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未来に伝える三善 晃の世界 III|西村紗知

未来に伝える三善 晃の世界 III
The World of Akira Miyoshi III for the future

2021年12月10日 東京オペラシティ リサイタルホール
2021/12/10 Tokyo Opera City Recital Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 福田隆/写真提供:三善音楽を未来に伝える会

<演奏>        →foreign language
カルテット・アマービレ(弦楽四重奏)
佐藤紀雄/土橋庸人(Gt)
山澤 慧(Vc)
福田 薫(Pf)

<プログラム>
三善晃:
 母と子のための音楽(2002)~チェロとピアノのための
  山澤 慧(Vc)、福田 薫(Pf)
 C6H(1987)~チェロのための
  山澤 慧(Vc)
 プロターズ-遠景より無景へ(1974)~2台ギターのための
  佐藤紀雄/土橋庸人(Gt)
 エピターズ(1975)~ギターのための
 五つの詩(1985)~ギターのための
  佐藤紀雄(Gt)
―休憩―
 弦楽四重奏曲第1番(1962)
 弦楽四重奏曲第2番(1967)
 弦楽四重奏曲第3番-黒の星座(1992)
  カルテット・アマービレ(弦楽四重奏)
 黒の星座(1989)~ギターと弦楽四重奏のための
  土橋庸人(Gt)、カルテット・アマービレ(弦楽四重奏)

 

三善晃の作品はどこか聴きづらいように思う。フランス音楽由来の趣味の良い柔和さが印象としてはあるけれど、聴き終わったあとの経験全体としては、硬派でとっつきにくいといった感じが残るような気がする。これがアカデミズムの響きか、とも思うが、アカデミズムに帰することのできない、もっとこの作曲家特有の特性が潜んでいるような気もする。この特有の分かりづらさは何に由来するのだろう、と筆者はときたま考える。
音響のオリジナリティで直接訴えてくることがない、というのが一番最初に思いつく理由だ。しかし、様式としてぱっと把握できる感じではないとはいえ、そもそもカメレオン的な作曲家には該当せず、なんにしても柔軟なイメージとは最も遠い。それは、子供向けの作品は例外だが、いつも屹立せんと、敢然とした趣であるからだ。高踏というよりもっとストイックな感じがある。
聴きづらいけれども何か惹き付けられるようなところがある。それは、三善作品の音響そのもののみならず、三善晃という作曲家、いや一人の人間が、かかずらった問いに否応なしに引きずり込まれるような感覚、と言ってみた方がよいかもしれない。

「母と子のための音楽」はいずれもメロディックな、5つの小品からなる作品。1曲目は伸びやかな子守唄で、イ長調からヘ長調へと移行する際の解放感が印象的な二部形式。2曲目は、鐘あるいは降雪のようなピアノの高音部とチェロの低いところから上がっていく音型とがコントラストをなしている。5曲目もまたチェロの上行形のメロディーが印象的で、伸びやかな感触をあとに残しこの小品集は終わる。

「C6H」は跳躍するまばらな音の配置が特徴的な作品だ。しかし、山澤の演奏は書法を丁寧に辿るので、中心的に用いられるモティーフが変化することを通じて展開をかたちづくるというこの作品の特徴がしっかり把握でき、なおかつ作品全体を首尾よくまとめることに成功していた。松葉形のクレッシェンド・デクレッシェンドのコントロールが、作品の要所要所に遠近感をもたらしていた。音が遠くへふわふわと漂ったり、近くへと迫ってきたりするのである。

続くギターのための作品では、ギターという、儚げな印象を残す減衰音の楽器で演奏されるがために、むしろストイックな書法の方が印象的には勝るので、不思議な心地であった。
「プロターズ-遠景より無景へ」。同じことを繰り返す。長七度の響きが印象的。トレモロでもタイミングがきっちり合わせられている。ずっと弱奏であるが、弱弱しさや病弱さとは全く異なる。
「エピターズ」。これも音型がしっかりとして崩して演奏される感じではない。なにかシンメトリー構造があり、規則性が強い。
「五つの詩」。拍がきっちり揃えられている。グリッサンドでもそうだ。かつ、メロディーもしっかりと聴こえてくる。
三善晃は意外とメロディーメーカーなのかもしれない、という発見があった。

