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特別寄稿|作曲家と演奏家の対話 X : 繊細に聴く・ということ|アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ & 金子陽子

作曲家と演奏家の対話 X : 繊細に聴く・ということ

アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ & 金子陽子

>>>作曲家と演奏家の対話
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金子陽子

先月号の対話『ピアニスト、パートナー』において、作曲家の意図を歪曲することもあるスターシステムの危険性に触れた。この音楽のビジネス界と密接な関係があるコンクールは、難曲をミスなしで何度も続けて、ほとんど自動的とも言える演奏をする強靭な演奏家を輩出する。しかしながらそこに、肝心な点が忘れられている。それは、聴き、即反応をする、という能力であり、演奏を真実なものとなし得る隠された鍵なのだ。

それぞれの瞬間が絶え間なく変化しながら繰り返されるという概念は、音楽と全ての舞台芸術、つまり、録音やヴィデオを介さないライヴの真髄である。はかなさを伴ったこの芸術的な観点は芸術家を動揺させるものであり、そのためにコンクールでの審査基準には考慮されない。

アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ (A.D.)

貴女の話は私に、活動を始めた若い音楽家やコンクールとは違った他の状況を喚起させる。それは、ベルリンフィルハーモニー交響楽団でカラヤンの前任だった指揮者セルジュ・チェリビダッケだ。当時(1950年代)LPレコードの録音が盛んになり、レコード会社のスタジオで何度も録音したテイクから最良の演奏を選んで繋ぎ合わせると想定されていたが、チェリビダッケはスタジオでの録音を拒否し、コンサートライヴしか引き受けなかった。オーケストラの多少のミスや観客の咳の音なども構わなかった。それは、チェリビダッケが進歩した録音技術を拒否したのではなく、貴女が、不思議な程はかない音楽の性格と舞台芸術の真実を守るように、音楽に対する哲学的な概念があった。そしてこの指揮者と音楽家達の集いは室内楽とそう遠いものでもなかった。

金子陽子

その通り。先ほどのコンクールについての話に戻るが、もしこの観点が、デュオや室内楽の作品を審査に取り入れ、演奏者がパートナーの音色、ホールの音響を理解し、会場の楽器(ピアニストの場合)のメカニックやタッチだけでなく、響き具合(更に弦楽器奏者の場合はピアノの調律のされ方)を聴いて即座に反応する能力が採点の基準となるなら、多くのコンクールの結果や入賞者の顔ぶれが違ったものとなるかもしれない。そして聴衆の受け入れ方も違ってくることだろう。

A.D.

確かに、この点はピアニストにまず関与することだろう。オーケストラに含まれる弦楽器、管楽器奏者は幼少時からピアノとのデュオから大きな編成、オーケストラまでアンサンブルを体験するものだ。その反対に、我々ピアニストは永遠に孤独だ。私自身思春期に数々の楽器と出会って初めてオーボエの学生と共演した時の歓び、それが私の人生を変えたこと、を思い出す。

金子陽子

ライヴのコンサートの究極の歓びは音楽家達が魔法のような瞬間を分かち合うことに存在する。そのようなことから、私達は(貴方は教育者として、同時に演奏会主催者として)聴衆達と手を繋ぎ、若い世代に演奏の機会を作っていくことが任務だと考える。

A.D.

その通り、そして聴衆の教育は、史実や作曲家の人生のエピソードより、彼らの感受性の発展を優先的に促すべきだと私は思っている。演奏会のプログラムが、表現豊かな素材の観賞を解説して感化させるのでなく、作品をめぐる日時や歴史や政治的出来事を記すだけで満足していることにいつも私は幻滅を覚えるものだ。

金子陽子

聴くという行為から我々は実に多くを学び、同時に異なった聴き方というものを学ぶ。乳児は心地よい音色を好んで聴き、無意識ながら確かな感受性を形成する。音楽院の生徒は意識的に自らの趣味を形成するために聴き、レパートリ−、演奏方法、作曲の技術などを見いだしてそこに作曲家の意図や各作品が持つ感情を発見する。そして、音を、震動が空間を伝わって最終目的である聴衆の耳と感受性に到達する音響素材としても認識する。

A.D.

