一楽章の譜面には、速度の変化はほとんど書き込まれていない。下野の解釈は、そのことを音楽の造形に生かそうとするものと見受けられた。
展開部の終わり近くでの第一主題を反転させた音形の強奏も、けっして居丈高になることはない。しかし、その流れは、救済への渇望とも言うべき熱い感情によって貫かれていた。それが静まると、この音形がオブリガート的な対旋律となるかたちで第一主題が再現されるが、その慈しみに満ちた美しさには心を動かされた。結尾部の始まりでその旋律の後半部が、「きわめて荘重に」との指示の下、じっくりと噛みしめるように奏でられたところには、今回の演奏における歌へのアプローチが滲み出ていたようにも思われる。
第二楽章のアダージョの二つの主題がけっして停滞することなく、一方は荘厳に、もう一方は優美に奏でられるのを聴きながら、下野と広響が同じ歌を味わっているのを感じた。それとともに両者は、この先音楽をどのように運ぶべきかを自然に感じ取っていて、このことが音楽そのものの自発的な流れをもたらしている。しかも、その流れには魂の温度がある。これが奥行きのある響きに結びつくことを、下野と広響は、ブルックナーの交響曲の演奏に欠かせない要素として追究してきたにちがいない。
そう考えさせたアダージョの演奏において印象的だったのは、モデラートにテンポが変わる一節が二度目に現われた際の総休止である。その濃密な間から、楽章の頂点へ向かう流れが導き出されていた。ハース版による演奏では、クライマックスに至っても打楽器が打ち鳴らされることはない。頂点の音も、魂の奥底からの願いを噛みしめるように響く。このことを受けてこそ、ヴァーグナーへの哀悼に捧げられた一節が深い悲しみを響かせうることを、ホルンとヴァーグナーテューバの見事なアンサンブルは示していた。
後半の二つの楽章が、これほどの落ち着きをもって響いた例を知らない。スケルツォのリズムには、身を委せられるような着実な歩みを感じた。とはいえ、それによって躍動感が失われることはない。フィナーレも自然な流れに貫かれていたが、そこには同時に立体的なダイナミズムの造形も感じられた。音響の拡散と凝集が音楽の運動を形成する。楽章の基調をなす付点リズムのモティーフが、最後に一つの響きに結集した後、第一主題がホルンによって、全楽章の歩みを振り返るかのように奏でられたのは忘れがたい。
今回のブルックナーの第7交響曲の演奏は、ハース版の楽譜を存分に生かすかたちで、しなやかな造形を示す作品像とともに、これまでの五年間に下野と広響が目指してきた歌の姿を示していた。それは、作曲家が一つひとつの音に込めた祈りを、今ここに生きる者のなかへ染み渡るかたちで響かせた演奏として記憶されるだろう。できることなら、アダージョの第一主題から第二主題への移行で、もっと繊細なピアニッシモを聴きたかった。だが、それは現在の演奏環境では難しいとも思わざるをえない。
この演奏会では、ブルックナーの交響曲に先立って、フィンランドの作曲家トミ・ライサネンのマリンバ協奏曲《ポータル》も演奏された。三管編成のオーケストラのために編曲された版の世界初演とのこと。今回の編曲によって、「マリンバ協奏曲」としての特徴が明確になったかという点については、疑問を拭えなかった。とりわけ今回の演奏会場のようなデッドな音響の空間では、オーケストラが鳴り始めると、マリンバの音は埋もれていき、その深みのある響きは聞こえなくなってしまう。
その一方で、五つの楽章を橋渡しするカデンツァが、低音の不気味なトレモロからコミカルな疾走に至るまで、マリンバの特性を巧みに生かしながら、各楽章で繰り広げられる世界を象徴していることは、小森邦彦の見事な独奏によって充分に伝わってきた。一般に玄関を表わす「ポータル」の語に作曲家は、別世界への入り口という意味を込めたという。その別世界を構想するのに、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』などの具体的な作品に題材を求める点には疑問がないわけではないが、空間の歪みや渦を響かせる語法は確かだ。
最も興味深かったのは、「ワームホール」と題された最終楽章。半分がアルミ箔で被われ、上にピンポン玉の入ったプラスティック・カップが置かれたマリンバと、特殊奏法を駆使する弦楽器群の協奏に、管楽器奏者がピンポン玉の入ったカップを振り鳴らして加わるところでは、異次元の音響空間が身体的なパフォーマンスとともに作り出されていた。そこからは機知を音響化する作曲の手腕も感じられる。ピンポン玉が散乱する結末を前にして、世界の底が抜けてしまったかのような現在を顧みないではいられなかった。

(2022/6/15)

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柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
二十世紀のドイツ語圏を中心に哲学と美学を研究する傍ら芸術批評も手がける。上智大学文学部哲学科助手、広島市立大学国際学部教授を経て、現在西南学院大学国際文化学部教授。著書に『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)などがある。訳書に『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング、2016年)などがある。
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<players>
Conductor: Tatsuya Shimono
Hiroshima Symphony Orchestra

<pieces>
Tomi Räisänen: Marinba Concerto “Portal” (World Premier of the Revised Edition)
Anton Bruckner: Symphony No. 7 in E major WAB 107 (Robert Haas Edition)