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パリ・東京雑感|自由の値打ちを教えてくれたウクライナの人びと|松浦茂長

自由の値打ちを教えてくれたウクライナの人びと
The War That Awoke the World

Text & Photos by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

ロシアがウクライナに本格的戦争を仕掛ける前は、プーチンのやることにはそれなりの筋が通っていると思っていた。チェチェンで恥をさらしたガタガタのロシア軍を立て直し、2008年にはジョージアへの電撃作戦で勝利、中東ではシリアでの見事な闘いぶりに西側の目を見張らせた。近代化したプロ集団に生まれ変わった軍を背景に、2014年にクリミアを奪い、ウクライナ南東部に親ロシア地帯を作り、プーチンは人気絶頂となった。

ドニエプル河畔の修道院(キエフ)

プーチンがNATOの東方拡大を非難するのも一理ないわけではない。ソ連が崩壊するとき、「ヨーロッパの家」を信じ、ロシアを含む欧州平和構想を夢見たゴルバチョフと対照的に、西側は「勝利」に酔って、勢力圏拡大を続けた。「NATOの東方拡大はない」という西の口約束を信じたゴルバチョフが愚かだったのかも知れないが、明らかにこの時のロシアは、西側より高邁だった。

ところが、現実的合理主義者という僕のプーチン像は、一夜にして木っ端微塵に吹き飛んでしまった。4400万人の独立国に全面戦争を仕掛けるとは? それまでのプーチンは、巧妙な軍事行動によって、昔のような「怖いロシア」のイメージを取り戻し、それなりに大国の威信を回復する合理性があったのだが、そのやり方とかけ離れている。

この飛躍をどう解釈すれば良いのか?
ロシアがウクライナを侵略した2月24日に歴史の新しいページがめくられたと考えるのが正しいのかも知れない。冷戦後の紳士的な30年は終わった。この日、「強者は思うままに弱者を食う」新しい時代が始まった。新時代にあってプーチンの振舞は異常ではなく、ノーマルになるのだ。
国際政治学者のイワン・クラステフ氏はこう言う。「将来の研究者は、過去30年を戦間期と呼ぶだろう。せっかくの好機をつかみそこない、虚しくしてしまった時代だったと。」クラステフ氏は、戦間期のあとにどんな時代がやって来たというのだろう?

今日、私たちは皆このような世界に生きているのだ。ツキジデスの言葉を借りれば、「強者は持てる力でなしうることをなし、弱者は持てる力で受け入れざるをえないことを受け入れるものだ」

国境を侵さないという紳士的戦間期が終わったのならば、持つ能力のある国は競って核兵器を備えるだろう。僕は、開戦1週間後、越生の梅林見物を兼ね、丸木美術館に行って『原爆の図』を見た。裸で幽霊のように歩く被曝者が、もう過ぎ去った惨事としてではなく、いますぐ繰り返されるかも知れないリアルな姿として迫ってきて、3時間立ち去ることが出来なかった。

聖ソフィア大寺院の聖母モザイク(キエフ、11世紀)

しかし、重苦しい1週間が過ぎると、意外なことが起こっているのに気付いた。
第一に、ウクライナ人の武勇。
プーチンは、3-4日でキエフを制圧できると考えていたふしがあるし、ウクライナ人自身もロシアの圧倒的軍事力の前に1週間持ちこたえられないと覚悟していた。ところが、キエフに向かう数十キロの戦車の列は遅々として進まず、ウクライナのドローンと対戦車砲にやられ、続々と投降した。
南から攻めたロシア軍はずっと強かった。緒戦でロシア軍機がウクライナ軍のなけなしの戦車を破壊し、ウクライナ兵は追い散らされたが、ミコライウで、ロシア軍を押し返すのに成功した。はるかに劣勢の武力なのに、ウクライナ兵は三日三晩寝ないでロシア兵を攻撃し悩ませ続け、彼らが疲れ果てるまでがんばった。ロシアが捨てていった戦車を、町の自動車修理屋さんが修理し、ウクライナの旗を立てて再利用。ロシアの再進攻に備えていた。(3月15日現在、市民をねらった猛烈な空爆と砲撃が続いている)
市民も勇ましい。ロシアの戦車の前に立ちはだかって止めた男。不発の地雷を素手で取り出し、森の奥まで捨てに行った男……
年配のウクライナ婦人がロシア兵に近づき、ヒマワリの種をあげるからポケットに入れなさいと命じる。途方に暮れる兵士に向かって、「あんたが死んだら、ウクライナの大地にヒマワリ(ウクライナを象徴する花)が育つのよ」と、詩のような呪いをかける。若いロシア兵は「戦争に行く」とは知らされないまま戦地に来てしまったのだ。
ゼレンスキー大統領も驚きだ。政治経験ゼロのコメディアンだった人が、絶体絶命の国難にどう立ち向かうのか心配だったが、戦争が始まった日、西欧首脳たちに訴えた言葉が大きな感動を与え、ヨーロッパは前例のない厳しい経済制裁に踏み切る決意を固めたと伝えられる。歴史の流れを変える魂の叫びだったのだ。