そして、聴衆の来場前、会場と楽器を見いだす感動的な瞬間。

金子陽子

演奏者がホールに到着すると、ピアニストは自分が弾く楽器、パートナーにとっては共演する楽器(ピアノ)と対面する。ピアノのピッチ、音色、ペダル有無による響き方、聴衆が入場すれば変わることを想定したホールの音響を知る。私自身が共演した偉大な演奏家達がピアノの5度や3度の調律の特徴を素早く感知するように、弦、管楽器奏者達はピアノの調律のされ方にも対応して音程を探すことができる。このようにしてホールによって、ピアノによって違うこれらの要素を、聴衆の入場までに理解して対応していくのに最低3時間が必要だ。濃厚な3時間に全神経を集中して聴くことによって得る演奏家の対応能力というものは感嘆に値する。

A.D.

今月貴女は一連のマスタークラスと、貴女のクラーク製のフォルテピアノを持参してリサイタルを予定し、自身で調律もするとのことだが、5度と3度の調律の話について、多くの人が理解できるよう簡単に説明してもらえないだろうか? 取り上げるレパートリーについても語ってくれないだろうか?

金子陽子

北フランスのアミアン国立地方音楽院からの招きで3月10日から12日までマスタークラスとフォルテピアノリサイタルを予定している。コロナ災禍で停止した演奏活動が2年振りに再開した訳だが、この久しぶりの機会の準備をしながら、ウイーン式アクションを持つフォルテピアノが隠し持つ、親密で色彩豊かで純粋な音響の世界を、ほとんど驚愕に近い感動と共に私は再発見している。この過去の楽器は確かに華奢であり、会場の湿度や温度の変化ですぐに調律が狂う他、ウイーン式アクション特有の極度にシンプルな構造は、演奏者の姿を容赦なく映し出す鏡でもある! 指遣いの誤った選択、運指でのなめらかさの欠如は倍増して響いてしまう。

フェルディナント・リース・Ferdinand Ries 、1784年ボン生まれ、1838年フランクフルト没

この楽器が幾多の教えを私にもたらしたとはいえ、私はモダンピアノの長所を否定はしない。なぜならば、ピアノフォルテが必要とする最も洗練されたテクニックを習得後は、それを応用することによってモダンピアノに新しい響きの世界が開かれるからだ。モダンピアノも演奏者の数だけ異なって響くものなのだ。このマスタークラスでは私自身のアイデアで、フォルテピアノとモダンピアノを並べて配置し、弾き比べながら生徒達と古典ソナタを中心に勉強をする予定だ。ベートーヴェンは勿論だが、その弟子や同時代の作曲家から、作曲家で名ピアニスト、巨大な手を持ち13度(オクターヴと4度)の和音も弾け、ベートーヴェンと公開弾き比べ(競争)をしたという、ジョゼフ・ウェルフル(Josef Wölfl 1773年ザルツブルク生まれ、1812年ロンドン没)、そして、ベート−ヴェンの弟子、友人、ベート−ヴェンの作品の楽譜の複写(印刷機が発明された後に消滅した職業)をしていたフェルディナント・リース(Ferdinand Ries 1784年ボン生まれ、1838年フランクフルト没)を選んで幾つか作品を生徒達と共に取り上げた。この2人の作曲家の初期のソナタ集がべ−トーヴェンに献呈されたことからも(ウェルフルの作品6とリースの作品1)この時代のウイーンで聴かれた音楽の全体の傾向とベートーヴェンが与えた影響について知ることができ興味深い。(これらの作品の譜面はインターネットIMSLPのサイトで無料ダウンロードが可能である)

