Menu

Books|「ピーターと狼」の点と線|小石かつら

「ピーターと狼」の点と線

菊間史織 著
音楽之友社 
2021年7月出版
2000円(税別)

Text by 小石かつら (Katsura KOISHI)

大阪のターミナル駅、上本町のジュンク堂にある音楽関連の本棚は、たったひとつ。そこには、音楽実践のための教本類、音楽家として社会で成功するためのノウハウ、といった本が目に付くところに並べられている。上から順に背表紙を追い、中腰になり、そしてしゃがみこんで、一番下の棚に、左右の本に埋もれかけた1センチほどの厚さの本書を発見したとき、私は「うわあ」と、うれしくなった。大好きな「ピーターとおおかみ」が、こんなところに隠れていた!私自身、子どもの頃から大好きで、私の子どもたちが小さかった頃は、毎晩、各種の録音を飽きることなく、聴いて、聴いて、聴きまくって完全暗唱した作品。関わっているジュニア・オーケストラでも演奏した。けれども、作曲者プロコフィエフについては、日本語で読めるものが少なく、未だ、謎に包まれた作曲家だ。レジを待つ間も惜しく、並びながら読み始める。ぐいぐいと惹き込まれる。

本書は、映像作家として活躍する人物が自分の過去を回想する設定で書かれている。14歳の時、学校の宿題で「ピーターと狼」を聴くけれど、退屈で仕方ない。その退屈な少年の前に「道化師の妻」が現れて、本書を読むようにうながす。つまり、映像作家が過去を回想する中で、その回想の中の少年が「本書」という世界に入っていく、という三重構造になっている。

その「本書」は、全三章構成で、プロコフィエフの生涯を軸に、大きく3つの観点から「ピーターと狼」を取り巻く世界を我々読者に「語りかける」。そう、本書全体が、語り口調で書かれているのだ。「語りかけるような筆致」というのは、ありそうで無いスタイルである。設定読者は映像作家が14歳の時なので、本書自体も14歳程度で読めるようになっている。これは、「ピーターと狼」の設定聴衆の年齢とも重なる。「ピーターと狼」の主人公ピーターが、実は勇敢なピオネール(ソ連共産党の少年団で9歳ごろから15歳ごろの少年が入団した)だということも、説明される(55頁)。

第1章はソ連における児童劇場、第2章はヨーロッパとおとぎ話の世界、第3章はアメリカとディズニー映画という切り口だ。それぞれが、入念に調べられていて、謎に包まれた「ピーターと狼」と「プロコフィエフ」が解きほぐされていく。赤ずきん、三匹の子豚、ディズニー映画等々、数々の作品との類似点や影響関係が、根拠をもって丁寧に提示される。児童劇場の監督サーツをはじめ、ディアギレフ、ストラヴィンスキー、ウォルト・ディズニー等々の人物との関わりも日記や手紙を提示して語られる。わかるところは根拠を示し、わからないところは「もう少し調査が必要です」(117頁)というふうに、これまた明確に示してくれる。この心地よい安心感の上に、作者の空想も「きちんと」大胆に描かれる。この本書の在り方そのものが、「ピーターと狼」の作品そのものの在り方に似ていて、明快でありつつ懐の深い奥行きに、すがすがしい感銘を受ける。

あまりにもありきたりだが、ひとつの作品の背後にひろがる世界が、これほどまでに広大なものだということに、とにもかくにも驚いた。「ソ連」を対象としながら、それが、「世界」に結びつく「普遍」の問いであること(「普遍」という概念が正しい概念でも美しい概念でもないということ)。プロコフィエフが、ロシア、ソ連、ヨーロッパ、アメリカと、その居場所を変え、その場所それぞれに、ロシア/ソ連を背負う生き様が、生々しくて泥臭いこと。冷徹な粛清や資本主義の在り方。ラジオと教育によって爆発的に増えた新しい聴衆(128頁)という存在と、彼らに真っ向から対峙する作曲家の姿が、ある種の悲劇性を帯びていること。

このような、本書が次々に提示する観点を考えるとき、音楽という存在が、政治とも、商業とも、宗教とも、密接に関わっていることを再確認せざるをえないばかりか、「人と国とのつながり」がどこにあるのか、ということもまた、再考を促されていると感じた。国とは、土地のことなのか、言葉や宗教や文化のことなのか。何をもって「国」が存在しているのか。(本書が刊行されたのは昨年21年7月で、私が読んだのは22年春。その間に、「ロシア」という国に対する見方が必然的にさまざまに影響を受けてしまっていることは、もちろん否めない。)

広大なジュンク堂のフロアの中で、たった1つの本棚しかない音楽分野。その本棚の中でも、小さな、小さな、異質の存在。優しい語り口の背後にある、凍りつくような現実とわくわくする音楽の同居。正直なところ、本書の三重構造の「映像作家の回想設定」には、最初はウザイと感じた。しかし、「ピーターと狼」が纏う複層の鎧を考えるとき、この設定が、謎を解くひとつの鍵なのだろうと、今は思う。政治的なことも偏りなくさらりと書く著者の筆致に、好感を超えて畏怖を感じた。続編を心待ちにしている。

(2022/6/15)