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小人閑居為不善日記|男らしさの巧妙な隠蔽――スパイダーマンとドライブ・マイ・カー|noirse

男らしさの巧妙な隠蔽――スパイダーマンとドライブ・マイ・カー
A Clever Cover-Up of Masculinity

Text by noirse

※《ドライブ・マイ・カー》の結末に触れています

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話題作《スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム》を見に行った。《アベンジャーズ/エンドゲーム》(2019)以後の、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の方向性を決定付ける重要作と言っていい。

両親を失い、メイおばさんと暮らしているピーター・パーカー(スパイダーマン)の物語は、「父の不在」のもと、どのように成長するかが核となる。そこでフォーカスされるのが「男らしさ」だ。

容易に想像がつくように、アメコミヒーローものは長年にわたり男らしさがウリだった。けれどそれも潮目が変わりつつある。DCの《ワンダーウーマン》(2017)は女性ファンからも支持され大ヒット、マーベルでも《キャプテン・マーベル》(2019)で女性ヒーローを誕生させた。

男のヒーローも男らしさの取り扱いがポイントになってきている。《エンドゲーム》のソーは一族や仲間を守れなかったショックで暴飲暴食に走って激太りし、母親に泣きついてようやく男らしさを取り戻す。配信されたばかりのドラマシリーズ《ホークアイ》(2021)も、ある女性を救えず失意に陥ったホークアイが、ケイト・ビショップを弟子のように育てるうちに立ち直っていく。つまり仮の父親となることで男らしさを再獲得するのである。

スパイダーマンはもともと「男らしい」ヒーローのカウンターとして生み出されたキャラクターだった。過去2回の映画化でもピーターの未熟さは描かれてきたが、MCU版では今までよりもその点を強調している。《エンドゲーム》のバトルシーンで、女性たちに庇護されながら戦うシーンは象徴的だ。けれど《ノー・ウェイ・ホーム》でピーターは男らしさに目覚めていく。

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《スパイダーマン:ホームカミング》(2017)、《スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム》(2019)の過去2作では「父の不在」が強調されてきたが、《ノー・ウェイ・ホーム》では男らしさの再獲得というテーマに移行した。ここで重要になるのが「治療」というモチーフだ。

今回からマルチバース(多元宇宙)という概念が前面化し、過去のスパイダーマンシリーズ――サム・ライミ版(2002-07)とアメイジング・シリーズ(2012-14)――に登場したヴィラン(悪役)が何人も迷い込んでくる。スパイダーマンのヴィランは概ね根は善人であるにもかかわらず事故などにより負の感情が引き出され、ダークサイドに飲み込まれてしまった者が多い。ピーターは彼らを殺すに忍びず、「治療」して元の世界に返そうと試みる。

そんなピーターの鏡となる人物として、過去シリーズのピーター・パーカー2人が登場する。特にアメイジング・シリーズのピーターは最愛の相手を救えなかったショックから回復できていない。けれどヴィランの治療を手伝うことにより、男らしさを回復する。

ピーターにとって、ヴィランや自分の分身を治療することは自己治療でもある。ピーター自身も今回の事件により大きな傷を負ったが、復讐には走らず、ヴィランを「治療」することで憎悪の壁を乗り越えようと決心する。そうすることでピーターは成長し、メイおばさんやMJら、女性たちがいなくともひとりで生きていける「男らしさ」を取得するのだ。

しかしこれではダイバーシティを追求していたマーベル映画が、失ったマッチョイズムの復興へと逆行しているように思える。自分自身と共闘していくピーターたちは究極のホモソーシャルであり、増幅された男の自己愛と取れなくもない。

女性に割り振られた役割も大きく後退している。クールで他人を寄せ付けなかったMJは優しいガールフレンドへと軟化しているし、メイおばさんはピーターに自信を付けるための踏み台となってしまっている。

マーベルのダイバーシティ路線は高く評価されていたため、これは批判されるかと思いきや、評判はすこぶるよいようだ。表向きは多様性を称揚しても、心の底では昔ながらの「男らしい」ヒーローを求めているということなのだろうか。

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同じことを感じたのが、日本映画《ドライブ・マイ・カー》(2021)だ。公開したのは昨年で、カンヌでも複数の賞に輝いていたが、今年になってゴールデングローブの非英語映画賞を受賞するにあたり、急速にスポットライトが当たっている。ゴールデングローブ賞はアカデミー賞の前哨戦と言われていて、前者で評価されると後者での受賞率が上がると噂されている。《パラサイト》(2019)のアカデミー賞受賞のようなサプライズが、日本映画でもワンチャンあるのではというわけだ。