ウクライナ独立教会の典礼(キエフ)

以前ウクライナ人から聞いた忘れられない言葉がある。ソ連崩壊直前、キエフで独立運動の闘士や宗教家などいろんな人に会ったが、ロシア人にくらべてどこか明るい。教会も清潔で親しみやすい、ちょうどヒマワリの花のようだった。彼らが言うには、「ロシア人は暗い。額に奴隷の刻印が押されている。ウクライナ人は自由の民です」。
ウクライナの人びとが、ロシアと対照させて自分たちを「自由の民」と定義するのには歴史的な理由がある。バルトのリトアニアに行ったとき、ある青年が「スターリンは2000万人のウクライナ人を餓死させました。それは歴史の本には書いてない。本当の歴史はここに刻まれているのです」と言って自分の胸を指した。ウクライナ人虐殺は、民族独立を願う人びと共通の神話だったのだ。かつてソ連崩壊を予言したエレーヌ・カレール=ダンコースはこう書いている。

東ウクライナは、恐るべき惨害をこうむった。集団化がこれほどひどい結果をもたらした土地は他にないほどである。スターリンにとって集団化はウクライナ民族主義を打破する手段でもあった。意図的に1932年から33年の大飢饉を起こさせ、300万人以上のウクライナ人が死んだ。許しようのない罪である。戦争もこれに劣らず残酷で、スターリンは裏切りの脅迫観念に取りつかれ、ウクライナ全体を強制移住させることを考えた。断念したのはウクライナ人の数が多すぎるからであり、しかも渋々諦めたのだった。(エレーヌ・カレール=ダンコース『民族の栄光』)

いまプーチンがウクライナをチェチェンのように焦土化する戦争を始めたのだとしても、ウクライナの人びとは、ロシアの犠牲となった先人の願いを裏切ることは出来ない。
キエフのジャーナリスト、アナスタシア・ラパティナさんは、「プーチンは悪い相手を選んでしまった」と書いているが、よりによって因縁深い相手に、またも襲いかかってしまったわけだ。ラパティナさんはニューヨーク・タイムズのコラムを「ウクライナは民主主義のためにどれほど高い代価でも払う用意があることを示した。私たちは決して降伏しない。なぜなら自由は不易だから」と結んでいる。

第二に原爆級の経済制裁。
ノーベル経済学賞受賞のクルーグマンは、開戦前、経済制裁に懐疑的だった。一番利くのは、石油・天然ガスの輸入禁止とSWIFTとよばれる国際送金システムからの除外だが、西側経済にとっても大打撃となるこんな強い制裁に踏み切れるはずがない。せいぜいプーチン周辺の大金持ちの資産を凍結するのが近道だ、と書いていた。ところが、3月4日のニューヨーク・タイムズでは「おかしなことが起こった。ロシアへの経済制裁は、これまでのところ非常に効果的で、制裁の対象になっていない商品の取引まで押さえ込んでしまった」と、自分の予測が外れたのを喜ぶかのような記事を書いている。クルーグマンが不可能と考えたエネルギー禁輸とSWIFTからの除外が実現しつつあるし、貿易・金融の公的制裁に加え、あらゆる分野での自発的制裁が拡がり、ロシアは世界から切り離された。クルーグマン先生によると、こういうのを経済学で「アウタルキー」と呼ぶのだそうだ。素人の僕らには、アウタルキー(経済的自給自足)と聞くと良いことのように思えるが、とんでもない。その例としては、なんと第二次大戦中の日本ぐらいしか見当たらないとか。ともかくも、きわめてまれな事態が起こったわけで、クルーグマンの予言によれば、いまロシアは大恐慌級の不況に向かって暴走中らしい。
大きな戦争は、必ず戦いのイノベーションをもたらすものだが、ウクライナ戦争の新戦法は、グローバル・ネット世界での経済戦争なのだろう。(ロシア・中国を除く)世界が同じ画像に同時に一喜一憂し、直ちに反応する時代だからこそ、巨大企業、超有名人、NGOなどが、政府とは関係なしに制裁やボイコットをする。いわばアドホックのウクライナ連帯グローバル・レジスタンス運動が起こり、プーチンのロシアを急速に孤立させたのである。
経済戦の破壊力をプーチンも理解し始めたらしく、「米欧の経済制裁は宣戦布告に匹敵する」と非難した。やがて「アウタルキー」戦術がロシアに原爆並みのダメージを与えることがわかったとき、プーチンは何をするだろう? 多くの専門家が警告するように、熱い原爆を撃ち返して報復するかも知れない。文明の存亡をかけたグローバルな戦いがもう始まってしまったのだ。

