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プロムナード|〈アイドライゼーション・ポイント〉展を観に行って|西村紗知

〈アイドライゼーション・ポイント〉展を観に行って
about the exhibition “idolization point”

Text by 西村紗知 (Sachi Nishimura)

4月3日、「アイドル」をテーマにした現代美術展である〈アイドライゼーション・ポイント〉を観に行った。ツイッターでたまたま見かけ、ぼんやりと会場に向かう。この日が最終日だった。東急東横線あざみ野駅に降り立つのは初めてのことで、雨が降っていて4月だというのに真冬の寒さだった。
横浜市民ギャラリーあざみ野展示室2Fには27点の作品が並ぶ。このうち5点が観客参加型だったが、筆者は何も調べずに最終日に行ったので、それら5点の作品については他の観客が参加しているのを傍から見るだけ、あるいは全く体験せずに終わった。受付の物販すらも展示の一部のようであり、アイドル批評誌「かいわい」の配布物を筆者は入手したいと思ったが、アイドルのCD1枚と物々交換するというのが入手の条件だったので諦めざるを得なかった。しかしこれもまた、アイドルをテーマにした展覧会ならではのことである。
このグループ展に作家として参加したのは12名(団体)。美術家・画家のみならず、アイドルグループ運営者、ライターが関わっているのが特徴的で、さらに、アイドルグループである「RAY」が観客参加型イヴェント「アイドルに関するabcd…のレチタティーヴォ」の演者として、また渡辺おさむの写真作品の被写体として登場する。そうして現実のアイドルと運営とが関わることで(ひょっとして観客も実際のアイドルオタクだったのかもしれない)、本グループ展に出展された作品は、アイドルという捉えどころのない対象、現象、あるいは仕組みを扱ってはいるものの、全体として地に足のついた、もっと言えば生々しくリアルな表現を実現していた。
それは、一口にアイドルと言っても様々だが、この日の場合はいわゆる「地下アイドル」と呼ばれるような、より小規模な共同体において生み出されるアイドルのことが念頭に置かれているようであったためだ(とはいえ、村田勇気による、顔面の塗り潰されてしまった木彫「伎芸天首試作」については一旦例外として措くべきだろう。笹田晋平の2つの油彩画もまた、これらの作品には、西洋絵画の宗教画の手法を下敷きにしつつ、アイドルの女の子から天皇制をも射程として含むダイナミズムがあったので、その限りではないのであろう)。
そして、本グループ展全体を見渡して、アイドルそのものを主題にするというより、「アイドルの現場」についてそれぞれの作家が異なる切り口で展示を行っていた、と言えるのではないかとも思った。
つまり、アイドルは何によって始まるか。ただの女の子はどういった瞬間にアイドルになるのか。ただの物質においてアイドライゼーションが生じるなら、それはどういうことが起こっていると言えるのか(この問いは特に、絵画への問いにそのままスライドできるものなのかもしれない)。例えばそんなふうに、まさにアイドルが生まれる現場性を問うことで観客に揺さぶりをかけていく。

そしてその問いは、まず第一に、社会的紐帯への問いに他ならなかったのかもしれない。特に、外側にチェキの貼られた狭い防音空間で、「チェキ撮影」の行為をモティーフにしたらしい音声と映像を体験する、タナカハルカの作品「確かに曖昧だったアイドルの記録」で、そういう印象を持った。コロナ禍を経たからこそ可能な表現なのだと、個人的にはそう感じた。
地下アイドルの現場とは、実際にアイドルとファンが同じ空気を吸い場合によっては身体が接触するライブハウスのことだろう。そしてこの現場はコロナ禍で真っ先に失われたに違いない。私的で権威や知名度もなく関わる人員も少ない現場は、給付金や補助金の恩恵に与るのがどれほど困難だったか、想像に難くない。実際足を運んでいたライブハウスが閉鎖され、再びアイドルに会えるようになってもマスクや何やらでアイドルとファンとは遮られたままという喪失経験が、現代アートの表現手法と結びついて昇華されていったのだと感じた。
タナカハルカの作品のみならず、喪失と隔たりという、ある種の直接性の消失が、そのまま本グループ展の各作品の表現の根底に横たわっている、と感じた(この観点は、そのまま天皇制への観点なのかもしれない、と筆者は連想した)。
地下アイドルの界隈の社会的紐帯、現実のこれそのものには、アイドルに関心がない人に訴えかけるものは少ないだろうし、ファンとアイドルとの関係性には何かしらの問題があり続けてもいるだろう。しかし、いかに多くの、ほんのささやかな社会的紐帯がこの約2年間で失われたことか。このことを思うとき、本グループ展の表現の生々しさは、二度と戻ってこない時空間に由来するのかもしれない、と思えてならなかった。

