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パリ・東京雑感|ロシア軍はなぜ残酷か|松浦茂長

プーチンの戦争はなぜ残酷なのか
Deep Roots of Atrocities in Ukraine War

Text & Photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

 

徴兵検査場の前で

モスクワで徴兵検査を取材したことがある。1992年11月。ソ連崩壊前後のロシアは、情報公開に熱中し、秘密都市のロケット工場からKGBの取調室まで、何でも見せてくれた。悪名高いものまで恥をさらして西側記者に見せてしまえば、改善せざるを得なくなる。そうすれば、やがてロシアはまともな国になるというナイーブな願いからだったのだろう。
当時、新兵いじめで、毎年8000人が殺されるとか、とてつもない報道があったので、徴兵検査取材を申し込んだらあっさり許可が出た。
検査場の前は、鼻をつくウォトカの匂い。涙が止まらないママたち。見事なコーラスを聴かせてくれる長髪の若者たち。そして抱き合う恋人たち……異常なボルテージの高さだった。
帝政ロシアの兵役は25年間だったから、徴兵される男と家族は文字どおり今生の別れ。粗末な農家で別れを惜しむ、レーピンの胸を打つ絵は有名だ。あれから100年以上たってもやっぱり徴兵の日はおおいなる悲しみの日なのか? 帝政が終わり、共産主義が終わっても兵役のつらさに変わりはないのだろうか?

イリヤ・レーピン『徴兵された農民との別れ』(1879年)

2006年にチェリアビンスクで、兵士が両足と性器を失ういじめ事件が明るみに出た。新兵アンドレイ・シチョフは、午前3時に古参兵セルゲイ・イワノフに起こされ、じっとしゃがむよう命じられた。3時間半たって、痛みにたえられなくなると、足首を踏みつけられ、壊疽になり、切断されたというのである。もし殺されていたのなら、事故死か病死で片付けられ、封印した棺桶に入れて家族の元に返されて終わっただろうが、理由もなく怪我させられた模範的兵士が、まともな手当ても受けられず身障者にされるというあまりの不条理にロシア人は怒った。軍は母親に1300万円のアパートを提供して示談にしようとしたが、裁判となり、真相を隠しきれなくなったという例外中の例外の出来事だった。
一体何人がいじめで殺されたのか、正確な数字は知りようもない。兵士の母の会は、毎年4000人と言い、軍の発表は、2006年前半に25人がいじめで死亡、60人が自殺となっている。いじめが告発されることはないし、古参兵が罰されることもない。いじめは新兵教育の非公式制度なのだ。

新兵いじめといえば、日本にも野間宏の『真空地帯』をはじめ、軍内部の陰湿な暴力を描いた作品が少なくないし、軍隊なんてみんなそんなものと思っていたが、それは偏見だったようだ。パリに赴任中、現地スタッフのS君が、1週間体験入隊のニュース企画を提案し、徹夜の行軍など厳しい訓練をこなしてきた。高級官僚の息子で文学通のインテリがどんな顔して帰ってくるかと心配していたが、「身分の違い、貧富の差もなくなって、皆が支え合って目的を達成する。あんなに素敵なところはありません」と、すっかり軍に惚れ込んでしまった。フランスでは、ときどき左寄りの政治家が徴兵復活を唱えるけれど、S君みたいに軍の友情厚い共同体を経験すれば、社会の分断を癒す効果があると期待するからだろう。

さて本題に戻ろう。ロシア軍の残虐性、病院や保育園を爆撃し、女性や子供まで殺戮するサディズムは、軍隊内部の構造的暴力と深いつながりがある。新兵を不条理な暴力にさらすことで、人間らしい感受性を鈍磨させ、暴力を他者に向けさせるのだ。
ロシア軍兵士の人権を守る活動をしているセルゲイ・クリヴェンコ氏は、ロシア軍の残虐性はウクライナ人やチェチェン人、シリア人に対してだけではなく、軍の内部にも、同胞ロシア人に対しても、同様な暴力性を備えていると指摘し、こう言う。「内部に暴力を抱え、その暴力が罰されない軍隊の現状が、いまウクライナでああいう形になって現れてしまったのです。たとえロシアの中、たとえばボローネジで反乱が起こり、軍が派遣されたとしてごらんなさい。兵士はウクライナ人にしたのと全く同じように残忍なふるまいをするでしょう。」

