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東京春祭ディスカヴァリー・シリーズvol.8 パウル・ヒンデミット|西村紗知

東京春祭ディスカヴァリー・シリーズvol.8 パウル・ヒンデミット
Tokyo-HARUSAI Discovery Series vol.8 Paul Hindemith

2022年4月17日 飛行船シアター(旧 上野学園石橋メモリアルホール)
2022/4/17 HIKOSEN Theater(Formerly Ishibashi Memorial Hall, Ueno Gakuen)
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
写真提供:東京・春・音楽祭

<演奏>        →foreign language
ヴァイオリン:三又治彦、猶井悠樹
ヴィオラ:佐々木 亮
チェロ:小畠幸法
ソプラノ:冨平安希子
バリトン:小林啓倫
ピアノ:有吉亮治、冨平恭平
お話:中村 仁

<プログラム>
ヒンデミット:
温泉地で朝の7時に下手なサロンオーケストラが初見で演奏した歌劇《さまよえるオランダ人》序曲
ヴィオラ・ソナタ op.11-4
瞑想曲
歌劇《画家マティス》より 第6場1景
組曲《1922年》 op.26 より 第1曲 行進曲、第3曲 夜曲
歌曲集《マリアの生涯》 op.27(1948年版) より 第7曲 キリストの降誕、第9曲 カナの婚宴

 

舞台上には譜面台や椅子の他に、布団セットが置かれている。
チェロ奏者が、なにやら真面目な顔をして半音階の練習をしている。しばらくしてその場に布団で就寝。朝が来て、ヴィオラ奏者は手鏡で自分の姿を見たりして準備をしている。そこに明らかに酔っぱらったヴァイオリン奏者が2人、陽気に歌いながら入ってくる。ようやく起きたチェロ奏者は自身の寝坊に気づく。その後慌ただしく演奏は始まる。
彼ら4人が演奏するのが、歌劇《さまよえるオランダ人》序曲。このコンサートのプログラム第1曲目である「温泉地で朝の7時に下手なサロンオーケストラが初見で演奏した歌劇《さまよえるオランダ人》序曲」には、今回の演奏者たちによりそうした独自の設定が与えられていた。

さて、この始まり方は少し意表をつくものだったかもしれないが、パウル・ヒンデミットの肖像画を、たった2時間あまりのコンサートで描き出さねばならないという難題にこのコンサートが挑戦していた、と考えるならば、かなりわかりやすい始まり方だったと言えるように思う。
というのも、パウル・ヒンデミットという作曲家については「前衛」や「芸術のための芸術」などの芸術の自律性、この大層な理念に、どこか回収しきれないものがあるようなところがあるからだ。それは手すさび、というのか、職人気質、というのか。
このコンサートは合間に音楽学・中村仁の解説が入るレクチャーコンサートの体裁をとるものだった。そこで中村はヒンデミットの人物像として、現場の人、というのを言っていた。
なるほど、パウル・ヒンデミットは現場の人である。これを、作品概念よりも実際的なレパートリーを志向する人、という意味に筆者はまずは受け取った。そして、このコンサート全体を聴き通したのちには、同時代人のやっていた作曲技法から影響を受けるのであっても、これを作曲家自身のなにか身近なものに変換してしまうという、この作曲家のそんな手すさびのことをも意味するのでは、と思うに至った。しかしそれでも歌劇《画家マティス》のような、あれだけ芸術らしい、いや、前衛芸術がリードする進歩史観に則った作品も、ヒンデミットには書けてしまう。
「温泉地で朝の7時に……」という冗談音楽は、私的な目的で書かれたものだという。けれどそれだけに一層、この作曲家の本質があらわれているような気もした。奇しくも、リヒャルト・ワーグナーの音楽、あの精神性をからかっているように聴こえたからだ。なにか恐ろしい、どろどろとした、精神性などというものに向かっていったドイツ音楽の宿命を、ヒンデミットはあの乾いた書法で軽快に嗤っていたのだと(だから新古典主義と一口に言っても、ヒンデミットは例えばプロコフィエフなどとはまたちょっと違っている)。
「温泉地で朝の7時に……」は演出も説得的であった。譜面に書かれた音から各演奏者のキャラクターをきちんと創案していたのであるし、ディテールにもリアリティがあった。チェロの半音階は深刻過ぎて、第1ヴァイオリンの高音部は上ずって、ヴィオラはただただ周りを気にせず歌い上げてしまう。調子はずれな音を誰かが出せば、きちんと他の誰かが眉をひそめるのであり、その演出、設定は演奏中も守られていた。