とは言っても、筆者が最も感じるところの多かったのは、社会的紐帯とはまた別の事柄である。
巽千沙都の立体絵画作品を、じっと見つめる。
「夢に映える」(2022年 アクリルガッシュ/メディウム/ラメ/プラスティックパーツ)。フリルのついたポップな浴衣(?)を着た女の子が、りんご飴をもって、ヨーヨーやらラムネやらに埋もれるように装飾されて、こっちを見ている。また、画面全体が、ラメや、ストーンやパールなどのプラスティックパーツで装飾されている。絵画に直接立体性をもたらすこれらの素材は、描かれているものと題材上は地続きでありつつ、しかし現実においてこれらの素材は実際に装飾として使われているものであるから、描かれているもの(イメージ)とは緊張関係にある。つまり、これらのストーン、ラメ、パールといった素材は、絵画という、現実としてはただの物質の寄り集まりでしかないものに対しアイドライゼーションを行い、すなわち物質としての絵画を物質以上のものにしようとする。しかし、こうした作用を通じることで却って、ストーン、ラメ、パールは、装飾の帰属先であるところの絵画が、結局はただの物質でしかないということを語ってしまってもいる、かのようでもある。
ストーン、ラメ、パールの流れに視線を合わせる。これらと、描かれた女の子が重なった瞬間、つまりこれらがピアスやネイルの装飾として見えた瞬間に、彼女の肉体がこちらに浮かび上がってくる。だが、ちょっと目を離したら、彼女はまたいなくなってしまう。いや、彼女は確かに存在したままだが、肉体が消失するだけだ。彼女は、他に描かれているものや立体的な装飾と同様の、装飾に姿を変える。
――しかし、彼女もまた装飾に過ぎない、とするなら、装飾の帰属先は何に当たるのか。作品内部に装飾ではないものなどもはや存在しない、というならば。
これが、つまり装飾の帰属先が消失し、あらゆるものが装飾するものとなったということが、アイドライゼーションの完遂なのだろう。ひょっとすれば、これこそ最も本源的なアイドルの現場なのかもしれない(ちなみに、こうした絵画経験から、ロラン・バルトが天皇について語っていたことを想起するのは自然なことではないだろうか、とも思う)。
また、「夢は現」(2022年 アクリルガッシュ/メディウム/ラメ/プラスティックパーツ)――これは5人(枚)の女の子の連作だが――の角にかけられたリボンのことについてもぼんやり考える。リボンという立体的な装飾の機能は、パールやストーンとはまた別の位相にあるのではないか。もっと、アイドルをアイドルとして見做す側の、認識のフレームの問題に、あのリボンは関わっているように思える。さながらプレゼントの包装にかけられるそれを連想させるからだろうか。あのリボンは、女性を所有すること、という事柄を指し示しているのではないか、と。
装飾ではないものなどもはや存在しない、物質相互の緊張関係で張り詰めたひとつの世界は、外部から、その緊張関係などつゆ知らずといった感じに、容易く所有されることだろう、などと筆者は考えていた。彼女にとっての「かわいい」と、見る側にとっての「かわいい」とは、なんと不均衡であることか(ちょっと外れるが、大森靖子「マジックミラー」の、「モテたいモテたい女子力ピンクと/ゆめゆめかわいいピンク色とが/どうして一緒じゃないのよ あーあ」という歌詞についてもぼんやり考え込むようである)。

アイドルの現場とは、つまるところ、本人が本人にとっての装飾として生き始める瞬間の、高揚交じりの身体感覚のことではなかろうか。もはや帰属先のない、自分の肉体すら帰属先とならないといったようにして(肉体でもってまさに装飾となるのであるから)、アイドライゼーション・ポイントを通過した人間は、自らの意志と感性と維持管理費でもって、装飾であり続けねばならない。この経験は、何も、職業としてアイドルをやる人間だけに特権的に得られるものではないだろう。それだからこの日の巽の絵画作品は、アイドルという問題設定を越えて規範性を持ち始める。
彼彼女らは、自分自身のための装飾であって、もはや誰を装飾することもない。ファンを飾るのでもないし、恋人にとっての飾りですらない。仮に肉体は所有できたってアイドルは所有できない。恋人はどうだか知らないがファンはファンである以上、アイドルに対し所有できないものを、それでもなお欲することだろう。こうして、他人との関わり合いを通じて、彼彼女らの自閉した装飾作用はより徹底したものとなる。
帰属先のない装飾品としての生とは、まさに、巽の作品のタイトルそのまま「一生私主義」ということだ。この生は確かに強い。自分で自分のことを決定する自由を持っている、ともいえる。でも、だからこそ、描かれた女の子は終ぞ絵画の外に――アイドルという認識のフレームの外側に――出るための力を何からも得ることができないことだろう。
「うちら誰かの所有物じゃねえ/1人で立ち手つなぐ〜!」と高らかに宣言したのはZoomgalsの楽曲「GALS」でのあっこゴリラだったが、女性の自律(自立ではなく)と連帯は、改めて、なんとも険しい道のりのように思えてならない。
「一生私主義」という今日的な自律は本来的に自律と言えるか。この自律は自らの幸福を導くのか。
本人が本人にとっての装飾として生きるという、いわば二重になった生を生きる強度のわりに、さながらリボンを掛けられるかのように、あっけなく他者に所有されるようになったら、そこから彼彼女らには何ができるだろうか。というのも、「一生私主義」という自閉した経験から、リボンを掛ける側への批判や攻撃が、それすなわち自分を防護することが、どうして可能となろうか。それにそもそも他者に開かれずして何が自律と言えるのだろう。

本グループ展の帰りの道中、筆者は、近頃見かけた電車内の中吊り広告、ハイティーン向けの二重まぶた整形手術の広告のことを思い出していた。最近の化粧品の広告では、多様性を配慮してか、一重まぶたのモデルが採用されることが増えたようにも思うのだが、いやはや。女性の容姿の多様性に向けた展開と、整形手術の低年齢化並びに一般化とが、軌を一にしているだなんて。
アイドルの現場は遍在する。――どのみち、疎外された経験としてしか女の子を知らない筆者には、今日も今日とて自撮りに勤しみ、あるいは整形外科の門を潜る女の子のこと、毎日毎日アイドルの現場であり続ける人間のことを、想像することしかできないのだったが。

(2022/4/15)

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アイドライゼーション・ポイント
横浜市民ギャラリーあざみ野展示室2F
2022年3月24日〜2022年4月3日