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東京・春・音楽祭 2022 リッカルド・ムーティ指揮 東京春祭オーケストラ|秋元陽平

東京・春・音楽祭 2022 リッカルド・ムーティ指揮 東京春祭オーケストラ
Riccardo Muti Conducts Tokyo-HARUSAI Festival Orchestra

2022年3月18日 東京文化会館 大ホール
2022/3/18 Tokyo Bunka Kaikan Main Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
写真撮影:池上直哉、平舘平/写真提供:東京・春・音楽祭実行委員会

<演奏>        →Foreign Languages
指揮:リッカルド・ムーティ
管弦楽:東京春祭オーケストラ

<曲目>
モーツァルト:交響曲 第39番 変ホ長調 K.543
シューベルト:
交響曲 第8番 ロ短調 D759《未完成》
イタリア風序曲 ハ長調 D591

 

©Ikegami

昨年の『マクベス』公演では、並み居る欧州オーケストラを凌ぐ水準で聴衆の度肝を抜いた春祭オーケストラとリッカルド・ムーティの公演だ。彼のタクトはヴェルディのあらゆる定型的なパッセージ、付点音符のリズムや歌い回しに、それらのうちに暗黙に期待されているキャラクターを呼び覚ますことで、いわば紋切り型を賦活し、音楽を爆発的に生命力溢れたものにする。その意味でこの若い「祝祭」オーケストラと老巨匠の出会いにとって、ヴェルディの音楽は最高の接点たりえた。
昨年のそうした、敏活な音楽への期待の中、モーツァルトの交響曲第39番は、ムーティ自身が、演奏前にこのコンサートの真っ最中に異国で行われている戦禍について短い祈りのスピーチを行ったということもあって、一種異様な印象を与えるほどの平明さをともなって滑り出した。それは覚悟を決めたものの穏やかさだ。ひとたび世界の構造を了解すれば、怒りもせず、悲しみもせず、無限のパースペクティヴのなかで、ひとをやさしく説得することができるとでも言うような。何度聴いても謎めいた印象を拭えない、しかし優美なこの交響曲は、その歌心と、繊細に編まれた管楽器の呼応なども含めて「オペラティック」と形容されることもあり、その点ムーティの性格的な色彩法にぴったり合っているところもあるのだが、同時にわたしには、どこかベートーヴェンのある部分を彷彿とさせるものがこの音楽に潜んでいるように思える。つまり、いまにも爆発しそうな朗らかさが。だが、ムーティはこれを神智的な深淵として解釈するというよりは、いわばオペラの側面へと寄せて擬人化し、作品をひとりの人間の性格のなかで捉え、泣いて、笑って、踊って、歌う、そういうヒューマンな原型を取り出してゆく。

©Tairadate

39番の美しい切断的な終わりに続く『未完成』は、まさに、そのムーティの美質の真骨頂というほかないものだった。あきらかに崇高の効果が見込まれる冒頭の低弦から序奏に至る流れもまた、こうした「キャラクタライゼーション」の魔法で、ひとを畏怖させる近寄りがたい深淵というよりは、どこかひとを恐れの中でもわくわくさせる、オペラの序奏のような、どこかゴージャスな物語性を帯びる。第二楽章も天国的に美しいが、ただしうつし世からはるか隔絶された彼方という意味での「天国」に焦がれるロマン主義的な彷徨ではなく、歌の暖かさ、親しみやすさのなかにある遠さであって、シューベルトの中にある<死>の崇高よりは、むしろ<生>がもともと持っている憧れと苦悩の対話を見出す演奏だ。
この意味で、『イタリア風序曲』がフィナーレを締めくくったのは実に愉しい仕掛けだった。前2曲のなかにもじつはオペラティックな側面が潜在していたことの種明かしのようだ。鞠のように音楽が弾み、思わずムーティにもプレイヤーにも笑みが零れる。シューベルトにつきまとう、いわば白鳥の歌の郷愁のイメージから離れるように。妙な言い方だが、感情をなにか別の難しいものに昇華するだけではなく、音楽には、感情を感情としてそのまま動かすという得がたい効果がある。身体を動かさなければ凝ってしまうように、感情も動かさなければ、いざというときにうまく感じられなくなるのかもしれない。

©Tairadate

(2022/4/15)

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<Performers>

Conductor:Riccardo Muti
Orchestra:Tokyo-HARUSAI Festival Orchestra

<Program>
Mozart:Symphony No. 39 in E-flat major K.543
Schubert:
Symphony No. 8 in B minor D759 “Unfinished”
Overture in C major D591 “In the Italian Style”