「温泉地で朝の7時に……」はヴィオラへの偏愛が滲みだしているようなところも印象的だった。その点、この曲全体としてはサロンオーケストラのあるあるネタではあるのだろうけど、ヒンデミット自身のあるあるネタでもあるような気がして、自虐なのでは、と勝手に考えてしまった。
そんな次第で、その偏愛は「温泉地で朝の7時に……」で収まりきらず直後の「ヴィオラ・ソナタ」で十全に発揮される、という流れとして筆者は受け取った。
「ヴィオラ・ソナタ」はまた、中村曰く、ドビュッシーからの影響を思わせるところがあるという。そして、時期的にはドビュッシーに対する哀悼の意が込められているようなところがあるのではないか、とも。確かに、主題の提示こそ、その美しいメロディーの感覚は瀟洒だ。けれどもそれは最初だけで、全体の組み立ての感覚にフランス音楽的な洒落たニュアンスは伴わない。どこか都会的ではないような……。続く「瞑想曲」も美しいが、不思議とあまりあか抜けた感じがしない。

いわゆる「ヒンデミット事件」の煽りを受け、1938年にスイスで初演を迎えることとなった歌劇《画家マティス》。この日は第6場1景、死んだ父親の幻影に苦しむレギーナをマティスが慰める場面が上演された。伴奏の構築体の重厚感が強い。父親が亡くなったときのことをレギーナが回想するところの音楽が重たいのはもちろんのこと、マティスが天界の様子を、天使たちが音楽を奏でていると語っているところの音楽ですら、まったく軽くならず天界の様子とは思えない。
組曲《1922年》は当時の軽音楽に対するパロディとみることができるだろうが、ここでも重厚感が印象に残る。「行進曲」はアイロニカルな趣で乾いた音調だがこれもまた軽さがなく、本質的には軽音楽からきわめて遠い。「夜曲」も中低音の鳴りが強くなるように書かれているのか、妙にドロドロして、ショパンの「ノクターン」とも、サティの「ノクトゥルヌ」ともまったく違うテイストである。
歌曲集《マリアの生涯》では、いよいよポリフォニックで神秘主義的だ。「第7曲 キリストの降誕」「第9曲 カナの婚宴」両方とも、当人マリアにとっては幸福な場面のはずなのだが、リルケの詩がキリストの犠牲の運命の側からマリアに語りかけている内容なので、そのポリフォニーにはなにか複数の時間軸や主観やまなざしが交錯しているような、単なる重厚感に尽きるものではない複雑さがもたらされている。

技法は豊富だが、作品のどの瞬間にもついて回る重厚感が印象的だった。ポリフォニカーゆえの軽やかさのなさなのか、これを突き抜け切らない感じといいたくなってしまう。それとも、この作曲家がいかなるときにも節度を保って音楽と人とに向き合っていたため、といえるのか。
現場の人の技巧は、今現在の作曲家に対しどういった訴求力をもつのだろうとも思った。なんにせよこのコンサートが聴衆にとって、パウル・ヒンデミットという作曲家のことを考えるよいきっかけになったことには違いない。

(2022/5/15)

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<Artists>
Violin:Haruhiko Mimata, Yuki Naoi
Viola:Ryo Sasaki
Cello:Yukinori Kobatake
Soprano:Akiko Tomihira
Baritone:Hiromichi Kobayashi
Piano:Ryoji Ariyoshi, Kyohei Tomihira
Navigator:Jin Nakamura

<Program>
Hindemith:
Ouvertüre zum “Fliegenden Holländer” (String Quartet Version)
Sonata for Viola op.11-4
Meditation
“Mathis der Maler” – Scene VI – 1
Suite “1922” op.26 – I. Marsch, III. Nachtstück
”Das Marienleben” op.27 – No.7 Geburt Christi, No.9 Von der Hochzeit zu Kana