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Books|『音楽と越境』| 大田美佐子

音楽と越境

監修:井上さつき 編著:森本頼子
著: 七条めぐみ 深堀彩香 黄木千寿子 山口真季子 籾山陽子 大西たまき
音楽之友社
2022年2月10日出版
2700円

Text by 大田美佐子 (Misako Ohta)

 

日々、更新される戦時の暴力的なニュース。分断された社会の双方で繰り広げられるフェイク・ニュースとプロパガンダに、一般市民としての非力を思い知る。書き手の創造性と発想を重んじつつ、客観性を重視する「学術論文」は、行き詰まった世界にあって、こんな時こそ、読みたくなるジャンルなのかもしれない。そんな時、この本を手に取った。本書のテーマである「越境」には、異質な他者と新しい分野と邂逅し、見知らぬものへの理解の扉を開こうとする清々しさがある。

本書『音楽と越境』には、8編の学術論文が収められている。近代フランス音楽史と日本の洋楽器受容史の専門家として、日本の音楽学を牽引してきた、井上さつき教授(監修者)の退官記念の論文集でもあるが、収められている論文は、「直接的間接的に越境をテーマ」にし、音楽研究をより多角的に展開していこうという大きな志がある。「越境」する研究に必要なものは、境界のどちら側の世界にも対応できる技術(語学や専門知識)だけではない。森本は師の井上から「人間の営みとしての音楽研究」の懐の深さを学んだという。

本書の構成は、以下のように、第1部「日本洋楽史における越境」、第2部「宗教・思想をめぐる音楽の越境」、第3部「越境する音楽研究 -音楽学の横断的アプローチ」の三部に分かれている。いずれも、これまでの問題の射程を広げ、新たな視点を設定することで、これからの音楽研究、特に「グローバルな音楽研究」にとって示唆に富む論考となっている。

第1部 日本洋楽史における越境
-第1章 大正時代の日本におけるドイツ兵俘虜の音楽活動 – 「俘虜楽団」の目指した音楽実践 (七条めぐみ)
-第2章 白系ロシア人が伝えたオペラ – 大正期「ロシア大歌劇団」の日本巡業 (森本頼子)
-第3章 楽器と関税 – 1920年代日本のピアノ輸入税引上げをめぐって (井上さつき)

第2部 宗教・思想をめぐる音楽の越境
-第4章 キリシタン時代のイエズス会による日本宣教と音楽 (深堀彩香)
-第5章 聖歌〈聖なる神〉とその変容 – ビザンティンから西欧、そしてポーランドへ(黄木千寿子)
-第6章 指揮者ヘルマン・シェルヘンの音楽思想 -ロシアでの抑留経験から「シューベルト・ブック」へ (山口真季子)

第3部 越境する音楽研究 – 音楽学の横断的アプローチ
-第7章 音楽と言語学
 ヘンデル《快活の人、沈思の人、中庸の人》における英詩の扱い -発音・韻律の視点から (籾山陽子)
-第8章 アートマネジメント研究、音楽と現代社会
 新型コロナウィルス危機とロックダウン -立ち上がる米国のクラシック音楽家達とイノベーション (大西たまき)

たとえば、「大正時代の日本におけるドイツ兵俘虜の音楽活動」(七条めぐみ)では、収容所ごとにまとめられていたドイツ兵俘虜の研究が、ドイツや青島での音楽活動との繋がりへと視野を広げ、俯瞰したかたちで問われる。「白系ロシア人が伝えたオペラ」(森本頼子)では、日本側の史料とロシア側の史料を付き合わせ、その活動の地域展開を明らかにすることで、ロシア歌劇団と日本との邂逅の実像を描こうと試みる。「楽器と関税」(井上さつき)は、経済活動や政治的思惑が音楽の実践やその環境に分かち難く結びついていることを、豊富な史料から裏付ける。「ロシアでの抑留経験」という視点から、指揮者ヘルマン・シェルヒェンの音楽思想とシューベルト理解を論じた論考(山口真季子)。「新型コロナウィルス危機とロックダウン」(大西たまき)では、危機に直面して持った問題意識からでさえ、人を繋ぐ力を手繰り寄せてしまうアメリカのコミュニティーのポジティブな人間力の力強さが活写される。

ここで行われている音楽研究とは、異文化、異分野との邂逅である。日本は島国で、国際感覚に疎いと評されることも多いが、この論文集で投げかけられる視線の行き先は豊かで多様だ。この読後の爽快感はどこからきたのか? リアルに越境できない今だからこそ、学問の自由や音楽研究での「越境」の尊さが心に響く。そして、これらの研究を可能にしているのは、まさに私たちがこれからも守るべき平和であることに感じ入ってしまうのだ。

 (2022/3/15)