《ドライブ・マイ・カー》評価の理由のひとつに、「男らしさの回復」が挙げられる。主人公で俳優兼演出家の家福は、病気で死んだ最愛の妻が生前に複数の男と関係を持っていたことを受け入れられず、2年の月日が経っても戸惑いの中にある。そんな折に広島の演劇祭のワークショップに招かれた家福は専属ドライバーのみさきを雇うことになる。行動を共にするうちに彼女が心の傷を抱えていることを知り、トラウマを共有することで互いに自信を取り戻していく。

監督の濱口竜介は《親密さ》(2011)や《ハッピーアワー》(2015)と、人間心理の襞に分け入る観察力、演劇の生成プロセスと物語の融合による大胆な手法などが高く評価されていた。だがそんな人物が村上春樹の原作を映画化するというニュースは、先行きを不安にさせるものがあった。村上は以前からマッチョな描写が疑問視されており、濱口の作風とはかけ離れていると感じられたからだ。

ベイビー、わたしの車を運転してよ
だってわたしはスターになるんだから
あなたは車を運転していればいい
そうしたらあなたのことを好きになるかもね

ビートルズの〈ドライヴ・マイ・カー〉(1965)の歌詞だ。車とは女性自身を指している。昔からロックやブルースやR&B、今でもヒップホップでは女性を車にたとえることが多い。品のない歌ではあるが元曲は軽快なロックンロールであって、チャック・ベリーなどのシンプルなソングライティングへのリスペクトという面もあるのだろう。

村上はもともと同曲からタイトルを引いていて、それはそれでいい意味でも悪い意味でも彼らしいのだが、濱口も「車=女性」のイメージを素朴に流用してしまったのはどうなのだろうか。家福はもともと女性蔑視的な面があり、女には的確な運転はできないと初めはみさきの雇用を拒否する。しかしみさきのドライビング・テクニックに家福は驚き、彼女の才覚を高く買う。けれどこれは家福が女性の見方を改めたということではなく、みさきだけに「マイ・カー」に招き入れられる権利を与えたということだ。

映画のラストはみさきが家福が乗っていたのと同じ車に乗って走っていくシーンなのだが、これもみさきが「マイ・カー」に同化してしまったという風にしか取れない。家福にとってみさきは、彼が失った「男らしさ」へと導く態のいい「車」に過ぎない。

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妻の浮気相手、役者の高槻の存在も無視できない。高槻は女性にだらしなく暴力的で、家福が失いつつある男性性を増幅させた人物として用意されている。しかし高槻は暴力事件を起こし、社会的制裁を受ける。それが家福の「男らしさ」を回復させるきっかけのひとつとなる。

家福は妻の件の影響で、役者として舞台に立つ自信も失っていた。けれど急遽空いた高槻の穴を埋めるため、代役を務めることを決意する。みさきと同じように高槻も、家福の自信を回復させるための道具だ。

演劇人としての家福についてもう少し触れておこう。家福にとって男性としての自信と役者としての自信は繋がっている。役者としては弱みを見せながらも、演出家としては厳しい指導者として君臨し続けている。男性性という権威を放棄する素振りは見せかけで、すべてを手放すつもりはないということだ。

家福は常に安全圏にいて、その立場が脅かされることはない。男性の暴力的な面は高槻に分担して、自身の加害性について省みることもない。《ドライブ・マイ・カー》は男性性失墜の苦悩を反省的に描くように装っているが、結局マッチョイズムは温存されている。それを感じさせない演出力と構成力は賞賛に値するが、作品自体は受け入れ難い。

しかしこれがポリティカル・コレクトネスの嵐が吹き荒れる欧米でも評価されるとはどういうことなのか。どの映画賞もホワイトウォッシュや差別問題を指摘され、一見クリーンに生まれ変わったような顔をしているが、内実は変わっていないのだろうか。

《ノー・ウェイ・ホーム》と《ドライブ・マイ・カー》は、多様性を賛美する現代映画への反動に他ならない。しかし両作とも評価は高く、観客や業界人たちが本当に望んでいるものが何かを端的に示唆している。

娯楽性の高いヒーロー映画がそうなるのはよく分かるのだが、《ドライブ・マイ・カー》のように表面的に男性性の失墜を描きつつも隠れて「男らしさ」を満喫している様子を見ると、根は深いと言うしかない。そういう意味でこの2本は、たしかに現代を代表する作品なのだろう。

2月9日、《ドライブ・マイ・カー》がアカデミー賞作品賞始め、計4部門にノミネートされたことが発表された。授賞式は3月27日(日本時間28日)にロサンゼルスで行われる予定。

(2022/2/15)

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noirse
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