第三に民主主義世界の目覚め。
ここ数年来、民主主義への信頼は地に落ちた。トランプ、ボリス・ジョンソン、ブラジルのボルソナーロら道化師まがいの政治家がウソを垂れ流し、驚くほど多くの国民が喜々としてフィクションの「真実」に付き従った。イギリス、アメリカのような民主主義の先進国でさえ、簡単に堕落する。私たちは、民主主義がどれほどデリケートで壊れやすいものなのか、あらためて思い知らされ、希望を失いかけていた。民主主義が色あせるにつれ、プーチン流の強いリーダーの株が上がり、トランプもフランスの右翼ルペンも彼を崇拝した。権威主義が増殖し、民主主義への悲観ムードが蔓延し、保守の学者も革新の学者もリベラリズムを軽蔑し、揶揄する風潮になっていた。
この淀んだ無気力な民主主義世界に、プーチンの戦争は、活を入れてくれた。民主主義をおろそかにし、自由を失うとき、代わりに登場するのは何か?――民主主義に代わる選択肢、それは「プーチン」であり、どれほどの悲劇であるかを、皮肉なことにプーチンの戦争が私たちに教えてくれたのだ。
他方、ウクライナでは、Tシャツを着たユダヤ人の元コメディアン大統領が、大国の首脳に向かって、「亡命のための乗り物なんていらない。今日が最期かも知れないけれど……。武器をよこしなさい。戦闘機を!」と怒鳴りつける姿を見て、私たちはひさびさに本物の政治指導者を見る気がした。ロシア兵にヒマワリの種を与える婦人の声を聞いて、ぬるま湯の社会に暮らしながら、民主主義に失望していた自分たちを恥ずかしいと感じた。ウクライナ人の凜とした抵抗の姿を見て、自由にはどれほどの値打ちがあるかを、やっと思い出したのだ。
そして、またたく間にウクライナ連帯=反プーチンのグローバル統一戦線が結成された。ネット時代の倫理・文化闘争である。ロシアと名のつくものは、バレリーナから、サッカー・チーム、オーケストラまでボイコットされる。パラリンピックへのロシア参加がいったん認められた後、圧倒的な反対の声により、翌日には一転禁止になったのは、この倫理・文化闘争の急進性を象徴する出来事だった。ロシア拒否の津波は情け容赦なく世界のすみずみまで押し寄せ、止めどなく勢いを増してゆくだろう。音楽界の頂点に立つ指揮者ゲルギエフ、ソプラノ歌手ネトレプコ(僕は彼女の大ファンだが)もプーチンへの忠誠を捨てない限り容赦されなかった。

いま私たちは、武力以外のあらゆる手段を使って戦争を止めさせる戦いに、否応なしに巻きこまれているのだろう(アメリカの武力はベトナム戦争からイラク、アフガニスタンの戦いまで何一つ問題を解決できなかったのだから、「武力なし」は良いことだ!)。経済制裁の結果、物価が上がり、手に入らないものが出てきても、ウクライナの人びとのことを思って我慢しなければならないだろう。倫理・文化面でも、いま世界は戦時体制に入ったのであり、平時とは違う振舞が要求されるだろう。
なぜなら、この戦いに負ければ、「強者が思うままに弱者を食う」プーチン流が当たり前の世界になるかも知れないから。従って、ウクライナの人たちだけでなく、私たちの未来がかかった戦いなのだから。

(2022/03/15)