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小人閑居為不善日記 |藤子不二雄Aの漆黒の笑み|noirse

藤子不二雄Aの漆黒の笑み
The black humor of Fujiko Fujio (A)

Text by noirse

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大河ドラマ《鎌倉殿の13人》がおもしろい。三谷幸喜の手腕は流石で、頼朝や義経など誰もが知っている歴史上の人物を新たな視点から解釈し直し、存分に笑わせ、楽しませてくれる。けれどもだんだんシリアスな方向へと舵を切りつつもあって、源氏に加担するまでは政治の蚊帳の外にいた関東武士ののんびりとした日常が次第に血で血を洗う政権闘争へと移り替わっていき、次回の放送が待ちきれなくなる。

一方でアニメ好きのあいだではもうひとつの「平家物語」が話題になっていた。元京都アニメーションの山田尚子監督による《平家物語》(2021)だ。《鎌倉殿の13人》ほどの新解釈を施してはいないものの、山田監督らしい意図が込められており、こちらも見応えがあった。

山田尚子の名を一躍有名にした監督デビュー作《けいおん!》(2009)は、同じ京アニ作品《らき☆すた》(2007)などと並び、日常系アニメの代表作と見做されている。以前も触れたことがあるので簡単に説明するが、日常系は一般的な物語形式と違い、確固としたテーマやドラマティックなストーリーよりも平凡な日常の些細なやり取りに価値や美を見出そうとしたジャンル。じわじわと不景気の波が押し寄せる2000年代中盤、嵐からの隠れ場所としての意味合いもあったのか、日常系アニメはたちまち人気を得た。

けれど東日本大震災が起き、日常の不確かさが露わになったせいか、日常系アニメは少しずつ下火になっていった。今でも一定の人気はあるが、出口の見えない不況と格差問題、世界各地で巻き起こる右傾化、コロナ・ショックなどなどが押し寄せてくる中、「日常」のリアリティが揺らぐのはしかたないことだった。

そんな中で山田尚子が取り掛かったのが平家物語だった。平家と言えば奢り高ぶっていたというイメージがあるし、そのように描かれもするが、山田は女性や子供など政治の蚊帳の外にある者たちにこそ光を当て、彼女たちの静かな生活が歴史のうねりによって瓦解していく様を残酷に炙り出していく。

永遠に続くかと思われた日常も実際は不確かなもので、ひとたび「何か」が起こればたちまち崩れ落ちてしまう。わたしは1月からのTV放送で本作を見ていたため、ウクライナ侵攻とリンクしてしまい、どうしても重ねて見てしまうことを避けられなかった。山田尚子のトレードマークだった「日常」が彼女自身の手で解体されていくのと同時進行でウクライナの日常があっという間に崩壊していくのを目にするのは、何気ない日常なんてフィクションでしかないと突き付けられるようだった。

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昨年末から大物マンガ家の訃報が続いている。9月にさいとう・たかを、10月には白土三平。12月には平田弘史、明けて今年の1月には水島新司が相次いで逝去した。そして4月、藤子不二雄Aが世を去った。

戦後の日本マンガを長いあいだ支えてきた藤子不二雄Aにはいくつもの側面があり、人によって印象も変わる。言うまでもないが藤子不二雄のコンビの一人であること。トキワ荘の住人だったこと。《忍者ハットリくん》や《怪物くん》のような、誰もが知っている子供向けマンガの名作の数々。マンガ家を志す者なら誰もが読まなくてはいけないとまで言われる《まんが道》。

けれどもうひとつ忘れてはいけない作品群がある。ブラックユーモア路線だ。《魔太郎がくる!!》や《笑ゥせぇるすまん》などの連作もあるが、〈ひっとらぁ伯父サン〉、〈マグリットの石〉、〈水中花〉、〈万年青〉、〈赤紙きたる〉、〈なにもしない課〉などの、1960年代後半から70年代中盤にかけてのブラックな短編たちこそ、わたしにとっての藤子不二雄Aだ。あまりに藤子・Fの《ドラえもん》の成功が大きかったせいか、藤子不二雄と言えばまとめて明朗なものと括られることもあるが、わたしは藤子Aの「黒い」作品が好きだった。

わたしがマンガを読み始めたのはジャンプ全盛時代に差し掛かる頃で、《ドラゴンボール》や《聖闘士星矢》なども楽しみに読んではいたが、何故か昔のマンガが好きで、手塚治虫や水木しげるを愛読するような読者だった。それも行き当たりばったりで読んでいたので、《火の鳥》や〈総員玉砕せよ!〉のような大人向けのマンガも混ざっていた。だから藤子Aのブラックユーモア作品にも抵抗はなかった。

藤子Aの短編は、TVドラマ《アウター・リミッツ》や《トワイライト・ゾーン》のような、小説で言うと「奇妙な味」と呼ばれるような作風が多い。けれど幻想趣味に浸るというよりは、現実を強く忌避した結果狂気の淵に踏み込んでしまうようなものが多かった。

