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特別寄稿|私のフランス、私の音|『知覧の神風とウクライナの唄』|金子陽子

『知覧の神風とウクライナの唄』
Kamikaze de Chiran et Mélodie Ukrainienne

Text & photos by 金子陽子 (Yoko Kaneko)

>>> フランス語

I

鹿児島市から見た桜島

私が18-19歳の頃、父の積極的な希望で、歳の離れた兄の赴任先を訪ねるべく遠方の鹿児島まで家族旅行をすることになった。寝台車に揺られ、朝鹿児島市内の兄の住まいに着くと、夏とはいえども降って来る火山灰のため容易に網戸にもできないし、室内からも桜島の噴火の音が日夜に関わらず時折爆竹のように聞こえてきた。人間の理解を超える地球の気まぐれな呼吸と日々共生するこの地の人々の勇気に感銘を受けていた私の傍らで、父は、この旅行の真の目的地は薩摩半島南端の知覧町(現在の南鹿児島市)で、是非一家で訪ねたいと切り出した。

深蒸し茶の産地として世界にも名高く、南国の光がひときわ眩しい知覧町は、第2次世界大戦終戦間際、追いつめられた日本軍が展開した『神風特攻部隊』の主要出発拠点という重い過去を持つ。自らの命、往路のみのガソリンを入れた飛行機、250キロの爆弾を武器として、日本の南西の島々に上陸して来た敵国の艦隊を狙って「玉砕」(自爆)する任務、最年少は17歳、平均年齢21.6歳という若き特攻隊員達の最後の記念写真、寄せ書き、実際に使った飛行機などが展示されている​知覧特攻​平和会館に私達家族は向かった。(知覧特攻平和会館の公式サイト https://www.chiran-tokkou.jp/ )

私達の母は、生まれ育った​(当時日本の​植民地​だった)​上海から終戦間際に広島に引き揚げて​被曝(1945年8月6日)、爆心地にあった女学校が​偶然​​休息日​で登校しなかった​ことで​助か​​り、女高師を出て結婚するまで中学で数学と音楽を教えた。父は軍人を目指して仙台陸軍幼年学校、士官学校に学んだが、敗戦で学校自体が閉鎖となり、東京で経済を学んだ後に几帳面な銀行員となり後に支店長まで昇格した。戦争と敗戦で価値観も夢も覆えされるという壮絶な思春期を過ごした世代だが、両親は私達に戦争と原爆の話をすることは極力控え、高度成長期の『世界に追いつき追い越せ』精神の希望に満ちた日本で、明るく惜しみなく、豊かな教育の機会を与えてくれていた。

4人で訪問した知覧平和会館で​実際に目にした飛行機は、想像したよりも小さく脆く感じられ、この飛行機で突撃して敵軍を追い返すという主旨自体が現実的でないように私は感じた。そして出陣直前の記念写真に映し出された若き特攻隊員達の壮絶な眼差しからは、高貴と称された彼らの勇気以上に、数時間後に短い生涯を終わることへの無念さが私には明白に読み取​れ、​心を引き裂かれる思いだった。

父はというと、隊員の写真や達筆の手紙(遺書)を凝視しつつボロボロと涙を流して泣いていて私と兄は驚いた。男泣きする父を見たのはそれが最初で最後のことだった。そこに居たのは、子煩悩な父親でも几帳面な銀行員でもなく、軍人の卵として大日本帝国に情熱を捧げかけたかつての青年だった。

 

II

『カミカゼ・Kamikaze』という言葉はその後奇しくも日本発祥の国際語として様々な場面に於いて世界中で使われるようになった。
海外では「英雄的又は自殺的な行為」と解釈され、無茶な行為や自爆テロの際にも他に適切な単語がないこともあってごく普通に使われている。しかしながら、知覧で網膜に焼き付けられた彼らの眼差しと共に、私にとってのこの言葉はとりわけ強烈な「大和魂という大義名分のもとに第2次大戦末期に狂気の犠牲となった若者達の悲劇」という意味を含むのだ。
日本人として、当事者の家族の立場として理解するカミカゼと、外国人が想像するカミカゼ。その表裏の差ほどもある意味の違いは、物事、とりわけ歴史に於いて、各自の生きた場所と視点次第で見解の対極化が生ずることの一例かもしれない。

コロナ災禍に続いて2022年2月末に勃発した、ロシアとウクライナの激しい戦いは、立場の違いからくる解釈の違いを私自身が目の当たりにする機会でもあった。​まず、​この戦争(軍事介入)をまったく予想せず(感知しようとせず)驚愕したのは主に日米西欧だったようだ。パリで世界各国、とりわけ東欧をルーツに持つフランス人達と接することで、日米西欧中心のメディアでは触れられることがない諸民族の多様な歴史とその見解、教科書でも西欧の新聞でも語られることのない証言が存在することを私は初めて知った。