ジョゼフ・ウェルフル・Josef Wölfl 、1773年ザルツブルク生まれ、1812年ロンドン没

そして更に、私が心から大切に思うことがある。それは評価されなかった、もしくは忘れられた過去の作品を甦らせ『この作品が忘れられたのは正当だったか?』とこの機会に問い続けながら、情熱を持って演奏して紹介するという姿勢だ。これは若いピアニスト達にとって又とない演習となるだけでなく、先入観や社会的評価に流されずに、作品自身と向き合ってそこに読み取れる表現(レトリック)、未知な作品の創造性やオリジナル性を見つける態度を奨励することでもある。これらの作品にCD録音等がほとんど存在しないのは幸いな状況でもある。このような環境でのこの体験は、生まれたばかりの現代作品の世界初演と同じ価値のある作業だと私は考える。

マスタークラスでは12人程の生徒がハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタ、シューベルトの即興曲、リースとウェルフルの作品を取り上げ、私自身もリサイタルでモーツァルトのイ短調のロンド、ベートーヴェンの月光ソナタ、ハイドンの変ホ長調ソナタ、シューベルト、先に述べたリース、ウェルフルの作品を取り上げる。

調律について、複雑な音律(テンペラメント)の種類の領域には入らず、簡単に説明してみよう。すべての調性と音程を均等に調律されているモダンピアノでは、弦楽器奏者が探究する純正な3度と5度が存在しない。この不完全さ(濁り)は作曲家が作品を書く段階で要求して聴いた和音の輝かしさを損なってしまっていることになるのだが、音律を使って調律に工夫することによって特定の調性や和音に作曲家が欲した純粋さや強烈さを与えることができる。このような効果は、卓越した弦楽器奏者や、更に優れたチェンバロ、フォルテピアノ奏者が(調律によって)得る事ができる。

緻密で洗練された音響の世界は私達に沢山の魅惑の音響体験を提供してくれる。

A.D.

我々の対話は映画のシナリオのように展開した。スターシステムやコンクールの一般的なアップの画像から始まって、次第に要求が高い演奏家が課す繊細な聴き方にズームショットされた。それは同じ様に聴衆がこの繊細さに集中して耳を傾け、天体のハーモニーの反映でもある和声の純粋さを聴き取ることを誘っているのだ。

(2022/3/15)

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アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ

1958年セルビアのベオグラードに生まれ、当地で音楽教育を受ける。高校卒業後パリに留学し、パリ国立高等音楽院作曲科に入学、1983年に満場一致の一等賞で卒業後、レンヌのオペラ座の合唱指揮者として1994年まで勤務すると共に主要招聘指揮者としてブルターニュ交響楽団を指揮する。1993年から98年まで、声楽アンサンブルの音楽監督を勤める。1994年以降はフランス各地(ブルターニュ、ピカルディ、パリ近郊)の音楽院の学長を勤めながら、指揮者、音楽祭やコンサートシリーズの創設者、音楽監督を勤める。

作曲家としてはこれまでに、およそ10曲の国からの委嘱作品を含めた30曲程の作品を発表している。

作品はポストモダン様式とは異なり、ロシア正教の精神性とセルビアの民族音楽から影響(合唱の為の『生誕』、ソプラノとオーケストラの為にフォークソング、ヴァイオリンとオーケストラのための詩曲、ハープシコードの為の『エルサレム、私は忘れない』、オーケストラのための『水と葡萄酒』など)或は他の宗教文化の影響を受けている以下の作品(7つの楽器の為の『エオリアンハープ』弦楽オーケストラの為の『サン・アントワーヌの誘惑』、声楽とピアノの為の『リルケの4つの仏詩』、合唱とオーケストラの為の『ベル』など)が挙げられる。

音楽活動と並行して、サン・マロ美術学院で油絵を学んだ他、パリのサン・セルジュ・ロシア正教神学院の博士課程にて研究を続けており、神学と音楽の関係についての博士論文を執筆中。

2019年以来、フォルテピアノ奏者、ピアニスト、金子陽子の為にオリジナル作品(3つの瞑想曲、6つの俳句、パリ・サン・セルジュの鐘)アリアンヌの糸とアナスタジマのピアノソロ版が作曲されて、金子陽子による世界初演と録音が行われた。

Entendre

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金子陽子

桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
https://yokokaneko.wordpress.com/