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読売日本交響楽団第616回定期演奏会|西村紗知

読売日本交響楽団第616回定期演奏会
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra Subscription Concerts No. 616

2022年3月8日 サントリーホール
2022/3/8 Suntory Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 読売日本交響楽団(撮影:藤本崇)

<演奏>        →foreign language
指揮=山田和樹
ヴァイオリン=小林美樹*

<プログラム>
ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35*
※ソリストアンコール
武満徹:めぐり逢い(チェレスタ:山田和樹)
諸井三郎:交響曲第3番

 

山田和樹は批判的=批評的な(kritisch)指揮者だと、筆者は常々思っている。
彼のタクトは、作品のことをすべて、その本当は隠し通したい部分まで詳らかにしてしまう。
あれは読響の2019年の演奏会だった。あの時山田は、諸井三郎の「交響的断章」とスクリャービンの「法悦の詩」とを同じプログラム内に配置していた。筆者はそれらを比べるようにして聴き、単純に恥ずかしくなった。戦前の日本の現代音楽というのは、これくらいのものだったのか、と。「交響的断章」は形式主義に則っている、というより単に几帳面で、フレーズは小節線でいちいち区切られ、音調こそドイツ音楽らしいとわかるが、特にメトリークがなっていないのではないか、と筆者は思った。
山田が、邦人作曲家の作品を積極的にプログラムに織り込むのは、どういう思いがあってのことか、筆者はその内情を知らない。
もちろん素晴らしい試みには違いない。もっと他の指揮者もやるべきだと個人的には思う。ただ、それは単に褒められるだけの行いではないはずなのだ。
特に戦前の国内作品は、その技術的水準のお世辞にも高いとは言えない部分を、さらけ出さなければならないことになるのだから。

ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」は、堅牢な構造体が表現全体を担っていたところが意外だった。マラルメの詩の芳香が……と言いたくなるような、蠢きや情感が思ったほどない。まだ1890年代の作品であるから、1900年代のピアノ曲集〈映像〉や〈前奏曲集〉で聴こえてくるような、あわいや色彩の表現が確立されていない、ということだろうか。入りのフルートの音色は夢見心地にふわふわしていても、続く管楽器セクションの響きは思いのほか硬質だ。弦楽器も少し重たい。各セクションの響きが硬質というより、受け渡しがあまり馴染んでいないのであり、かといって効果的に対比をなしているというほどでもない。
ドビュッシーの語法に含まれる、古典主義的な部分が前景化した演奏だったのかもしれない。

プログラム2曲目は、オランダ出身の作曲家ファン・デル・アー(1970-)の「ヴァイオリン協奏曲」(日本初演)から変更され、コルンゴルト「ヴァイオリン協奏曲」。このプログラム変更は結果的に正解だった。休憩後の諸井の交響曲と、あまりにドラスティックな対比をなしていたからだ。
コルンゴルトの方は第二次世界大戦終結後1945年に、諸井の方は太平洋戦争末期1944年5月26日に、それぞれ作曲が終えられている。これら二つの作品がプログラムに並んだとき、この日付を無視して聴くのは困難だろう。
ソリスト・小林美樹のヴァイオリンの鳴りはパワフルで、どこの音程であってもクリアに鳴っており、聴き映えがした。シルバーのドレスも眩しく、曲のイメージにぴったりだった。速いパッセージも全力疾走で気持ちがいい。
ソリストアンコールは武満徹のソング「めぐり逢い」で、山田がチェレスタで伴奏を弾いた。会場はつかの間、癒しの空気に包まれたのであった。
音楽は元気でキラキラしているのがいいに決まっている。新ウィーン楽派の成果を、あの薄暗い病気っぽい音の数々を国外に持ち出してハリウッドで成功を収めたコルンゴルトの音楽を聴くたびに、筆者は素直にそう感じる。

――いやしかし、これが戦勝国と敗戦国の違いかと、その歴然たる差に愕然としたものだった。これをそのまま、コルンゴルトと諸井の、個人の気質や技術の問題のみに帰することは絶対に不可能だ。片や、ハリウッド映画の豪華絢爛な響きがこれでもかと投入された音楽で(なんて軽薄なのだろう)、もう片方は、恥ずかしいほどにシンプルかつ生真面目な語法でつくられた(もはや形式主義なんてものではなく、単純に素材が乏しいのだ)、死骸のような音の隊列。これが、戦禍の記録でなくてなんだと言うのだろう。悲しくてやりきれなかった。
第一楽章はあからさまな葬送行進曲であると思った。ヴァイオリンのGの音を中心としたシリアスな音の連なりにオーボエ、チェロが絡み合っていく。楽想の展開は折り目正しく、だが、表情がない。ヴァイオリンとオーボエの応答や、遠くへと響き渡るホルンにも。第二主題提示と、それ以降の動機がたくさん折り重なる展開部も、音楽は自由になれない。
第二楽章は、大太鼓、小太鼓、ティンパニが牽引する、軍隊行進曲らしい曲想だ。だが、タイトルが「諧謔について」というのがなんとも言えない。トランペットのいかにも軍隊ラッパらしい楽想が、不自然に断ち切られるようにして終わるその仕方に、そのあまりに真っ直ぐなやり方に胸を熱くしたのは筆者だけではないのではないか。
第三楽章の、この、なんというオルガンの使い方。弦楽器群と音量も音域も同じところにし、その響きにうずもれるようにしてあるので、オルガンがよくわからない歪んだ音響を醸し出している。これを「人類の祈りの歌」と弟子の柴田南雄は評したらしいのだが、その評し方も含めて、思わず言葉に詰まる。

ある「戦後派」の作曲家が、「戦前派」の作曲家は何をしていたのだ、あの戦争中に、などと悪口を書いているのを筆者は見たことがある。
だが、諸井の交響曲の、直視しがたいほどに実直な反戦の精神よ。
これを戦後派の作曲家たちは、本当に聴いたのだろうか。初演に立ち会っても、そんなことが言えたのだろうか。

山田の指揮は、諸井作品に刻まれた、この国が忘却しようとしている暗部をしっかりと掴み取っている。
この作品は何があってもこの国で演奏され続けねばならない。純真かつ複雑で、人類史に向けたまったくの私的な表出で、恥ずかしくもみすぼらしくもあるだろうこの作品こそが、まさにこの国の輝かしい似姿に他ならない。

(2022/4/15)

  

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<Artists>
Conductor= KAZUKI YAMADA
Violin= MIKI KOBAYASHI*

<Program>
DEBUSSY: Prélude à l’après-midi d’un faune
KORNGOLD: Violin Concerto in D major, op. 35*
Soloist Encore
TAKEMITSU: The Encounter(celesta= KAZUKI YAMADA)

MOROI: Symphony No. 3