『ニューヨーク・タイムズ』は、ニューヨークに住むチェチェン女性チャドさんが、キーウ郊外ブチャで3人の死体の前に立つ女性の写真を見て以来、22年前チェチェンで目撃したシーンのフラッシュバックに苦しめられるようになったと伝えている。2000年2月、彼女は隣の家の庭に入り、3人の男と1人の女性の死体を見た。彼らは8歳の娘のいる前で撃ち殺されたのである。ロシア兵は村人60人を殺し、6人をレイプし、死体から金歯を抜き去ったという。
チャドさんは「とてもつらいフラッシュバックです。いまウクライナで起こっているのとそっくりそのままの光景がくっきりとよみがえって迫ってくるのです。ロシア軍のやり方はそっくり同じ。人間性を奪い去る同じ作戦です。」と言う。
2000年からの第二次チェチェン戦争の前に、奇妙な連続テロがあった。モスクワで集合住宅が次々爆破され、およそ300人が殺され、またたく間にチェチェン人テロリストの仕業とする証拠が並べ立てられる。ロシア世論の怒りが絶頂に達したところで、チェチェン爆撃開始。9年間におよぶ攻撃で、町も村も焦土と化し、人口の4分の1に当たる20万人が殺され、最終的にチェチェンは征服される。
集合住宅爆破のニュースを見た当時、「出来すぎたストーリーだ、胡散臭い。秘密警察の自作自演では?」といやな直感があったのを覚えているが、今のプーチンのやり方を見ると、いかにも彼の計画しそうなことに思えてくる。チェチェンへの憎悪をあおるためには、罪もない同胞ロシア人300人を殺すのもためらわない――それがプーチンの真骨頂なのだ。クリヴェンコ氏の言うように、暴力性はロシアの中に構造化されており、その残虐性はまずロシア人自身に向けられるのである。
爆撃で廃墟のようになったチェチェンの町に移り住んだロシア人女性ジャーナリストのドキュメンタリーがあった。ロシアの蛮行への贖罪である。一体何人のジャーナリストがチェチェン報道のために殺されたことだろう。沢山の賞を受賞して国際的に名高いアンナ・ポリトコフスカヤは、チェチェン戦争を批判したため、2006年モスクワの自宅アパートのエレベーターの中で射殺された。
それにしても、ことさらに市民を虐殺するのは何のためなのだろう? 女性や子供まで殺せば、抵抗をあきらめると思ったのだろうか? いや、市民への暴力は、むしろチェチェン人の抵抗力を強めたではないか。中央ヨーロッパ大学のキリル・シャミエフ氏は、「市民1人を殺すのは、ロシア兵1人に銃弾を撃ち込むに等しい」と言う。チェチェン市民への暴力は、ロシア各地で劇場や学校を襲う陰惨なテロとなって跳ね返ってきたし、ちっぽけなチェチェンを征服するのに9年もかかる泥沼の戦いになってしまったではないか。しかし、プーチンのロシアは、これを失敗とは思っていない。失敗と思ったのなら、シリアで同じことを繰り返し、ウクライナでまたチェチェン式残虐行為を、全世界注視の中で繰り広げるはずはない。

病院や劇場や駅を爆撃し、できるだけ多くの市民を殺し、死体を散乱させるのは、恐怖をまき散らすためだ。怖がらせれば言うことを聞く。一切の根底にあるのは、恐怖のみが人間を支配する手段だとみなすニヒルなKGB哲学である。ポリトコフスカヤは、恐怖と隷従のプーチン哲学をこう要約する。

今起こっていることに対しての責任は私たち国民にある。まず私たちにであって、プーチンにではない。彼や彼のシニカルなロシア統治に対する私たちの反応はせいぜい台所の噂話に留まっている。そのために彼はこの四年間(この文章は2004年に書かれた)やりたい放題だった。社会のあきらめムード、これは底なしだ。これがプーチン再選の免罪符なのだ。私たちは彼の行動や発言に無気力な反応を見せたばかりではない。びくびくと怯えた。チェーカー(秘密警察)が権力を握るにつれ、私たちはやつらに恐怖心を見せてしまった。そこでやつらはますます図に乗り、私たちを家畜のごとく扱う。KGBは強い者だけを認める。弱い者は食い殺す。そのことは、私たちが一番よく知っているはずではないか。(アンナ・ポリトフスカヤ『プーチニズム 報道されないロシアの現実』)