そのひとつの例は、ユーゴスラビア紛争で、アメリカが率いるNATO軍(フランスも同じ側である)によってセルビアは1990年代に母国への激しい爆撃を受けて民間も含む犠牲者を出した。移住した先の国が属する連合軍が祖国を正当な理由ということで爆撃するというのは見るに耐えないことだったであろう。ウクライナへの軍事介入とヨーロッパ共同体の在り方自体が、彼らの祖国の運命、受けた傷跡と類似性を持って重なっているそうだ。東西緊張時代の旧ソ連に守られて存続してきた国々は、日本、米国、西欧が共有する価値観や報道とも、一線も二線も隔たる視点を持っているということにも気がついた。善悪、敵味方には簡単に区分けのできない、永い争いと裏切りが何層にも重なった国際関係においては、文部科学省が検定する教科書の記述とは異なる、現実の、それぞれの人生や視点と内密に関わる歴史があらゆる場所に存在する訳だ。

地理的、歴史的にこのように複雑な状況と向き合った時、情報を見極められる広い視野と冷静で客観的な理解力の必要性を痛感する。ヒステリックな感情に走った発言や行動は、政治的に利用されかねない。むしろ日常を変えずに黙々と​、​天から自分に与えられた仕事を、政治や戦争と結びつけることなく今まで通りに続けて行くことも​​強さ​なの​だと私は気がついたところだ。そして、勿論、助けが必要な人々には差別なく手を差し伸べること​も​。

 

III

ドイツ語版のロシアメソードピアノ教則本第一巻、シコルスキー社

コロナ災禍中にご縁を頂き、私はパリ​のすぐ近郊の音楽院のピアノ科の子供達を指導するようになった。生徒達は皆フランスで生まれたフランス人だが、両親達のルーツは東欧​諸国​、ウクライナ、北アフリカ​諸国​、中国、カリブ海​諸国​、スリランカなど驚く程様々で、ほとんどの子供達は​両親の​母国語とフランス語のバイリンガルとして大切に育てられている。彼らのため​の​ピアノ教則本の選択に私はしばらく迷ったあげく、​私​​の大好きなカバレフスキーとバルトークの小品が沢山収められている『ロシアメソード教本』(ただしドイツ​語​版)を使うことにした。ページをめくっていくと、出版国のドイツも含め、東欧、旧ソ連の様々な民謡や舞曲が​初心者用の独奏と連弾への編曲で​紹介され​​、私の生徒達が持つ国際性にも似合っていることに気がついた。その中でもとりわけ美しい​曲​が​初心者向けの​『ウクライナの唄』。

ウクライナの唄

哀愁を帯びたこの曲は、昨年生徒の間で​思いがけない​ブームとなった​。​アルジェリア、ポーランド、ルーマニア​にルーツを​持つ、まだ10歳にならない生徒達は、半年くらいの間、レッスンの最後に『ウクライナの唄』を弾かないと気が済まず、毎週大好きなこの曲を披露してくれた。しかもロックダウン下でスカイプレッスンの時は曲の最後に可愛い飼い猫が賛助出演というおまけ付きだった。ウクライナ出身​の​男子生徒はというと、ママ​が​大好きな「ウクライナ​の民謡」​の難し目な編曲の楽譜を猛練習して、お誕生日に弾いて喜ばせたいと、密かにコピー​譜​をレッスンに持ってきていた。ただし、スカイプレッスンでママが在宅の時はばれてしまうため、その場合は​残念ながらこの曲の勉強はお流れ、、​、画面ごしに2人で苦笑し​た​ものだ。

人間なら誰でも次の世代に教え継ぎたい事、伝え​たい​メッセージがあるものだ。それは家庭でも教育の場でも専門分野でも同じであろうが、​メッセージ自体は必ずしも言葉という形は取らない。それぞれの国の伝統やアイデンティティを大切に、というロシアメソード教本の編集者が抱いた意図、次の世代を担う子供達へ託された希望は、​各国の唄や舞曲を優先したということからも充分に伝わってくる。
両親が私に託した日本の過去に関するメッセージを思うなら、9年前に他界した母は、原爆について多く語ることがなく私に被曝体験集を託したし、19年前に他界した父は家族旅行の形で神風特攻部隊の存在と過去の日本、父自身の姿を私達に伝えた​と言えるだろう。

​かく言う私はというと、​世界で起きている事や、必ずしも言葉にされない事から、秘められたメッセージを見つけて​解読すべく、​情報が飛び交い交差するパリで、日々模索を続けている​​。その一方で、政治や戦争とは離れた音楽の分野で、作曲家が作品に込めたメッセージ、自らのメッセージ、若き生徒達からのメッセージを演奏​の中​に丹念に織り込​み、音​の世界が持つ際限のない​素晴らしさを​​人々に伝え、分かち合うというこの職業を天が私に与えてくれたことに感謝する。

確かに私は音楽を含む芸術を信じている。そして政治と文化の同一視は決してあってはならない。何故なら、文化とは、現実逃避をする場所ではなく、様々な民族を繋ぐ大切な力を内蔵するかけがえのないものだからだ。

ウクライナの童謡、連弾用と、ウクライナの舞曲。
シコルスキー社のドイツ語版『ロシアメソードピアノ教則本』第一巻より

(2022/4/15)

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金子陽子
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
https://yokokaneko.wordpress.com/