休憩後、後半は弦楽四重奏作品。
弦楽四重奏曲の第1番(1962)と第2番(1967)からは、曲調とか性格と呼ばれるものを排除したいという作曲家の強い意志が感じられるようだ。音の断片が楽器間で受け渡されてひしめき合い、さながら全てがコントラプンクトのようである。音楽のきっかけをつくるのは大抵チェロかヴィオラのような気がするが、「これをはじめとする」とわかる断言がどこにもないようで、どこを切り取っても常に何かの続きのような感じがする。
形式への意志。ひょっとすればこれは、メロディーメーカーであるという自覚がこの作曲家のうちのどこかにあり、そこから禁欲的に導き出された方向性なのかもしれないと想像する。
第1番第1楽章冒頭、チェロの高音が高らかに鳴り響き、ヴィオラの方が低いところで演奏する。全体的に音域が密集している場面が多い。この音域の密集による緊張感は曲の最後まで解消には至らなかったように思う。
第2楽章、チェロから縷々はじまる変奏。セカンドヴァイオリンの立ち位置、役割がなかなかに難しそうだった。
第2番の第1楽章は、狭い血管の内部に勢いよく流れる鮮血のごとく速い。ベルクの抒情組曲を思い起こすような曲調である。しかしこの作品は、ベルクの楽章にあるようなしどけなさや退廃とは、不思議と無縁だ。
形式への意志は退廃には耐えられないのではないか。
第1番、第2番に対し、第3番「黒の星座」(1992)はいくらかその意志が弛緩しているような感がある。マッシブな抒情性が、塊状に凝集したメロディーから醸し出される。解消されない声部のこじれ。それなのに、急に音量が上がったりするのは何によってだろうか。
「黒の星座」(1989)。ギターが加わっても、曲調はストイックで書法は密だ。
しかし、ということは、つまり楽器編成が変わっても弦楽四重奏編成の作品と変わらないところの方が多いとなると、実のところなにか作品内部に必然性の欠くところがあるのではないか。楽器ごとの主体的な関係構築の力によるフォルムの壊れもまた、作曲家の意志が引き出さねばならないものではなかったのではなかろうか。
ギターはあまりのびのびとはできない。窮屈に鳴っているし、もう少しで埋もれてしまいそうである。

三善晃の作品の聴きづらさは、作曲家と素材との間の関係の、強度のある閉鎖性に由来するのかもしれない。彼の生み出す音響自体が彼自身の人格に課した試練のようでもある。彼と素材とが緊密に関わり合った記録文書として、彼の作品が残されているといったようだ。つまり彼の音楽においてはあらゆることが生成ではなく事後であり、もう、他人にできることはなにもないのだ、という諦念のようなものすら感じられる。作曲作品は生み落とされてからがその生のはじまりなのに、もう、なにも間に合わないのではないか、と思えるほどに、仄暗い予定説と生の苦しみとが彼の作品の内部に存在しているのではないか、と筆者は思う。
すべてをはじめ、そしてすべてを自分で終わらせたのかもしれないと、筆者はこの演奏会の間に思っていた。それが作曲家の責任なのだと、残された彼の作品は聴衆一人一人に向けて語っているようである。

(2022/1/15)

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<Artists>
Quartet Amabile
Norio Sato/ Tsunehito Tsuchihashi(Gt)
Kei Yamazawa(Vc)
Kaoru Fukuda(Pf)

<Program>
Akira Miyoshi:
 Music for mother and child for cello and piano(2002)
  Kei Yamazawa(Vc), Kaoru Fukuda(Pf)
 C6H for cello(1987)
  Kei Yamazawa(Vc)
 Protase “de loin à rien” for two guitars(1974)
  Norio Sato/ Tsunehito Tsuchihashi(Gt)
 Epitase for guitar(1975)
 5 Poèmes for guitar(1985)
  Norio Sato(Gt)
―intermission―
 String Quartet No. 1(1962)
 String Quartet No. 2(1967)
 String Quartet No. 3: Constellation Noire(1992)
  Quartet Amabile
 Constellation Noire for guitar and string quartet
  Tsunehito Tsuchihashi(Gt), Quartet Amabile