KGBの辞書には、人間の自発性、協力、善意などという言葉は載っていない。彼らにとって、力と恐怖と隷従が人間性の本質なのだ。

ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン『戦争・崇高なるもの』(1871年)

モスクワのトレチャコフ美術館に、沙漠に積み上げられた不気味な骸骨の絵がある。遠景にサマルカンドらしき町が小さく描かれているから、ティムールに殺された兵士の骸骨だろうか。画家ヴェレシチャーギンは『戦争・崇高なるもの』と題するこの作品を「過去、現在、未来のすべての征服者に」捧げた。
ロシアは13世紀から300年にわたってモンゴルに支配され、ロシア人はこのときの暗い記憶を「タタールのくびき」と呼んで語り伝えている。ロシア人の半分が殺されたと書く歴史家もあるほど。女性や子供まで皆殺しの野蛮な征服だった。1245年に西域に旅したローマ教皇の使者の記録には、古都キエフ(キーウ)が骸骨の散乱する廃墟と化し、わずか200所帯の寒村となってしまった、と書かれている。

モスクワ近郊バルビハの森

(現代ロシア人の潜在意識にもモンゴルの恐怖がひそんでいるのではないか? モスクワ近郊の森に散歩に行くと、森の中はハンモックを吊って昼寝したり、バレーボールをしたり、キノコをとったりにぎやかなのだが、森の外の草地には誰もいない。僕らが草地でジャガイモとゆで卵の昼食を食べていると、おばあさんが「そんなところに座っていると身体をこわすよ。森の中で食べなさい。」と忠告してくれた。眺めが悪いうえおびただしい蚊に悩まされる森のどこが良いのかさっぱりわからないが、ものの本によると、これはモンゴルの恐怖の名残とか。見通しの良い草地は韃靼(タタール)に襲われる。森の中だけが安心できる場所だったのだ。)
13世紀といえば、日本もヨーロッパもまばゆい文化・宗教の黄金時代なのに、「タタールのくびき」下のロシアは、華麗な中世の美を味わうことが出来なかった。この時代には戦争すら美しい。平家物語も円卓の騎士物語も、実にカラフルで、ヨロイや馬の彩り豊かなディテールをウンザリするほどていねいに描写している。武士と騎士は戦いぶりが美しくなければいけなかった。なによりも卑怯なふるまいを嫌う「恥の文化」時代である。
もっとも現実の戦争はそれほど美しくなかったに違いないが、私たちは物語を通じて武士・騎士美学に親しんでいる。西欧と日本の人びとが、卑怯な行為、恥ずかしい振舞を嫌悪する気持は、中世の物語に由来するところが大きいのではないだろうか。上杉謙信がライバル武田信玄に塩を送った話は、世界に名高い。パリ・東京雑感|「遊び」の衰退がもたらした民主主義の危機|松浦茂長 | (mercuredesarts.com)
その美学からすれば、ロシアがウクライナの民間人を避難させるための人道回廊を設けておいて、その避難路に地雷を仕掛けたり、避難の列を砲撃したりするような作戦はあまりにも恥ずかしい。しかし、「タタールのくびき」のロシアは騎士道を生むことが出来ず、華麗な中世騎士物語は存在しないのだ。したがって「恥の文化」はなかったし、卑怯という観念もあり得ない。人道回廊攻撃は、病院攻撃と同様、敵を効率良く絶望に陥れるためのすぐれた作戦なのである。

モスクワ赴任中くりかえし読んだベルジャーエフを、久しぶりに読み直してみて、驚いた。レーニンのなかにプーチンの原型がはっきり読み取れるではないか。プーチンを理解するとはロシア共産主義的人間を理解すること、さらにそれは「全世界は悪のうちに横たわっているという世界感覚」をもつロシア的ニヒリズム、裏返しされたロシア正教的禁欲主義を理解することなのだ。

レーニンは人間を信ぜず、そこにいかなる精神的基盤も認めず、精神をも精神の自由をも信じなかった。そして人間の社会的統制ということには限りない信頼を持っていた。強制的な社会組織は、どんな種類の新しい人間でも好むままに造り出すことができる――もはや強制力の行使を必要としない完全に社会的な人間をも。(ニコライ・ベルジャーエフ『ロシア共産主義の歴史と意味』)

(2022/05/15)