とりわけ強い印象を残した作品のひとつが〈明日は日曜日そしてまた明後日も……〉だ。成人しても社会に馴染めず、いつまでも家を出ることのできない男の話で、引きこもりをテーマにした作品として先駆的な存在と目されている。

《笑ゥせぇるすまん》にも似たような系列の作品がある。一回完結の連作短編シリーズで、狂言回しとして喪黒福造という謎の男が現れて、現実社会に疲れ、悩みを持つ主人公の願いを不思議な力で叶えてくれる。しかし約束を違えた主人公は代償を払うことになり、たいていの場合彼らは破滅していく。

破滅のかたちも様々にある中、〈オールド・シネマ・パラダイス〉や〈カンタンの夢枕〉など、主人公が狂気の中に閉じこもってしまうというパターンがある。家族や周囲の人々には迷惑この上ないが、彼らにとっては狂気の沙汰こそ幸福であり、救済だ。もともと現実との齟齬に苦しんでいたのだから、いっそ狂ってしまった方が楽なのだ。

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手塚や水木作品の根底には強いニヒリズムがある。ラバウル戦を生き抜いた水木のマンガがニヒリズムに裏打ちされているのはよく知られているが、ヒューマニズムと目されがちな手塚作品も根底には人間社会への不信感があり(たとえば宮崎駿もそうした発言をしている)、ヒューマニスティックな作品も「あえて」そう振る舞っていたことが分かる。

わたしは子供ながら――いや、子供だからか――直観的にそれを理解していた。友情・努力・勝利のジャンプ作品や、夢のある藤子・Fのマンガもそれはそれとして好きだったが、人間や社会への不信感を隠そうとしない手塚や水木、藤子Aの方が何故だか肌に合った。社会はグロテスクで非人間的なものであり、正気を保ちながら生きていくことの困難さを、わたしは彼らのマンガから学んだ。

けれど今思うと、藤子・Fにもそういう側面が窺える。《ドラえもん》だってそうだ。ドラえもんは落ちこぼれののび太を社会で通用できるようにするため、のび太の未来の子孫が送り込んだロボットだ。けれどドラえもんはのび太を甘やかしてばかりで、目的に近付いているとは言い難い。長編ではのび太も多少は成長しなくもないが、それがビルドゥングスロマンのように積み重なることもない。

のび太はドラえもんの庇護下から社会に出ていくことはない。四次元ポケットの中で永遠に遊び続け、昼寝し続けるのび太と、社会から縁を切り、引きこもり続ける〈明日は日曜日~〉の主人公は、本質的に同じだ。藤子・Fと藤子Aは表面が異なるだけで、同じことを語っていたとも言える。

それはアニメの《ドラえもん》を見ていても分かる。《ドラえもん》は1973年のTV放送開始以来今に至っても作中時間が現実に沿っておらず、いつとも知れない日常を繰り返し続けている。連載から50年経ってものび太は小学生のまま年を取ることはないし、もちろん社会に打って出ることもない。

さらに言えばドラえもんと喪黒福造も背中合わせのような存在だ。ドラえもんはのび太のためにひみつ道具を貸してやり、図に乗ったのび太は最後に痛い目に遭う。喪黒は悩みを抱える現代人のためにひとときの幸福を与えるが、約束を破った彼らは制裁を受ける。藤子・Fと藤子Aは最終的にコンビを解消するとはいえ、やはり息はピッタリだったのだ。

作者の死後も放送し続けている《ドラえもん》の世界は、一種のユートピアだ。その形態の現在形が、きっと日常系アニメなのだろう。しかし《けいおん!》放送から10年以上経ち、同作でひとときの夢のような日常を垣間見せてくれた山田尚子は、《平家物語》で日常が如何にもろいものかを露わにしてしまった。日常系は最早ファンタジーと見做した方が実情に近くなってしまった。

しかし日常系がファンタジーなんて初めから分かっていたことだ。深夜アニメのようなフィクションの世界にもシリアスな現実の足音が忍び寄ってくるような状況でも、どうにか正気を保ったまま生き延びていくしかない。藤子Aの作品を読んだときから、それは分かっていたことだった。

けれど、藤子A作品を久々に紐解いてみると、彼のユーモアは絶望的で厭世的なのではなく、カラッとして爽快ですらあったことに気付く。救いようのないこの世の中、いっそ夢の中に閉じこもっていたいという気持ちになるのは仕方ないが、狂ってしまう訳にもいかないし、ならば黒いユーモアで笑い飛ばしていこうじゃないか。そんな藤子Aの声が聞こえてくるようだ。

日常系アニメと妙に波長が合ったのも、もしかしたら藤子・F、そして藤子Aの作品に読み浸っていたからなのかもしれない。わたしが藤子不二雄Aの長い影の中から抜け出すことは、この社会から完全に離脱するまでないだろう。それだけの魔力が、藤子A作品にはあったのだ。

(2022/5/15)

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noirse
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